その朝、ようやく気がついた。
尾形忠雄は、四、五日前くらいから、家族の異変を感じていた。だが、それが何なのか、これまではハッキリと分からなかったのだ。いつも通りに見える父と母、そして弟の勇雄。元々、一家団欒の会話が弾む家族ではなかったが、数日前から、どうも忠雄に対してよそよそしく思えてならなかった。忠雄を見る冷たい目。もちろん、忠雄は家族たちを問いつめたが、彼らは何も答えなかった。
そして今日、ようやく家族たちの明らかな異変に気がついた。
尾形家の朝食は和食が定番だが、忠雄以外の家族たちが箸を握る手は左だった。以前は忠雄も含め、全員が右利きだったはずだ。それが、なぜ、突然。
家族は、忠雄の視線も気にならない様子で、いつも通り、食事を摂り始めた。彼らの様子を観察してみると、箸使いが右から左になったにも関わらず、まったく危なげがない。別に忠雄をからかうために、みんなが示し合わせたわけでもなさそうだ。
家族たちは黙々と食事をする。忠雄は左利きのことを問いただそうかと思ったが、やめた。どうせ、答えてはくれないだろう。それよりも、そのとき自分へ向けられる冷たい視線の方が怖かった。
忠雄は、これは一体どういうことなのか考えた。
豹変した態度と利き腕の変化。導き出される答えは、彼らが別人になったと言うことだ。もちろん、利き腕が変わったこと以外は、外見的には何一つ変わっていない。中身だけが変わったのだ。だが、それがなぜなのか、どうしてなのかが分からない。
家族たちは次々と食事を終えた。考え事をしていた忠雄だけが残される。そんな忠雄に、家族たちは何の反応も示さない。まるで関心がないのか、それとも存在自体が無視されているのか。
忠雄も手早く食事を済ませた。食器を流し台に運び、急いで歯を磨くため、洗面所へ行く。
洗面所には先客がいた。弟の勇雄だ。勇雄も忠雄同様、食事の後にはすぐ歯を磨く習慣がついている。勇雄はやはり左手で歯ブラシを持っていた。
「おい、勇雄。いつから左利きになったんだよ?」
さっきは父と母もいたのでためらったが、ここは弟一人。勇雄は忠雄よりも二つ年下の中学三年生だが、兄弟喧嘩ではいつも忠雄が勝っていた。だから強気に出られる。忠雄は背後から、軽く勇雄の腿を膝で突いた。
しかし、勇雄は無視したように歯を磨き続けている。忠雄はカッとなった。
「おい!」
忠雄は弟の肩をつかんで、振り向かせようとした。すると勇雄は兄の腕を振り払うようにした。思いがけないほどの強い力。忠雄は身構えていなかっただけに後ろに倒れてしまった。
「何すんだよ!」
忠雄は怒気も露わに叫んだ。だが、兄を見下ろす勇雄の目を見て、言葉を呑み込んでしまう。ゾッとさせるような冷たい目。それは兄を見る目ではなかった。
勇雄は口をすすぐと、倒れた忠雄をそのままに、玄関の方へ立ち去った。あんな弟を見るのは初めてだ。そして、初めて弟にひっくり返された屈辱が次第に湧いてくる。
「クソッ!」
忠雄は床に拳を叩きつけてから、起きあがった。
一体、家族たちはどうなってしまったのか。忠雄は考え込んだが、さっぱり分からない。
それよりも恐ろしい考えが忠雄の頭に浮かんだ。
変わったのは、家族だけなのだろうか。
忠雄は恐ろしい考えに囚われながら、学校へ向かった。