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静かなる侵略

−5−

「よお」
 忠雄は伏せ目がちに、玄関を開けた礼美に挨拶した。眼鏡のレンズの向こうから、冷ややかな視線が突き刺さる。
 忠雄が電話した相手は礼美だった。今、頼れるのは彼女しかいないのだ。
 礼美は電話してきた忠雄に自分の家を教えた。忠雄が他に行くところがないと分かっていたからだ。
 四十分後、忠雄は礼美が住むマンションに到着した。合わせる顔がなかったが、仕方がない。
 礼美は黙って、忠雄を迎え入れた。
「家族は?」
 狭いマンションの部屋に礼美以外の気配が感じられず、忠雄は尋ねた。
「お母さんがいるけど、夜は仕事なの。だから、私一人」
「ふ〜ん」
「お腹、減ってる?」
「え? ああ」
「じゃあ、スパゲティ作るから、こっちに座って待ってて」
 礼美は小さなダイニングに忠雄を通した。忠雄は意外そうな顔をする。
「お前、料理できるのか?」
 忠雄は尋ねた。からかう調子が含まれる。少し忠雄らしさが出てきた。
「ウチはかなり前から母子家庭でね、お母さんが夜、仕事に出ることが多かったから、家事は何でも出来るようになったのよ」
「へえ。その上、勉強までして、大変だな」
「私よりも苦労している人なんて、世の中に一杯いるわ。私は家庭環境を理由にして、甘えたくないの」
「へいへい、ご立派なことで」
 茶化した忠雄ではあったが、礼美の料理の手際は見事だった。さすが、やっていると言うだけのことはある。その後ろ姿を見ているうちに、忠雄は礼美との新婚生活を想像してしまい、慌てて頭を振り払った。
「はい、お待たせ」
 礼美はナポリタン・スパゲティを忠雄の前に出した。食欲をそそる、いい匂いがする。
「オレ、ペペロンチーノがよかったな」
「文句言わないで、さっさと食べる!」
「いただきまーす」
 忠雄はフォークにスパゲティを団子のように巻きつけると、大口を開けて、かぶりついた。五回噛んだところで、咀嚼が止まる。
「うまっ!」
「食べるか喋るか、どっちかにしなさいよ!」
 口を開いた途端にスパゲティを飛ばすのを見て、礼美は呆れたように言った。だが、その表情は微かに笑っているようだ。
 忠雄は礼美のナポリタンを凄い勢いで完食した。
「ごちそうさん」
「はい、お粗末様でした」
「何か、久しぶりに手料理を食ったって感じだなぁ」
「どうせ、コンビニのおにぎりとかカップラーメンしか食べてなかったんでしょ?」
「まあな。母ちゃんもオレの飯を作ってくれなくなっちまったし」
「ちょっとは栄養のことを考えて食べた方がいいわよ」
 礼美はそう言って、忠雄の皿を片づけ始めた。
 その礼美の後ろ姿に、忠雄は頭を下げた。
「昼間は悪かった。オレ、間違っていたよ。あれから好き勝手放題をしたけど、何もかもが虚しかった。制服でパチンコ屋へ行っても、人をぶん殴っても、誰もオレを見ちゃいない。家族からも忘れられた存在になっちまった。まるでオレ、幽霊にでもなったようだぜ。お前の誰かに認めてもらいたい気持ち、よく分かったよ。人間って弱いんだな。オレ、つくづく思い知った」
 礼美は洗いものをしながら、黙って聞いていた。それが忠雄には有り難い。自分の弱い部分をさらすのは、やはり恥ずかしいことだ。
 そして、忠雄はポツリと漏らした。
「なあ、これからオレたち、どうなるんだろうな」
 礼美は水道を止めた。そして、忠雄の方を向く。
「それは分からないわ。そもそも、どうしてこんなことが起きたのか。どうやって人々は別人になっていくのか。私たちが知っていることと言えば、別人になった人は利き腕が逆になるってことだけ。それが意味するものまでは分からない」
「オレたちもいずれ、別人に取って代わられちまうのかな?」
「そうかも知れない。でも、そのときは私、戦うわ。たとえ無駄なあがきでも、私は自分の存在を守るためなら、最後の最後まで抵抗する」
 礼美の戦うという言葉に、忠雄はハッとした。同時に自分も戦うことが出来るかと考える。礼美なら頑強に抵抗できるだろう。だた、自分に礼美のような強さがあるかは疑問だった。そして、世界にはまだ生き残りがいるのかと考えた。
「オレたちみたいに無事なヤツ、世界にまだいるんだろうか」
「多分いるわ。私たちだって、今、こうしているじゃない」
「ははは、オレたちが人類最期の生き残りだったりしてな」
 そう言ってから、忠雄は礼美と見つめ合う格好になった。次第に今の発言が、妙な意味を持っていることに気づく。
「じょ、冗談だ、冗談! 今、言ったことは気にするな! 別にオレはお前のことなんか……」
 繕うはずが、段々、ドツボにはまっていく。忠雄は立ち上がった。その行動に礼美が過剰に反応し、身構える。
「な、何?」
「シャワー使わせてもらうわ」
「しゃ、シャワー?」
 礼美、赤面。
 忠雄は慌てた。
「別に深い意味はねえ! 汗を流すだけだ!」
 礼美は指でバスルームの方向を示した。忠雄もまた、顔を真っ赤にさせながら、バスルームに逃げ込んだ。


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