いつもと変わらぬ通学路。そして、普段通りに見える道行く人々。
しかし、この中の何人かは、忠雄の家族同様に中身が別人になっているのかも知れなかった。
前方に自動販売機で缶コーヒーを買った若いサラリーマンがいた。そのサラリーマンはその場で缶コーヒーを飲むつもりだったのだろう。飲み口であるプルトップを開けようとした。
ところが、そのサラリーマンはなかなか缶コーヒーを開けることが出来なかった。無理もない。そのサラリーマンは左手でプルトップを開けようとしていたのだから。以前、何かのテレビ番組で、缶コーヒーなどのプルトップは右手で開けるように出来ていると、忠雄は見たことがある。左手では開かないのだ。このサラリーマンが左利きで、缶コーヒーを生まれて初めて飲むとは思えない。きっと、このサラリーマンも別人になってしまい、ついクセで、右手から左手に変わった利き腕を使ってしまったに違いなかった。
忠雄は缶コーヒーと格闘しているサラリーマンと視線を合わせないようにしながら、その横を通り過ぎた。
どうやら、忠雄の恐ろしい考えは当たっていたようだ。中身だけが別人になってしまったのは、忠雄の家族だけではなかったらしい。
それが明らかになると、忠雄は周囲の人々の多くが急に普通の人間とは異質のものになったような気がして、思わず歩く速度が速くなった。
高校に到着しても、忠雄の不安はおさまらなかった。この学校にも、昨日とは違う同級生たちが何食わぬ顔で紛れ込んでいるに違いない。それを一目見ただけで判別できないから、余計に厄介だ。
忠雄は自分の教室に入ると、クラスメイトに挨拶もせず、席に着いた。そして、教室内をこっそり見渡す。
誰にこのことを相談すべきか。忠雄は迷った。よく見極めて、相手を選ばなくてはいけない。人選を誤ったら大変だ。
まず、真っ先に思い浮かんだのは、仲の良い岡本と山口だ。二人は教室内にも関わらず、持ってきたゴム・ボールでキャッチ・ボールをしていた。迷惑この上ない行為だが、すでにクラスメイトたちは諦めている。何度、注意してもやめないからだ。忠雄もその仲間の一人で、三人揃ってクラスでは鼻つまみ者扱いされていた。
相談するならば、まずは彼らだろう。しかし、一目でそれは断念させられた。岡本も山口も左手でボールを投げていたのだ。どちらも本来は右利きのはずである。彼らもまた、変わってしまったのだ。
その他に誰かいないか、忠雄は捜してみたが、利き腕がどちらだったか詳しく知らないクラスメイトの方が圧倒的に多い。それに授業でも始まらなければ、なかなか手を使うところを見られないだろう。
ホームルーム終了後、授業が始まると、その機会に恵まれた。だが、忠雄はすぐに後悔することになる。
教室内は圧倒的に左利きでノートを取る者が多かったのだ。比率から言えば、普通、右利きの方が多いはずである。それが逆転していた。つまり、それだけ別人に変わってしまった者たちが多いという証拠だ。
忠雄は恐ろしくなった。いつの間にこんな事態になったのか。わずか一日でここまで多くの人たちが変わってしまったとは思えない。家族の変化も、今朝、ようやく気づいたとは言え、数日前からおかしいと感じていたのだ。おそらく、クラスメイトたちも徐々に変わっていったのだろう。
これでは逆に味方を捜す方が困難だ。忠雄は暗澹たる気持ちになった。授業をする英語教師もまた、左手で英文をつづっていた。
その中で、ふと、一人の女子高生の後ろ姿が目に入った。鏑木礼美。二年生の中でトップの成績を誇る才女だ。しかし、その優等生ぶりは鼻持ちならぬくらいで、同じクラスの女子でも親しい者はいないと噂されている。制服のスカートも、今どきの短いものに比べれば、ようやく膝が出るくらいの丈だし、ルーズソックスが多い中、黒いソックスというのも野暮ったい。だが、彼女はそれで平然としていた。忠雄も敬遠しているタイプだ。
ところが、彼女を見て、以前と変わっていないと確信した。礼美は今、左手でシャープペンを握っている。忠雄の記憶が確かなら、礼美は元々、左利きだったはずだ。他の女子ならば、そんなことを知りもしなかっただろう。クラスから浮いている存在だけに、彼女の特徴を憶えていた。
いつもより長く感じた授業がようやく一段落し、待ちに待った昼休みになってから、忠雄は礼美に声を掛けてみた。
「鏑木、ちょっと話があるんだけど」
礼美は何も言わず、蓋を開けたばかりのサンドイッチのお弁当をそのままにして、忠雄に従った。
忠雄は礼美を屋上の入口まで呼んだ。忠雄の高校では屋上は開放されておらず、常時、入口は施錠されていた。そのため、教室があるフロアよりも上の階段まで、他の生徒たちが登ってくることは少ない。二人だけで話をするには都合が良かった。
忠雄は礼美に向き直ると、どう話を切り出そうか迷った。まず信じられないような、突拍子もない話だからだ。それに礼美とは一緒のクラスになってから、まともに会話したことがない。
だが、礼美の方から口を開いた。
「どうやら尾形くんも気がついたようね」
礼美は冷たい印象を作り出す眼鏡を直しながら、忠雄に告げた。一瞬、礼美が何を言っているのか分からなくなる忠雄。しかし、すぐにその意味するものが分かった。
「鏑木、お前……」
忠雄は驚愕に目を見開いた。
「あら、気がついたのは自分だけだと思っていた? 悪いけど、私は四日も前から気がついていたわ」
礼美らしい言葉。いつもなら忠雄の頭にカチンときただろう。だが、今は自分同様に異変に気がついた者がいたという事実に安堵した。
「知ってたのか」
これなら話が早いと忠雄は思った。だが、礼美の方は相変わらずクールな姿勢を崩さない。
「当たり前よ。むしろ、今まで気がつかなかった尾形くんの方がおかしいわ」
そうまで言われると、忠雄も頭に来る。
「知っていたんなら、どうしてオレに言わないんだよ。オレがまともだってことも分かっていたんだろ?」
すべてを見透かしたような礼美が腹立たしくなった。
しかし、礼美は平然とした様子。
「尾形くんに相談したところで、事態の解決になるのかしら? それに知らなければ幸せってこともあるでしょう?」
言うことがいちいち正論すぎて、忠雄はなおさらカリカリくる。女でなければ、手を出して黙らせているところだ。
しかし、礼美は今のところ、唯一の味方である。ここで仲違いするわけにはいかなかった。
忠雄は屋上の扉にもたれかかった。
「オレたち以外に、まともそうなヤツは知らねえか?」
「残念ながら、知らないわね。昨日なら、まだ何人かいたけど」
礼美は冷静に言った。彼女はこの異常事態に何の憂慮もしていないのだろうか。
「すると、この学校の連中は、ほとんど変わっちまったってことだな」
「ええ、それは間違いないみたい」
「ヤツらの目的は何だと思う?」
「目的? そんなの見当もつかないわ。まあ、これがSF小説なら、私たちの世界への侵略ね」
「侵略か……」
忠雄は礼美の答えに考え込んだ。ヤツらが何者か分からないが、人類に取って代わろうとしているのは確かかも知れない。その数は確実に増えているのだ。いつか世界はヤツらで埋め尽くされてしまうだろう。そうなったら人類はどうなってしまうのか。体を乗っ取られた人々は、自己の意識が消滅しているのかも知れない。忠雄は自分の意識の消滅を想像して恐ろしくなった。それは死ぬのと同じではないか。
「鏑木、どうしたらいい?」
忠雄は礼美に尋ねた。この優等生ならば、何か良策を考えているかも知れないと思ったからだ。
だが、礼美はかぶりを振った。
「さあ。思いもつかないわね」
あっさりした礼美の物言いに、忠雄は腰砕けになるのと同時に、事の重大さを理解していないのかと腹立たしくなった。
「お前、このままでいいのかよ?」
「とりあえず、私たちに対して危害を加えるわけでもなさそうだし、ほっといてもいいんじゃない?」
「バカ言うな! こんなこと黙って見過ごせるか!」
「じゃあ、何。彼らと戦うつもり?」
「それは……」
忠雄は言葉を詰まらせた。この静かなる侵略に対し、蹂躙される人類の生き残りとして怒りを覚えるが、実際問題、大勢の敵を相手に戦うのは不可能だ。これは単なるケンカではない。それに戦うと言っても、どうしたらいいのか。武器を手にして、相手を殺すのか。しかし、そんなことをして、消えた人々が戻ってくるとも思えない。
礼美は肩をすくめると、階段を降り始めた。それを見て、忠雄が慌てる。
「おい、どこへ行くんだよ?」
「教室。差し当たっての問題は、お弁当を食べて、私の空腹を満たすことよ」
そう言って、礼美は去っていった。やはり、世界で数少ない味方の一人とはいえ、忠雄は礼美に馴染めそうもなかった。とは言うものの──
ぐぅ〜っ!
「『腹が減っては戦は出来ぬ』か」
忠雄は情けなさを覚えながら、腹を押さえ、自分も昼飯を食べるために階段を降り始めた。