翌日。
忠雄が目覚めたのは昼近くだった。すでに礼美は学校へ行ってしまったようだ。ダイニングのテーブルに、書き置きとこの部屋のものらしい鍵があった。
『何度も起こしたけど、起きなかったので先に学校へ行きます。鍵は学校で渡してください。礼美』
結局、礼美とは別々の部屋で寝たのだが、妙に意識してしまい、なかなか寝つけない忠雄であった。まさか礼美を異性として意識するとは。クラスでは浮いた存在の優等生タイプ。落ちこぼれの忠雄とは正反対だ。こんな異変が起きなければ、一生、会話を交わすことはなかっただろう。それが今では、忠雄にとって大きな存在になりつつあった。礼美の感情が表に出ない表情も、次第になかなかの美人に思えてくるから不思議だ。
そんな忠雄がようやく寝つけたのは明け方近く。寝過ごしてしまったのも無理はない。
忠雄は何か食べる物はないかと冷蔵庫を開けてみた。
そこへ背後に人の気配がして、忠雄は振り向いた。そこに四十くらいの女性が立っていた。
「し、失礼しました!」
忠雄は慌てて、部屋から出た。マンションの外に出てから、ようやく女性が礼美の母親だと思い当たる。だが、礼美の母もヤツらと同類になってしまったのだろう。忠雄に何の反応も示さなかった。
忠雄は特に行くところもなく、学校へと向かった。到着する頃には昼休みになっているはずだ。
校門をくぐり、教室へ向かう階段の途中で、悪友の岡本と山口に出くわした。だが、彼らは忠雄の姿も目に入らない様子だ。バカ笑いをしながら、すれ違う。
その忠雄の耳に、岡本と山口が異口同音に囁いた。
「もうすぐ、お前の番だ」
その言葉に忠雄はゾッとし、振り返った。しかし、岡本と山口は何事もなかったかのように階下へ降りていく。
彼らが言った「お前の番」とは。忠雄も他の者たちと同じく、別人へと変じるときが来たという意味か。
「尾形くん」
階上から声がして、忠雄はおびえたように見上げた。礼美だった。
「どうしたの?」
礼美は忠雄の顔色の悪さを見たのか、心配そうに言った。忠雄は首を横に振る。
「い、いや、別に」
「昼休みにやっと登校するなんて、呑気なものねえ。何か食べてきた? 良かったら、尾形くんのお弁当も作ってきたけど」
礼美は二人分の弁当を手にしていた。忠雄は無理矢理、笑顔を作る。
「わ、悪いな。じゃあ、遠慮なくいただくよ」
二人は中庭で食べることにした。
空はよく晴れている。夏が近い。もう来週は、気温も一気に上昇し、外で昼食を楽しむのは今が最後になるだろう。
二人は木陰になったベンチに座り、礼美は弁当の一つを忠雄に渡した。
「いつもは私の分だけだから、サンドイッチとか簡単な物ばかりなんだけど、今日はちょっと力を入れたのよ」
礼美は少し恥ずかしげに言った。夕べの余韻を、少し引きずっているのかも知れない。二人の肩は触れ合いそうな距離にまで近づいていた。
弁当箱を開けると、そこには色とりどりのおかずと俵状に詰められたごはんが配されており、礼美の腕前と愛情が充分に感じられた。
「いただきます」
忠雄は表情をほころばせると、弁当に箸をつけた。さっきの不吉な言葉も忘れる。
礼美の作った弁当は、昨日のナポリタン同様、おいしかった。
「どう?」
「ああ、うまいよ」
忠雄はお世辞抜きに褒めた。
だが、その視線が礼美の手元に釘付けになる。思わず箸を取り落とした。
「何してるのよ、落としちゃって」
世話のかかる子供に言い含めるように礼美は注意したが、すぐさま忠雄のおかしな様子に気がついた。
「鏑木」
「何?」
「お前、右手で……」
礼美は右手で箸を持っていた。礼美は左利きのはずだ。
忠雄が何を言おうとしているのか悟り、礼美は右手を押さえた。
「これは……私、普段は左利きだけど、箸を持つ手だけは右なのよ。昔から親に注意されたものだから」
だが、忠雄は礼美の言い訳を聞いていないようだった。忠雄が立ち上がった拍子に、膝の上の弁当箱が落ち、中身がぶちまけられる。
「尾形くん!」
「ウソだ……オレを騙そうったって、そうはいかないぞ!」
「尾形くん、どうしたのよ? ウソじゃないわ! 箸とか食事のときは右利きなのよ!」
「ウソだ! ウソだ! ウソだぁーっ!」
忠雄は絶叫し、校舎へと逃げ込んだ。
岡本と山口が確かに言った。
「もうすぐ、お前の番だ」と。
やはりヤツらは、忠雄を見逃しはしなかったのだ。そして、礼美も。
忠雄は階段を登った。とりあえず、どこかに隠れたい。それには、あそこしか考えられなかった。
忠雄は目的地に到着すると、一人、膝を抱えて震えた。これから自分はどうなってしまうのか。考えれば考えるほど、恐怖に身の毛がよだった。
怖かった。自分の存在が消えてしまうことが。
恐ろしかった。自分一人になってしまったことが。
やがて、忠雄の耳に足音が聞こえてきた。それはゆっくりと忠雄の方へ近づいてくる。一歩、また一歩。とうとう、忠雄の身に魔の手が。
だが、ここからでは逃げようがない。忠雄は身を丸くした。
歯の根が合わず、ガチガチと鳴った。心臓の鼓動もハッキリと耳に出来るくらい大きくなっている。呼吸が苦しい。自然に汗が吹き出た。
足音はなおも迫る。ゆっくりと。ゆっくりと……。
礼美は忠雄を見つけた。最初、忠雄に引っ張られて来た屋上の入口だ。そこに体を丸めるようにしてうずくまっていた。
まさか、これほどまで忠雄が怯えるとは思わなかった。礼美が話した利き腕の説明は本当だ。スプーンやフォークは左手を使うこともあるが、箸だけは右手を使う。これまで礼美が箸を使う弁当を持ってこなかったのも誤解の一因だが、考えればすぐに分かりそうなものだ。もっとも、それだけ忠雄が人の利き腕に敏感になっていた証拠だろう。
「尾形くん」
礼美は忠雄に声を掛けた。だが、忠雄はまるっきり動かない。
「尾形くん?」
礼美は忠雄の肩に手を掛けた。すると、その手を邪険に振り払われる。
忠雄はすっくと立ち上がった。だが、礼美を見ていない。その反応は礼美を愕然とさせた。
「尾形くん、あなたも……」
忠雄は他の者たちと同様、別人になってしまっていた。もう二度と礼美を見ることはなくなってしまったのだ。
礼美の唇が震えた。たった一人の味方を失ってしまった。本当に礼美が最期の一人になってしまったのか。
だが、礼美はすぐに顔を上げた。眼鏡のレンズの奥に、力強い光を宿す。
「さようなら、尾形くん。私はあなたの分も頑張るわ。たとえ最期の一人になっても、私は私であるために決して屈しない」
礼美は忠雄に決別した。そして、忠雄を追い越すように階段を降りる。これからの孤独な戦いに覚悟を決めながら。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。