RED文庫]  [新・読書感想文]  [次頁→



月がみている

−1−

「まるで死にたそうな顔だな」
 そのセリフは、その場にはふさわしくなかったかも知れない。
 周囲には肌寒くなった夜風からお互いの体を温めるかのようにカップルたちが寄り添い、その眼下にはライトアップされたベイブリッジや停泊する客船がまるで散りばめられた宝石のように瞬き、遠くには天を支える光の柱のようにランドマーク・タワーがそびえ建っている。
 横浜港の夜景。
 甘い睦言を囁くムードの中、冗談でもそのようなキツイ言葉を投げかける人間はいないだろう。
 オレは違うがな。
 なにしろ、その女はたった独りで身動き一つせず、ずっと立ちつくしていたのである。昼間ならともかく、夜ともなればカップルたちのメッカともなるこの港の見える丘公園で、連れ合いもなしに独りでいる女の表情など決まり切っていた。
 女は隣に並んだオレの方を何の感慨もなく振り向いた。
 それはまるで生気のない顔だった。明るい笑顔でも作れば結構な美人になるとは思うが、今の彼女では魅力が乏しいどころか、知らん顔して通り過ぎたくなる。オレが吐いたセリフもあながち的外れではないのだ。
 女はオレの頭のてっぺんから爪先まで眺めた後、興味なさそうに夜景へと視線を戻した。いや、その視線の先は夜景よりももっと遠くを見つめているようだった。
「ナンパのつもり? なら、用はないわ。消えてくれる?」
 けだるそうな女の声。めんどくさいといった感じだ。
 だが、オレだって負けちゃいない。
「ご挨拶だな。オレがそんな男に見えるか?」
 オレの言葉に、もう一度だけ女が一瞥を向けてきた。だが、それも刹那、
「さあ。でも、真面目な勤め人って感じもしないけど」
 と、反応の鈍さは変わらない。
 オレは内心、苦笑した。やはり声をかけるべきではなかったのだ。分かってはいたが、どうにもオレの性分としては黙っていられなかった。この職業向きではないのかも知れない。
 だが、それと知って声をかけた手前、そうですかと簡単に引き下がるわけにもいかなかった。
「さっきから何を見ている?」
 オレは内ポケットからマルボロを取り出しながら女に尋ねた。答えなど期待しちゃいない。現に女は黙ったままだ。
「夜景か?」
 オレはなおも続けた。ライターでマルボロに火をつける。ゆっくりと肺を煙で満たし、紫煙を吐き出す。
「それとも、過去ってヤツか?」
 オレの切り札に、初めて女が動揺を見せた。オレを怖い顔で睨む。
「あなた、何者?」
 オレはじらすようにマルボロをくゆらせた。
 女は考えている。オレが何者かを。
「私のこと、どこまで知っているの?」
 どうやらオレのペースになってきたようだ。オレは顔がほころびそうになるのをこらえた。
「ほんの少しさ。全部じゃない」
「私が誰かとか?」
「ああ」
「どこで──」
 と、女は言いかけ、言葉を飲み込んだ。何かを得心したようだった。
「あの人のご両親ね? あなた、探偵?」
「何のことだか」
 オレはとぼけた。だが、女は自分の考えが正しいと判断したようだった。
「連れ戻しに来たの?」
「いいや」
「私の消息をつかむだけ? だったら、私はこの通り元気よ。そう報告すればいいでしょ」
「オレはさっき言ったぜ。死にたそうな顔だって」
 女はハッとして顔を逸らした。唇が堅く結ばれる。
 オレはマルボロを無造作に捨てると、靴底ですりつぶした。
「少し歩こうか」
 オレは女を促した。
 女は少し考えてから、
「私の自由を保障してくれると言うなら」
 と条件を提示してきた。
 オレは躊躇せずにうなずいた。
「よかろう」
 オレと女は歩き始めた。


<次頁へ>


RED文庫]  [新・読書感想文]  [次頁→