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となりは何をする人ぞ

−3−

 事態は急転した。
 翌日の夜、いつものようにアルバイトを終え、禎司がアパートへ帰ってくると、乱暴にドアが開け放たれる音と、慌ただしい足音が響いた。階段を上がろうとしていた禎司は、駆け下りてくる男たちの形相に気圧され、飛び退くようにして道を開けた。皆、明穂の部屋へ入っていったことのある男たちだ。その中にはトレンチコートの男もいる。
「生島、遅れるな!」
「はい!」
 トレンチコートの男が、一番後ろからついてくる明穂に怒鳴った。
 明穂は禎司とすれ違った際、チラリと目線をよこしたが、そのまま無言で男たちの後を追っていく。
 禎司は突然のことに面食らっていた。一体、何事か。
 その騒ぎに、101号室から管理人の江坂昌子が顔を出した。
「何? ずいぶんと騒がしいけど?」
 ちょうどその場にいた禎司に、昌子は尋ねた。だが、禎司に答えられるわけがない。
「分かりません。生島さんと、部屋にいた男の人たちが大勢でどこかへ走って行きましたけど」
 それを聞いて、昌子の顔がハッとした。そして、サンダルをつっかけて、外へと出てくる。
「大変! いよいよなのね!」
「は? 何がですか?」
「逮捕よ!」
「たいほ?」
「こうしちゃいられないわ!」
 昌子は居ても立ってもいられない様子で、サンダル履きのまま、明穂たちの後を追いかけ始めた。
 禎司もつられるようにして、昌子と同じように走り出す。
「一体、何なんですか?  管理人さん、事情を知っているんでしょ!?」
 禎司は昌子の横に並びながら問いつめた。昌子がチラッと禎司を見る。
「生島さんには秘密にしておくよう言われてたんだけど……もう、その必要もなさそうね」
 昌子は口止めされていたことを明かすと、明穂たちが向かった先を見つめながら話し始めた。
「生島さんはね、刑事なの」
「え?」
 昌子の言った意味を、禎司はすぐに呑み込めなかった。昌子は続ける。
「今、なんとかっていう犯人の行方を追っているんですって。それで、その犯人が立ち寄りそうなところが、ちょうど、この近くにあるそうなのよ。生島さんたちは犯人がそこへやって来たところを捕まえようと、ウチのアパートの窓から張り込みを続けたってわけ」
「張り込み……だから──」
 禎司は合点がいった。あの明穂の部屋に出入りしていた男たちは、全員、刑事だったのだ。道理で、普通のサラリーマンとはちょっと違うような雰囲気を持っていたわけだ。きっと禎司の隣の部屋で、ジッと息を殺しながら犯人が現れるのを待っていたに違いない。
 そう考えれば、いろいろと不可解だったところが説明できる。夜、部屋の電気もつけずにいたのは、犯人にこちらの存在を気づかせないためだ。テレビや洗濯機の音が聞こえてこなかったのも、本当の引っ越しではないのだから、持ち込んでいないのは当たり前。
 警察は本当にこんな方法で捜査をするのだと分かり、禎司は妙に感心してしまった。
「ここまで話せば寺泊くんも分かると思うけど、とにかく近所の人には秘密にする必要があったのよ。誰の口から張り込みのことがバレて、犯人が寄りつかなくなるか分からないでしょ? 私は寺泊くんなら話しても大丈夫だと思ってたんだけどね。口が堅そうだし。でも、警察の頭は固いから」
 お喋りな昌子の方こそ、こんな話のネタを黙っているのは、かなりつらかったに違いない。一気に吐き出すことが出来て、スッキリしたような顔をしていた。
 話を聞いた禎司は、今の状況についても悟った。
「じゃあ、今、生島さんたちが動いたってことは──」
 禎司は走りながら息を詰めた。
「とうとう犯人が現れたってことね」
 昌子は舌舐めずりをしそうなくらい、目を爛々と輝かせていた。犯人逮捕の決定的瞬間を見逃すまいとしているのだろう。
 明穂たちが駆けつけた場所は、禎司のアパートから直線距離で百メートルも離れていないところにあるマンションだった。なるほど、張り込みに利用したことだけあって、どちらからも互いに見通せる。
 すでに警察が踏み込んだのか、周囲は騒然としていた。遠くからは応援と思われるパトカーのサイレンも聞こえてくる。
「待て、橋口!」
 鋭い制止の声が夜の住宅街に響いた。禎司は、マンションまで、あと十五メートルくらいの所で立ち止まり、様子を見ようと立ち止まる。
 一人の男を数名の男たちが取り囲もうとしていた。おそらくは、真ん中で抵抗を示している男が、明穂たちの追っている犯人だろう。細身で、見た目はまだ若い。二十五、六くらいか。黒い革ジャンにジーンズというラフな格好で、口の回りは無精ヒゲを生やしていた。
 男は革ジャンのポケットから何かを取りだした。その瞬間、取り囲んでいた刑事たちの輪が大きくなる。禎司は目を細めて、男の手にある物が何か、確かめようとした。それは小さな飛び出しナイフ。男は刑事たちに向かって、振り回した。
「どけよ! おらぁ!」
「やめろ、橋口!」
 刑事たちも尻ポケットから小さなスティック状の物体を取り出す。拳銃──ではない。刑事たちは両手でスティックを伸ばした。特殊警棒だ。
 だが、その一瞬の隙を突いて、犯人の橋口という男は囲みを突破した。追いすがる刑事たち。
 あろうことか、橋口は禎司の方へと走ってきた。
「ひゃあっ!」
 それを見た昌子は、その場に立ちすくんで怯えの声を発す。
 禎司も無謀な正義感を発揮しようなどとは思わなかった。何しろ、相手は飛び出しナイフを持っているのだ。脇にどいて、道を開けようとした。
 ところが、橋口も前方に禎司がいるのに気づいて、避けようとしたのだろう。不運にも禎司と橋口は同じ方向に動き、ばったりと鉢合わせしてしまった。
「うわぁっ!」
「この野郎ぉ!」
 二人はぶつかって、その場に倒れ込んだ。幸い、ナイフは禎司に刺さらなかったが、橋口は素早く背後に回り込む。そして、首筋にナイフを押し当てた。
「来るな! 来るんじゃねえ!」
 橋口は追いかけてきた刑事たちを威嚇した。そして、禎司を強引に立たせる。禎司は抵抗の意志を示さないよう、両手を弱々しく上げた。
「うあっ……たっ……!」
 禎司は、助けて、というつもりが、まったく声にならなかった。膝ががくがくと震える。
「寺泊くん!」
 人質になった禎司を見て、昌子がおろおろしていた。すぐに刑事たちが、昌子を安全な後方へと下がらせる。
「橋口! もう逃げられんぞ! 無駄な抵抗はよせ!」
 あのトレンチコートの男が警告した。だが、橋口は往生際の悪さを見せる。禎司を人質に取ったまま、じりじりと後ろへ下がった。
「うるせえ! 近づくとこの野郎を殺っちまうぞ!」
 橋口の手は震えていた。ナイフの刃が、禎司の首をチクリとする。ハッと刑事たちの顔が強張った。禎司の首には小さな傷がつき、血がにじみ出す。
 しかし、橋口に退路はなかった。応援のパトカーが駆けつけ、道を寸断する。橋口はせわしく周囲を見回しながら舌打ちした。
「おい! 本当にいいのか!? こいつがどうなっても知らねえぞ!」
 橋口は怒鳴り散らした。刑事たちは手が出せない。だが、おめおめと橋口を逃がすつもりもなかった。
 事態は膠着した。そこへ一歩進み出たのは明穂である。
「待ちなさい。人質なら、私がなるわ」
 明穂は橋口に向かって、毅然と言った。
 橋口は迷いを見せた。やはり人質には男より女の方がいいが。
 そんな心の動きを読んだのか、明穂はさらに前に出た。そして、手錠を取りだして、自ら両手首にはめて見せる。
「これでどう? さあ、その人を解放して」
 それを見て、橋口は決断したようだった。人質にしていた禎司を突き飛ばし、近づいてきた明穂の背後から腕を回そうとする。
 しかし、明穂はその瞬間を狙っていた。無造作に伸びてきた橋口の手を、手錠がかかった両手でつかみ、体を回転させるようにしてねじ上げる。橋口の身体は面白いくらい簡単に投げられた。
「ぐあっ!」
 橋口はアスファルトの地面に突っ伏した。明穂はそのまま橋口の腕をロックし、自らの身体を預けるようにして、動きを封じる。
 一瞬の早業に、間近で見ていた禎司は言葉もなかった。ただ腰を抜かして、茫然と明穂を見つめる。
「確保しろ!」
 トレンチコートの男が叫ぶと、他の刑事たちが一斉に橋口を取り押さえにかかった。


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