RED文庫]  [新・読書感想文]  [次頁→



泥御坊

−1−

「暇だなぁ」
 オレはあくびを噛み殺して、つい呟いてしまった。仕事場の机に頬杖をつき、生あくびをしていれば、普通、上司からは睨まれ、同僚からは苦笑されそうなものだが、私を監督する立場の上司はここにいない。同僚もだ。なにせ、ここは山陰地方の山間にある寒村の交番。勤務するのはオレ一人。上司も同僚もここから二十キロ離れた町の警察署にいる。
 そもそもオレがこの寒村──南天沼村の駐在勤務になったのは、前任の初老警官が病気になったからだ。年齢のせいもあるだろうが、噂ではガンじゃないかって言う話もある。とにかく復帰するまでか、ちゃんとした後任が決まるまで、オレに代行して欲しいという打診が来た。
 それまで駅前繁華街の交番で激務をこなしていたオレにとって、それは渡りに船だった。なにしろ、交番の先輩と反りが合わなかったこともあり、どこでもいいから勤務先を変えて欲しかったのだ。村の駐在となれば、一人で気ままにのんびりと仕事が出来るだろうと、安直に考え、二つ返事で引き受けた。
 ところが、着任してすぐこそ村の人たちが入れ替わり立ち替わり訪れて、まだ二十四歳と若い警官であるオレを物珍しそうな感じでねぎらってくれたが──と言っても、年輩の方が多かったのだが──、お昼を過ぎた頃になると、それも一段落。オレは一人、交番で時計の針とにらめっこし、退屈で死にそうになっていた。村民わずか百五十名程度の小さな村では、頻繁に事件など起こるはずもないし、長年、暮らしている自分の村で道を尋ねに来る者もいない(オレの方が村に疎い始末だ)。初日からこれでは、この先が思いやられる。
「あーっ、イライラするッ!」
 オレは一人で喚いて、一人でジタバタした。もし、ここで誰かが見ていたら、驚いて目を丸くしたに違いない。
 オレは思い切って立ち上がると、交番の外へ出た。空は青く澄み渡り、すがすがしい天気だ。
 交番に一人でいるのは飽きたので、オレは自転車に乗って、村をパトロールすることに決めた。ジッとしているよりは遙かにマシである。それに村の駐在になったからには、村の隅々まで知っておくことは必要だ。
 舗装されていない道をオレは走りだした。乗り心地はいいと言えないが、春のうららかな陽気に気持ちよくなってくる。つい調子に乗って、五、六年くらい前に流行った流行歌を鼻歌混じりに歌い出した。オレがカラオケで必ず歌う十八番だ。
「おまわりさ〜ん」
 畑から作業しているおばさんが、オレに気がついて愛想良く手を振ってくれる。オレは帽子の鍔に手をやって、軽く会釈した。
 行く先々で、同じ挨拶が繰り返された。皆、オレの両親か祖父母くらいの人たちばかりだ。彼らにしてみても、オレを子供か孫のように見ているのだろう。だから、町では近寄りがたい感じがする制服警官にも気軽に声を掛けてくるに違いない。朝、話を聞いたところでは、この村も他と変わらず、若者は町や大都市に出てしまい、過疎化が進んでいるという。そう言えば、子供の姿はまったく見られなかった。
 オレは村を一回りすると、最後に山の方へ行ってみた。昔は林業が盛んだったということだけあって、深い緑が林立している。檜だろうか。木に関して詳しくはないが、木材として充分に使えそうな立派な幹に育っているように見える。ここまで来ると、少し空気がヒンヤリしてきた気がした。
 そんな山の木ばかりに気を取られていたせいだろう。突然、山の方から目の前に何かが飛び出してきて、ドキリとした。
「うわぁ!」
 オレは急ブレーキを掛けた。慌てた拍子にバランスを崩し、砂利道だったこともあって、派手にスリップしたが、なんとか態勢を維持する。そして、冷や汗を拭う暇もなく、目の前に飛び出してきたものを確認した。
「おまわりさん」
 舌っ足らずな声が呼んだ。飛び出してきたのは、小さな男の子だった。まだ小学校に上がるか上がらないかくらいで、半ズボンから剥き出しになった足は泥だらけだ。どうやら山を滑り降りてきたらしい。
 オレは自転車から降りて、男の子に近づいた。
「こら、危ないじゃないか」
 オレは大人げない叱り方にならないよう気をつけながら、男の子に注意した。繁華街の交番で勤務していた頃は、夜、塾帰りの子供たちに声を掛けることが多かったので、その辺は心得ている。ただでさえ制服姿の警官が高圧的な態度になっては、子供から敬遠されるだけだ。
 しかし、効果のある怒り方というのは難しい。現に男の子は堪えた様子がなかった。
「新しいおまわりさん?」
 男の子はオレの顔をしげしげと眺めながら言った。村の子であれば、“おまわりさん”と言えば、前任の初老警官しか知らないのだろう。
「そうだよ」
 オレは第一印象が大切と、笑顔を作りながら答えた。すると男の子はオレの制服の裾を引っ張って、
「大変だよ! 誰かが倒れているんだ!」
 と、山の方を指さす。
 オレは考え込んだ。子供の言うことだ、いたずらだろうか。いや、もし本当であれば、見過ごしに出来ない。とにかく確認してみる必要があった。この村にはオレしか警官がいないのだから。
「坊や、案内してもらえるかい?」
「うん」
 男の子はうなずくや否や、そのまま山の斜面を登り始めた。オレはその後をついていく。
 男の子は山に慣れているのか、まるで小猿のようにするすると登っていったが、オレの方はと言えばそうもいかなかった。斜面は湿気を帯びてぬかるんでいるし、転ばぬようにつかむ木の枝を選びながら移動するのは骨が折れる。子供と大人の足なのに、オレは男の子に置いて行かれそうになった。
「大丈夫?」
 男の子が振り返って、オレの様子を窺ってくれる。まさか「ダメだ」とも言えまい。
「はっはっは、大丈夫だよ」
 オレは強がって見せた。その姿は格好のいいものではないが。
「もうすぐだから」
 男の子はそういうと、さらにスピードを上げたように登って行った。たちまち姿が見えなくなる。オレは天を仰ぎたくなった。
 それでも途中で音を上げることだけはせず、オレは山を登りきった。そこは山腹にある細い山道だ。靴はドロドロ、足よりも枝をつかんだ腕力で登ったせいか、腕は鉛のように重い。思わず苦しくて、大きく喘いでしまった。
 だが、そこで男の子がジッと待っていたので、オレはウソでも息を整えねばならなかった。小さな子供に警察官の情けない姿を見せるワケにはいかない。これは警察官の使命感というよりもオレのプライドだ。
「それで誰かが倒れていたのはどこだい?」
 オレは男の子に尋ねた。すると男の子は山道をさらに登る方角を指差す。
「分かった。キミはここで待っているんだ」
 オレは男の子にそう言うと、慎重に足を進めた。
 こんな山の中で倒れているとは行き倒れだろうか。大人が遭難するような山ではないが、発作か何かで具合が悪くなった事も考えられる。まさか、殺人犯が死体を捨てていったわけでもあるまい。繁華街の交番では一通りの事件を扱ったが、殺人事件だけはまだなかった。出来れば、ご遠慮願いたい事件である。
 オレは少しでも先を見通そうと、前屈みの姿勢になりながら、山道を踏みしめた。突然、足場が消失した感覚を味わったのは、次の瞬間である。
「うわぁ!」
 オレは無様な悲鳴を上げ、爪先から穴に落ちた。しかも、穴の底には五十センチくらいの水たまりが。オレは尻餅をつくような格好で、腰から水に浸かってしまった。
「あはははははは!」
 頭上からは男の子の楽しげな笑い声。オレはまんまと男の子のイタズラにしてやられたのである。さすがに人の好いオレも頭にきた。
「このガキーっ!」
 オレは落とし穴から這い上がると、逃げ出す男の子を追い掛け回した。


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