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月がみている

−4−

 私は化粧室の鏡の前で口紅を塗り直すと、改めて鏡に写った自分の顔を見つめた。
 精一杯の化粧で隠してはいるが、このところの疲れがありありと見て取れた。だが、それも今夜でお終いだ。今夜で。
 とはいえ、懸念もある。
 あの探偵の男、私が何をしようとしているのか知っているのかもしれない。接触をしてきたのは今夜だが、すでに数日前から私を発見し、尾行などをしていた可能性も考えられる。となれば、もちろん……。
 まさかとは思うが、土壇場で邪魔される場合も考えなければならない。そのときは……。私は覚悟しておくことにした。あの男に恨みはないが、目的の達成のためには仕方がない。
 私は服装のチェックもしてから、化粧室から男の所へと戻った。そのとき、店内を一通り見渡しておくことも忘れない。大丈夫、まだだ。
 私が席に戻ると、男はハンドバッグを無言でよこしてきた。
 私は中を調べられたかと思って、一瞬、受け取る手に躊躇した。
「どうした?」
「ううん。別に」
 何気ない風を装って、私は男とは反対のスツールにハンドバッグを置き、そっと開けた。手を潜らせて、中のものが無事か確かめる。
 あった。ハンカチで包まれたままだ。
 私は内心、ホッとした。
「酔ったか?」
 男は心配そうな顔も見せずに尋ねてきた。
「別に」
 私は素っ気なく答えておくことにした。
 そこへ、カラーンという鐘の音が聞こえた。店の入口に備え付けられた人の出入りを知らせるベルが鳴ったのだ。私は反射的に入口の方を振り向いた。
 下卑た笑い声と耳に響く嬌声がドアをくぐってきた。先頭にブロンドの髪が見える。
 あいつだ!
 私からあの人を奪った男!
 ブロンドの若い男はどこかでナンパしてきたらしい遊び人風の女の子を両脇にはべらせながら、店内へとやってきた。その後には続々と仲間らしい大学生風の男たちを引き連れている。ほとんどが見た顔だった。
 私は慌てて彼らに背中を向けた。彼らが私の顔を憶えているとは思えなかったが、用心に越したことはない。
 隣にいた探偵はそんな私を見て怪しんだのだろう。自分も振り返って、大学生たちを見やった。
「何だ、あれは?」
 男は私に質問したのだろう。だが、私は無言を押し通した。
 ところが、そこへバーテンダーが首を突っ込んできた。
「あの金髪に染めているヤツが、有名な代議士の息子らしいですよ。親の金で、毎日ああやって遊び回っているんです」
 客のことをペラペラと喋るバーテンダーだ。ロクなものではない。
「ほお」
 男は感心なさそうだったが、私の方を窺うことを忘れなかった。気づかれたか?
 大学生とナンパされた女の子の一行は、一番奥にあるテーブル席を占領した。ウエイターに乱暴な言葉でオーダーし、ソファにふんぞり返っている。粗野な笑い声とマナーに反した携帯電話。もう、好き勝手し放題だ。
 ブロンドの男の両隣には相変わらず二人の女の子がはべり、男の胸板や内腿に欲情した手を這わせていた。一方、まんざらでもない男の方も女の子の胸を揉み、短いスカートの中へ手を差し入れようとしている。男も男なら、女も女だ。
 そのうち、舌を絡め合う激しいキスを始めた。愛情表現と言うよりは、他の者に見せつける意味合いが窺い知れる。その証拠に、男の目は他の者の反応を楽しんでいるように動いていた。
 取り巻きの男たちはそれをどう見ているのか、ある者は下品でだらしのない笑顔を見せ、ある者は無関心を装おうと努めていた。
 その一行に黒いタキシード姿の男が近づいた。どうやらこの店の支配人らしかった。
「お客様、他のお客様の迷惑になりますので、もう少しお静かに願いたいのですが」
 支配人らしい男は丁寧な物腰で頼んだ。
 それに対し、ブロンドの男を始め、皆が爆笑した。
「お静かに、だとさ」
「こいつ、分かってるのかね?」
 明らかに代議士の父親の名前を盾にして、聞く耳を持つつもりはないようだった。
 ブロンドの男が懐から何かを取り出し、床に捨てた。それは一万円の札束だった。
「金なら払うよ。なんだったら、貸し切りにしてくれてもいい」
「そりゃいいな!」
「貸し切り、貸し切り!」
「よお、どうするよ、オッサン」
 支配人らしい男はしばらく立ちつくしていたが、やがて札束を拾うと、一礼して去っていった。同時にまたまた大爆笑の渦だ。
 私はそれを眺めるだけで吐き気がした。あいつらはいつもあのようなことをやっているのだ。あの人が殴り殺されたのは、酔っていたからとか、そういうことではないというのがハッキリと分かった。
 あいつらが警察に逮捕されないのも、父親である代議士から何らかの手が回っているのだろう。でなければ、あのようにヤジ馬がいた事件で、未だに犯人が捕まらないと言うのもおかしい。このままでは、奴らは罪も償うことなく、のうのうと生きていくに違いない。そして、私のような悲しみを背負う人間が増えていくのだ。
 私の手は、ハンドバッグの中へと伸びていた。
「!」
 その手を強い力でつかまれた。探偵の手だった。
「殺ろうってのか?」
 それは私だけに聞こえる低い声だった。カウンターの中にいるバーテンダーは気がついていない。
 私は男の手を振り払おうとした。だが、抗えない。
「私の自由を保障すると言ったでしょ?」
 私も小さな、それでいてハッキリとした声で返した。
 しばらく無言で、私と探偵は目を合わせたまま動かなかった。
 この一ヶ月、毎夜、伊勢佐木町を歩き回って、ようやくここに現れることを突き止めたのだ。それを台無しにしたくなかった。
 やがて、ブロンドの男が立ち上がるのを私の視界が捉えた。トイレにでも行くようだ。
 チャンスである。
「邪魔しないで。私はあの人のカタキを討つのよ」
 私はこのまま探偵が邪魔をするなら、彼も刺す覚悟だった。
 すると、唐突に探偵の手が離れた。カウンターの方に向き直り、グラスに口をつける。
「勝手にしろ」
 私は探偵に礼も言わず、ハンドバッグを持ったまま、席を立った。
 私の前を背中を見せながらトイレへと歩いていくブロンドの男。すでにどこかで飲んできたのか、その歩様は危うげだ。右へ左へぐらりと揺れる。ほら、ちゃんと真っ直ぐトイレへ行きなさいよ……。
 次の刹那、ブロンドの男の体が大きく右へ傾いだ。そのまま体勢を整えることも出来ず倒れ込む。
 不運にも倒れた先にはガラスのテーブルがあった。頭からそこへ突っ込む! 私は目をつむった。
 ガシャーン!
 派手にガラスが砕け散る音が店内に響いた。間髪を入れず、女性の悲鳴。それはナンパされた女の子のどちらかだったろうか。ブロンドの男の名を呼ぶ仲間の声も上がった。
 ブロンドの男は、割れたガラスに首筋を切ったようで、暗い照明にもそれと分かるくらいおびただしい量の出血をしていた。それを床の絨毯が吸い込む。それでも追いつかないほどに血だまりが出来た。
「救急車!」
 仲間たちの叫び声。だが、誰も自分たちが携帯電話を持っていることまで思い至らないようだった。
 私は突然の出来事に、その場に立ちつくしていた。
 殺そうと思っていた男。それが、こんな事故であっけなく死んでしまうなんて……。いや、もちろん死んだと決まったわけではないが、この出血を見てしまうと助かるのは奇跡に近いように思える。
 ふいに私の腕が引かれた。探偵だった。
「ここにいると面倒なことになりそうだ。出よう」
 私は答えることもできなかった。ただ男に手を引かれるまま、店を出た……。


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