RED文庫]  [新・読書感想文]  [次頁→



となりは何をする人ぞ

−1−

「それでは、よろしくお願い致します」
 アパートへ帰ってきた寺泊禎司がちょうど二階への階段を上がり切ると、聞き慣れない女性の声がした。見れば、禎司の隣の部屋の前で、管理人の江坂昌子と、見たこともない若い女とが立ち話をしているところだ。
 禎司は大きく膨らんだ買い物袋を下げたまま、その場に立ち尽くして、初めて見る女に見取れた。
 女は、年の頃、二十四、五といったところだろうか。まるで就職活動にでも出掛けるようなスーツをパリッと着込み、左肩に小さなハンドバッグをかけている。髪は染めておらず、ショートヘアでとても清潔感があり、背筋はピッと伸びていた。
 知的で大人びた美貌は禎司の好みだが、眉や目の感じから、少し気が強く、冷たい印象を受ける。恋愛よりも仕事を取りそうなタイプだ。そっくりというわけではないが、つい先日に別れたばかりの恋人を禎司は思いだしていた。
「あら、寺泊くん」
 こちらに気づいた管理人の江坂昌子が、禎司に声をかけた。
 昌子は五十代半ばくらいの、どこにでもいるような、世間話が大好きなおばさんだ。この築二十年以上と言われるボロ・アパートの一階に住んでおり、大学生で一人暮らしをしている禎司に対し、あれこれと世話を焼いてくる。禎司にとっては有り難くもあり、少々、わずらわしい存在だ。
 禎司は美女の方にばかり気を取られていたせいで、やや遅れてお辞儀をした。
「どうも」
「ああ、ちょうど良かった。寺泊くんにも紹介しておくわ」
 そう言って、昌子はちらりと美人の方を見た。
 しかし、当の美女は困ったような顔で、何やら昌子に目配せした。それは何を意味していたのか。昌子は、突然、思い出したように、慌てて口を塞いだ。
「やだ、私ったら! ごめんなさい!」
 昌子は美女に謝った。つい調子に乗ってしまったという感じだ。しかし、禎司に紹介するくらい、何がいけないと言うのか。
 禎司は怪訝に思った。
 美女は少し諦めたような顔をすると、改めて禎司に微笑みかけた。ただし、それは儀礼的なものに感じられ、好意からではない気がする。
「こんにちは。今日、引っ越して来ました、生島明穂と申します。よろしく」
 生島明穂は禎司に向かって挨拶した。禎司もつられて頭を下げる。
「あっ、寺泊です。ここの203号室に住んでまして……」
 すると、明穂は後ろを振り返った。
「それじゃあ、隣ですね」
「え?」
 アパートは地上二階建て、それぞれ三部屋ずつの計六部屋が並んでいる造りだ。禎司の部屋は階段から一番遠い角部屋。その隣の部屋の202号室は、禎司がここへ引っ越してきたときから空き部屋だったのだが、ようやく入居者を見つけられたらしい。
「よろしくお願いします」
 美人である明穂と親しくなりたいという下心が働いたのは、男であれば無理からぬことだろう。禎司は愛想笑いを浮かべた。
 ところが、明穂はにこりともせずに無表情に受け止め、一礼したあと、そそくさと部屋の中へ入ってしまった。見かけ通り、男に媚びないタイプらしい。
 禎司は何か気に障ったのかと思い、眉をひそめた。
 昌子が気の毒そうに見やる。
「まあ、そういうことだから、寺泊くんもよろしくね」
 そう言って、つっかけたサンダルを擦るようにして、昌子は行きかけた。
 それを禎司は気になったこと尋ねようと、階段を降りかけた昌子を呼び止めた。
「管理人さん、今の生島さんって、今日、引っ越して来たんですか?」
 振り返った昌子の顔は、心なしか引きつって見えた。
「そ、そうよ。それがどうかした?」
「いや、別に」
 何でもないと装った禎司だが、明穂から受けた違和感は拭えなかった。
 引っ越してきたばかりなら、あの仕事へでも行きそうな格好は何なのか。もっと荷物を運ぶのに、動きやすそうな格好をしていても良さそうなものだ。それに禎司が出掛けたのは一時間くらい前。そのときは引っ越しの気配など微塵もなかった。にも関わらず、今、こうして帰ってくるまでの間に、引っ越し作業を完了させるなどということが有り得るだろうか。もし、あるとすれば、よほど運んできた荷物が少なかったに違いない。
 そして、もうひとつ腑に落ちないのは、管理人、昌子の様子だ。
 昌子は明穂について、何かを隠していると禎司は睨んでいた。元々、噂話などが好きなおばさんだ。禎司が引っ越してきたときも、色々と根ほり葉ほり訊かれたものである。当然、明穂にも同じようにしたはずだ。それなのに、それを禎司に話そうとしない。年齢とか勤め先とか、そういう知っている情報は自ら進んで教えてくるはずだ。おかしい
 もしかすると、明穂に口止めされているのか。禎司には、昌子も話したくてうずうずしているが、懸命に我慢しているように見える。だが、どうして口止めを。
 明穂には何か秘密がある。
 禎司は隣部屋に引っ越してきた美女に対し、あらゆる意味で気になり始めていた。



 生島明穂の私生活は謎だった。
 薄い壁一枚を隔てた隣の部屋で、およそ生活らしい音など禎司の耳には聞こえてこなかった。テレビの音、電話の鳴る音、洗濯機を回す音、掃除機をかける音。とにかく存在が疑わしくなるほど、何も物音がしないのだ。ずっと隣が空き部屋だった頃と、ほとんど変わらない。
 最初のうちは外出が多いのかと思っていたが、真夜中など周辺に静けさが訪れたとき、誰かと喋っているようなひそひそ話が聞こえてきた。間違いなく、隣に誰かいる。だが、相手が男なのか女なのか分からない。ただ、独り言といった感じではなく、明らかに複数の人数で会話している感じだった。
 また、ドアを開け閉めする音だけは頻繁だった。大学の講義をサボり、一日中、部屋にいたときなど、朝早くから夜遅くまで、ほとんど二時間おきくらいに誰かがやって来ては帰って行くようなのだ。明穂の友人なのだろうか。引っ越しして、新居に招くというのも有り得ない話ではないが、こうも引っ切りなしに訪問するというのはおかしい。そもそも彼女はどんな仕事をしているのか。平日にずっと家にこもってする仕事なのか。少なくとも第一印象から受けた感じでは、キャリアウーマンとして仕事をバリバリこなすように見えたのだが。
 明穂が越してきてから三日目の夜、禎司に訪問者の顔を拝むチャンスが訪れた。
 アルバイト先から帰り、何気なくアパートを見上げると、明穂の部屋は真っ暗だった。あれから明穂の顔を見ていない。
 ところが禎司が階段を上がっていくと、その明穂の部屋から一人の男が出てきた。
 背はそんなに高くないが、がっちりとした体格の男だった。もうすぐ春になろうというのに、トレンチコートの襟を立て、まるで顔を見られまいと、隠しているかのようだ。
 だが、アパートの薄暗い照明の下、禎司はしっかりと相手の顔を見た。
 年の頃は四十後半くらいだろうか。体型にマッチして、肌は浅黒く、紙をくしゃくしゃに丸めたような、いかつい顔立ちだ。頬に傷こそないものの、その筋の者ではないかと疑うほど、凄みをたたえていた。
 男は禎司に一瞥をくれた。そのギラついた眼に射抜かれ、禎司は本能的に肝を冷やす。この男に歯向かったら、ただじゃすまない。一瞬の邂逅で感じたものが、そんな感覚だった。
 だが、男は禎司に対して何を言うわけでもなく、そのまま無言ですれ違った。男が階段を降りていく足音。それを聞いて、禎司は全身の緊張が解ける。そして、その場から立ち去るように、急いで自分の部屋へと入った。
 何か危険な感じがする男だった。明穂の部屋へちょくちょく訪れているのは、あの男だろうか。
 そう言えば、先程、明穂の部屋は電気がついていなかったはずだ。それなのに明穂の部屋から出てきたということは……。真っ暗な部屋の中にいる一組の男女。それが意味するものを想像し、禎司は嫉妬と焦燥を禁じ得なかった。
 ひょっとして、明穂はあの男に囲われているのではないか。そんな考えが浮かび、禎司は悶々とした。


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