←前頁]  [RED文庫]  [新・読書感想文



月がみている

−5−

 オレはやや放心状態の女の腕を引きながら、伊勢佐木町から野毛へ抜け、桜木町駅を通り過ぎて、イルミネーション瞬くみなとみらいへとやって来た。ここは先程の山下公園のように海に面しているが、遊園地やショッピング・センターがあるため、カップルの他にも若者のグループや勤め帰りのサラリーマン、OLの姿が見られる。
 今頃、事故が起こったショット・バーは、警察や救急車が来て、大変なことになっているだろう。おそらくは酔って転倒した際の事故として片づけられるはずだ。
 ランドマーク・タワーと大観覧車を望める海沿いのベンチで、オレと女は一息ついた。もっとも女の方はそれどころでなかったかも知れない。愛する恋人のカタキを討とうとして、思いもかけない幕切れを目の当たりにしたのだから。
 オレは懐から、最後の一本となったマルボロを取り出して、口に咥えた。
 しばらく、静寂と紫煙だけが二人の体を取り巻いていた。
「死んだかしら……」
 女が囁くように呟いた。ようやく心の整理がついたらしい。
 オレは明かりが揺れる暗い海面を見やりながら、
「死んだだろうよ」
 と答えてやった。
 また、しばらくの時が経ち、オレは吸い終わったマルボロを指で弾いて、海に捨てた。その炎は儚い蛍か人の魂のような軌跡を残し、消えた。
「非道な悪は、例え人が見逃しても、月はちゃんと見てたってことさ」
 オレは夜空に浮かぶ月になぞらえてみた。オレにしては洒落たセリフだ。内心、驚いた。
「それは……」
 女の茫洋とした喋りは変わらなかったが、焦点は次第に定まってきていた。
「それは神様が天罰を下したってこと?」
 オレは首を横に振った。
「月は月だ。あのお月さんは、地上の全ての生死を見守っているのさ」
「ふーん」
 女も月を見上げた。月は凍えそうなくらいに冴え渡っていた。
 オレはその月に対し、背を向けた。
「で、これからどうする? カタキを討つって目標はなくなっちまったぜ」
「………」
「それでもやっぱり、死んだ恋人が忘れられねえか?」
「………」
「何なら、オレが忘れさせてやってもいいんだぜ」
 それは不意打ちだった。女の前に立ち、顎を上向かせる。そして、黒い瞳をじっと見つめた。見つめ続けた。
 女は顔を背けない。女も見つめている。オレの黒い瞳を。
 オレは顔を近づけた。少し小首を傾げるようにして。
 女はオレを受け入れようとしたのだろう、瞼を閉じた。
 そして──
「やめておくわ」
 女はオレから離れながら言った。視線を漂わせる。
「どうしてだ?」
 オレは尋ねた。自分でも似合わないプレイ・ボーイを演じているようで、苦笑したくなった。
 女は漂わせた視線をある一点で止めた。オレにはそれが月だと分かった。
「月が見てるから」
 女の理由に、オレは笑い声をあげそうになった。
 そうか。それならばそれでいい。
 女はこれからまた自分の人生を自分で歩んでいくと決心したのだ。それは死んだ恋人を忘れると言うことではなく、恋人との思い出を胸に秘めながら、なおも強く、なおもこれから。
 生きることを決意した女に、オレの出番はもうない。オレは生きるものにとって嫌われる存在であり、死を間近にした者の友なのだから。
 オレは死神。
 人間の姿はしちゃいるが、人間ではない。どうやら女は探偵だと勘違いしたらしいがね。
 死は確かなものではない。不確定なものなのだ。だが、そろそろ死にそうだとか、死にたがっているということは、オレたち死神には分かる。だからオレたちは、そういう人間たちのそばに赴き、魂を回収し、持ち帰るのが役目だ。それが地獄だか天国だかは言えないがね。
 実のところを言ってしまえば、あのブロンドの男が死んだのも偶然ではない。彼が連れていた女の一人は、オレと同業である。彼は今日、死ぬ予定だった。だから、あのナンパ女の姿をしたご同輩が赴いたのだ。ブロンドの男はオレたち死神の持つ“死の接吻”を受けた。あの仲間たちに見せびらかせていたキスである。きっと今頃は彼女も人知れず姿を消しているだろう。
 だから、オレが今夜、この女に接触したのも仕事だ。もっとも彼女の場合は不確定な死で、どっちに転ぶか判断に迷っていた。だが、女はオレとのキスを拒んだ。“死の接吻”を。それは生きることを選択した証だった。
 それもいい。別にオレたち死神は人間を殺して楽しんでいるわけではないのだから。どのくらい先になるかは分からないが、彼女の臨終の際には再び会うこともあるかも知れない。
「タクシーを拾おう」
 オレは女を促して、タクシー乗り場へと向かった。
 月はそんなオレたちを、ただ静かに見下ろしていた。


<了>


←前頁]  [RED文庫]  [新・読書感想文