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となりは何をする人ぞ

−4−

「こんにちは」
 玄関のドアがノックされ、禎司が出て行くと、そこには生島明穂が立っていた。
 落ち着いたグレーのスーツを着込んではいるが、禎司は何となくこれまでと違う印象を受けた。やはり事件が解決して、張りつめたようなところがなくなったからかもしれない。その表情は柔らかかった。
「良かった、まだ出掛けてなかったみたいで」
 明穂は安堵して言った。禎司は、突然の訪問に面食らいながら、ぎこちなく笑顔を見せる。
「今日は午前中の講義が休講なんで、のんびりしていたんです」
「そう。ちょうど良かったわ。ちょっとお邪魔してもいいかしら?」
 明穂に言われ、禎司は迷った。ちらりと部屋を振り返る。
「かなり散らかってますけど……」
「ああ、構わないで。すぐにおいとまするから」
 そうは言われても、禎司はまだ決心がつかなかったが、やや諦めた様子で、明穂を中に入れた。
「お邪魔します」
 学生の一人住まい、ある程度、部屋が散らかっているのは覚悟していた明穂だが、想像以上に禎司の部屋は凄かった。脱ぎ散らかした衣服や無造作に放り出された雑誌、飲み残しのアルミ缶、出しそびれたゴミ袋などがごったになっている。ほとんど下の畳など見ることが出来なかった。それに何の臭いなのか、思わず顔をしかめたくなる異臭がして、空気自体も湿っているように感じる。そのくせ、窓はカーテンが引かれていて、換気などしていないようだった。
「ちょっと待っててくださいよ」
 禎司はそう言うと、慌ててテーブルの一角を片づけ始めた。片づけると言っても、そこにあった色々なものを他の場所へ移動させただけの話である。とりあえず、明穂の座る場所を確保した。
「どうぞ、ここに座ってください。今、コーヒーでも煎れますから」
「ああ、お構いなく」
 明穂は部屋の散らかり放題に面食らいながらも、恐る恐るといった感じで、禎司が作ってくれた場所に座った。落ち着きなく周りを見回す。
 禎司は台所へ行って、コーヒーを煎れようとした。だが、この部屋へ滅多に客が来ることはないので、ほとんど食器は自分用の物ばかり。確か、来客用のコーヒーカップは戸棚の奥にしまった記憶があるが、おいそれと見つからない有様だった。
 禎司は場をつなごうと、明穂に尋ねてみたかったことを質問してみた。
「ああ、この間の犯人、どうなりました?」
 あれから新聞をチェックしてみたが、それらしい記事はどこにも載っていなかった。それに、あの橋口という男がどんなことをしたのかも、まだ知らされていない。
 明穂は少しだけ仕事の顔に戻った。
「今日来たのは、その話と、あなたへのお詫びのためなの。あの橋口って男は、今、いろいろと自供しているわ。彼は麻薬の密売人でね、ずっと私たちが追っていたのよ」
「麻薬の密売人……。てことは、生島さんは麻薬捜査官?」
「ええ、そうよ」
 明穂は警察の身分証明書を提示してみせた。台所に立っている禎司からは字まで読みとれないが、写真の明穂は凛々しくも制服姿だ。
「橋口はあそこのマンションに自分の女を住まわせているという情報があってね。追っていたこちらとしては、このアパートから二十四時間監視をして、橋口が現れるのを待っていたのよ。仕事上、あなたに私たちの正体を明かすことが出来ず、申し訳なかったわ。不安にさせたでしょう。ごめんなさい」
 そう言って、明穂は頭を下げた。
 だが、逆に禎司の方が恐縮してしまう。
「いいんですよ、そんなこと。そういう仕事なら仕方ないじゃないですか。ボクの方こそ、危うく犯人を逃がしてしまいそうなことをしてしまって、本当にすみませんでした。反省してます」
 禎司は犯人の人質になったことを謝罪した。一歩間違えれば、あれで橋口は逃亡してしまったかも知れない。禎司の代わりに人質を名乗り出た明穂も、一か八かの賭けに失敗していれば、無事では済まなかったはずだ。
 しかし、明穂は結果的にうまくいったからと、禎司を責めるようなことはしなかった。
「それにしても、あなたが橋口の前に立ち塞がったときは驚いたわ。あんなに勇敢だとは思わなかったから」
「いや、あれは、その……」
 実は逃げようとしたら、たまたま立ち塞がるような形になってしまったとは、さすがに格好悪さを覚えて、禎司は口に出せなかった。
「勇敢なのもいいけど、あまり無茶なマネをしてはダメよ。万が一のことがあったら、あなたの親御さんや管理人さんにお詫びのしようもないわ。これからはあんな事しないで。いい?」
「はい」
 禎司はバツが悪くなって、コーヒーを煎れる作業に戻った。
 明穂も足を伸ばしてくつろぎ始める。
「まあ、これで大きな麻薬組織の全貌が分かりそうだわ。うまくすれば、組織を壊滅させられるかも知れない。そうしたら、この長かった張り込みも報われるってものよ」
「じゃあ、新聞に逮捕の記事が出ないのは、密売人の逮捕を麻薬組織に知られないため?」
 禎司は背を向けたまま、明穂に質問した。明穂はうなずく。
「そう。多分、向こうも橋口と連絡が取れなくなって不審に思っているでしょうけど、こちらが全部吐かせるまではマスコミにも伏せてあるの。組織が橋口の逮捕を知ったら、トカゲの尻尾切りみたいに、密売ルートを闇に葬ってしまうでしょうからね」
 そこまで話した明穂は、室内の異臭に耐えきれなくなっていた。窓を開けようかと思ったが、窓の前には大きなスーツケースやら枯れてしまった観葉植物などがあって、おいそれとは開けられそうもない。禎司が部屋を閉め切りにしているのは、この不用とも思える物が多すぎるからだ。
 明穂は視線を転じた。反対側、洗面所の方にも小窓がある。こちらなら障害物はない。
 特に台所の禎司に断りも入れず、明穂は小窓を開けようと、洗面所へ立った。
 ところが、小窓に近づいた明穂は、余計に異臭がきつくなったような気がした。洗面所の脇にはバスルームがある。どうやら臭いはそこからのようだ。
 気になったことは調べてみるという職業柄の癖が出て、明穂は何気なく、小窓ではなくバスルームの扉を開けてみた。
「!」
 その途端、明穂は吐き気を覚えた。湿った空気が異臭とともに明穂を包み込む。バスルームの床や壁には、おびただしい血が派手に飛び散り、サイケデリックなコントラストを為していた。そして、洗面器には血塗れの衣服が浸かり、空のバスタブには奇妙な格好にねじ曲がった全裸の女性死体が放り込まれている。
 明穂は禎司に問いただすべく、振り向こうとした。が、その刹那、右の脇腹に激痛が走り、全身の力が一瞬にして抜ける。明穂はバスルームの扉に手を添えたまま、その場にうずくまった。
「どうして開けちゃったんです? このまま帰れば、何もするつもりはなかったのに」
 落胆したような禎司の声。明穂が茫然と見上げると、そこに包丁を握った禎司が立っていた。
 明穂は脇腹を手で触ってみた。ぬるっとした生暖かい感触。刺されたのだ。
 禎司はバスタブの死体を眺めながら喋った。
「彼女はね、不二子って言って、ボクの彼女だったんです。でも、他に好きなヤツが出来たとかで、ボクと別れたいって言い出して。ボクが考え直してくれと泣いて頼むと、不二子は逆ギレしました。ボクのことを暗いだの、つまらない男だの、不潔なヤツだのと、散々、なじったんです。さすがのボクも我慢が出来なくなって、不二子を殴りました。何度も、何度も……。そのうち、不二子のヤツは動かなくなりました。ボクはただ殴っていたつもりだったのに、いつの間にか、この包丁を握っていたんです。しばらくしてから、殺しちゃったんだと気づきました。一応、警察に自首することも考えましたが、こんな女一人のためにボクの一生が台無しになるのも何だかシャクだったので、ここでバラバラにして、どこかに捨てようと考えました。……生島さんが隣の部屋へやって来たのは、ボクが不二子をバラバラにしようと思って、ホームセンターでのこぎりとかを買ってきたときです。正直、怖かったんですよ。もし、生島さんに不二子のことを気づかれたらどうしようって。しかも、生島さんの生活は普通の人とまったく違うものだった。何なんだろう、この人って思いましたよ。気味が悪かった。あの日、管理人さんから刑事だって聞かされたときは、本当にビックリしました。でも、どうにかバレずに済んだ。……これで終わりだと思ったのに。残念です」
 衝撃の告白に明穂は悲鳴を上げることも出来なかった。
 禎司はそんな明穂に向かって、不二子を殺したときと同様、無感情に包丁を振り上げた。


<了>


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