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又貸し

−1−

「理佳、これ読みたがっていたろ?」
 学校帰りのハンバーガー・ショップ、坂下理佳のボーイフレンドである水木由紀夫は、鞄から一冊の文庫本を取り出しながら言った。
 溶けていないストロベリー・シェイクを吸い込むのに夢中だった理佳は、その本を見た途端、ストローから唇を離した。
「ああーっ! 『緋色の夢』だぁ! どうしたの、それ!?」
 店内にいた他の客が振り返るほどの声をあげて、理佳は由紀夫から手渡された本をひっくり返したり、中をペラペラとめくったりして眺めた。その子供のような仕草に由紀夫は苦笑してしまう。
「この前、中学の時の友達から借りたんだ。その本を探すのに、お前に散々、振り回されたの思い出してさ」
 二ヶ月前のデートで、由紀夫は理佳に請われて、近くの書店や古本屋を全て回り、問題の本を探したことがあった。
 この『緋色の夢』は、人気作家である飛田龍之介が若き頃に書いた短編集なのだが、出版元が倒産し、現在は入手困難となっている。元々、読書好きな理佳なのだが、まさに今、飛田龍之介がマイ・ブームとなっており、どうしても読みたくてしょうがなかったのだ。
 もちろん喉から手が出るほど読みたい本。だが──
「借り物かぁ……。じゃあ、ダメだね」
 又貸しをしてもらってまで読もうという気にはなれない理佳であった。だが、由紀夫は首を横に振った。
「大丈夫だよ。もう、オレが持ち主みたいなもんだから」
「どうして? まさか、また賭けマージャンしたの?」
 理佳の冷たい視線が突き刺さる。どうやら由紀夫は、時折、友人たちと賭けマージャンをしているようで、よく金がないとぼやいているのだ。理佳はまた、その借金の形か何かで巻き上げたものかと思い、幻滅した。
 由紀夫は慌てた。
「違うって! そんなじゃねーよ! 純粋に借りただけだ! ただ、そいつが一昨日、死んじまってさ……」
 由紀夫のトーン・ダウンに、理佳の表情も曇る。
「マジ?」
「ああ、一昨日、登校するときに駅のホームから転落してよ……」
 理佳は手にしていた本が血にまみれているような錯覚に陥り、カウンター・テーブルに放り投げた。
「エグ〜い……。そんな人の本を私に貸すの?」
「別に死んだ人間の持ち物だからって、呪われているとかってことはねーだろ!」
 理佳の露骨な反応に、由紀夫の言葉にも怒気がこもった。
「ううっ……私、ヤダ、気持ち悪い!」
「お前なあ! オレがせっかく借りてきてやったんだぞ! そういう態度、取るか?」
「だってぇ……」
「分かった! もう、いいよ!」
 由紀夫は完全に怒って席を立った。
 だが、カウンター・テーブルの上にある本を取り返そうとしなかった。
「ちょっと、どうすんのよ、この本」
 行こうとする由紀夫の背中に声をかけた。
「好きにしろよ! オレは理佳と違って、本なんか読まねーし、いらなきゃ捨てちまえよ!」
 由紀夫は投げやりにそう言うと、本当にハンバーガー・ショップから出て行ってしまった。
「なーによ、あの態度! すっごいムカつく!」
 理佳は腹立たしさを押さえきれず、冷め切ったフィッシュ・バーガーにむしゃぶりついた。
 ふと、視線がテーブル上の『緋色の夢』に止まる。一度、視線を外すが、無視を決め込むことはできなかった。思わずため息をつく。
 死んでしまった人の物だということには抵抗があるが、今、このチャンスを逃したら、『緋色の夢』を読めるのはいつのことになるやら。
 理佳は意を決したように手を伸ばすと、本を鞄にしまい込んだ。
 由紀夫が残していったてりやきバーガーやポテトも平らげ、理佳が家に帰り着いたのは夕方も六時になろうとしていた頃だった。玄関に入ると、理佳とお揃いのローファーが二足。
「ただいまー」
「理佳? 朋美ちゃんたちが待っているわよ」
 奥から母が出てきて、来客を告げる。
「いっけなーい! 宿題を一緒にやろうって約束してたんだ!」
 理佳は慌てて、自分の部屋に駆け込んだ。
 中には同級生で親友でもある児島朋美と石田陽子が、ベッドや机を占領し、CDコンポで音楽を聴き、雑誌を広げていた。勝手知ったる他人の家、である。
「遅い、理佳! 何やってたの?」
 待ちくたびれた陽子が追求してくる。いつもなら自慢げに由紀夫とのデートをのろけるのだが、ケンカした手前、笑ってごまかすしかない。
「ごめん、ごめん! ちょっち用事が……」
 うまい言い訳が思い浮かばず、理佳は散らかった部屋を横切って、鞄を机の上に置いた。
「あー、そうそう、なんか飲むでしょ? 午後ティーでいい?」
「うん」
「なんでもいいよぉ」
「じゃあ、ちょっくら行ってくるわ」
 理佳はその場から逃げるようにして、飲み物を取りに行った。
 それから『緋色の夢』のことは、すっかり忘れてしまった理佳であった……。


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