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彼女が来る夏

−1−

 そのとき、浜辺から沖へ向かって強い風が吹いた。
「名美、ごめーん!」
 友達の亜矢が投げたビーチボールは、風のせいもあって、私の頭上を遙かに越え、後方に落ちた。亜矢が私に向かって手を合わせる。
「オッケー、オッケー、大丈夫!」
 軽いビーチボールが風に流されてしまうのは仕方ないことだ。私は亜矢を責めずに、ビーチボールを泳いで取りに行った。
 夏休みの最初の日。私は友人の三浦亜矢と湘南海岸へ出掛けた。期末テストが始まる前から、互いの新しい水着を見せ合おうと約束したのだ。来年は高校三年生。夏休みに遊んでいられるのも今のうちだ。
 私が海で泳ぐのは久しぶりだった。本当は地元なので、いくらでも泳ぎに来られるのだが、運動全般があまり得意でない私にとって、その機会は自然と減ってくる。実際、学校のプール以外で水着を着たのは、三年ぶりのことだ。今回、亜矢に誘われなければ、今年も着ることはなかっただろう。
 亜矢の水着は際どいデザインの黄色いビキニだった。同性の私でもドキドキするくらい、まるで裸に近い格好だ。女子高生の水着にしては大胆すぎる。亜矢はその水着で、イイ男をゲットするのだと言っていた。それに引き替え、私のは学校の水着と大して変わらないワンピース・タイプで、せいぜい両脇に白いラインと胸元にリボンを模した飾りがついているくらい。亜矢には、もう少し色気のある水着にしなよ、と顔をしかめられてしまった。
 だが、私はそれでも恥ずかしいくらいだった。と言うのは、私のバストは九十二センチもあり、体のラインがハッキリと分かる水着を着ると、その大きさが目立ってしまうのだ。亜矢のようなビキニを着たらなおさらである。それでなくても、砂浜に到着するや否や、男の人の視線が私の胸に注がれるのを感じた。自意識過剰なのだろうか。
 しかし、やっぱり胸の大きさは普通の人よりもあると思う。私は地元の女子校に通っているのだが、体育の時間などで着替えるときになると、クラスメイトたちが決まって、触らせてと言ってくるのだ。同性の注意を引くからには、男の人ならなおさらだろう。
 亜矢は浜辺で男の人から声がかかるのを待つようだったが、その間、私は他の人からジロジロ見られているようで、いたたまれなくなってしまった。だから、亜矢を無理に誘って海に入り、ビーチボールで遊んでいたというわけだ。水の中に入って遊んでいれば、少しは男の人の視線を気にしないで済む。
 ビーチボールは海面に浮いているというのに、沖の方へ向かって、コロコロと転がった。風のいたずらだ。私はさらに泳がされるはめになった。
 そこへ少し大きめの波が私を呑み込んだ。その不意打ちに、私は一瞬、泳ぎのリズムを乱した。頭から海中に沈んで驚く。
 すぐに立とうと思った。だが、足が立たない。思ったよりも沖へ来てしまったようだ。パニックになりかける。海水も飲んでしまった。
 プールならば足も立つし、波もない。だが、ここは海だ。私にとっては三年ぶりの。私の体は波に翻弄された。泳げたはずなのに、思考が真っ白になる。助けて。誰か、助けて。
 私は海中でもがいた。浮くんだ。浮かび上がるんだ。だが、やっと頭を海面に出すと、待ってましたとばかりに波が顔に降りかかる。呼吸が出来ない。もう一度浮かび上がろうとする。すると、また波が。苦しい。どうしよう。私、呼吸が出来ないよ。
「名美ーっ!」
 遠くに亜矢の声。亜矢、助けて。助けて。
 私は救いを求めるように腕を伸ばそうとした。だが、体がアッという間に沈む。今度こそ、もうダメ。私、死んじゃう。死んじゃうよ。
 突然、私の二の腕を力強い手がつかんだ。反対側もつかまれる。ヤダ、何? 何なの?
 再び私の頭が海面に出た。そのすぐ目の前に男の人の顔が。
「おい、大丈夫か!?」
 男の人は私に向かって言った。どうやら溺れている私を見つけて、助けに来てくれたようだ。私は必死に男の人にしがみつこうとした。
「ま、待て、落ち着け!」
 こんな状況で落ち着けるわけがない。私は夢中で抱きつこうとする。
 すると、不意に体が沈んだ。男の人が私と一緒に潜ったのだ。どうして? 助けてくれんじゃなかったの?
 またもや溺れる恐怖が私の心臓を縮み上がらせる。
 だが、すぐにまた浮かび上がった。男の人はしっかりと私の腕をつかんでくれている。
「暴れるな! 二人とも溺れ死んじまうぞ! 手はオレの肩に置け! 足は動かすんだ! 出来るか!?」
 私は返事をしようとしたが、海水を飲んだせいで苦しく、激しく咳き込んだ。だが、男の人の言うとおりにする。
「よし、それでいい。ゆっくりと呼吸しろ」
 男の人のお陰で海面に頭を出していられるようになり、私はようやく呼吸することが出来た。段々と助かった実感が湧く。
「じゃあ、岸に向かって泳ぐぞ」
 男の人は私が落ち着いたのを見計らって、私の体を支えるようにしながら、浜辺へ向かって泳ぎ始めた。私も足を動かす。浜辺の方を見ると、多くの人たちが立ち尽くして、こちらの方を見ていた。皆、私の心配をしていたのだ。助かった安堵感は、浜辺へ近づくにしたがって羞恥心へと変わっていった。
「名美!」
 浜辺へ辿り着くと、亜矢が私に抱きついてきた。涙で顔がぐしゃぐしゃだ。
「ごめん、亜矢」
 私も亜矢の背中に腕を回した。
「無事で良かったよお、名美!」
 亜矢は涙声で私の無事を喜んでくれる。
 集まった人々も私の無事を確認して安堵したのだろう、三々五々に散っていった。
「あんまり沖へ行くなよ。泳ぎに自信があっても危ないからな」
 そう言って、私の頭を軽く叩く手があった。私を助けてくれた男の人だ。
 私は改めて男の人の顔を見る余裕が出来た。
 歳は私よりも少し上くらいだろうか。よく陽に灼けた肌をしており、鍛えているのか、くっきりとした腹筋が浮かび上がっている。やや伸ばした感じの茶髪から水がしたたっていた。太く濃い眉、すらりと筋の通った鼻、固く結ばれた口許。その整った顔立ちに、私は声を失う。それに透き通った瞳。その瞳に見つめられ、私は全身が硬直したようになった。
「向こうへ三百メートルくらい行くと救護所があるから、念のため、そこで休んだ方がいい」
「あ、ありがとうございます」
 それだけ言うのがやっとの私。
「じゃあな」
 その男の人は何事もなかったかのように、ふらりと立ち去っていった。誰だろう? カッコいい人。
「あ、あの──」
 私は追いかけて、命の恩人の名前を尋ねようと思ったが、まだ亜矢が泣きながら私を抱きしめており、解放してくれなかった。そんな友人をむげにするわけにもいかない。やがて、男の人の後ろ姿を見失ってしまった。


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