「それでは、今日のホームランです」
最近、女子アナウンサーの中でも特に注目されている高宮紗彩は、とびきりの笑顔を画面に向けながら、VTRを促した。即座に、今日、プロ野球の試合で飛び出した全ホームラン・シーンに切り替わる。プロ野球のコーナーを締めくくる、このスポーツ・ニュース番組恒例のVTRだ。
半年前、野球の選手名もルールも知らない紗彩がスポーツ・ニュース番組のキャスターに抜擢されたときは、たどたどしいコメントやベテラン解説者に場違いな質問をしたりして、この先、やっていけるかと不安だったが、持ち前の明るいキャラクターとチャレンジ精神で、今ではしっかりと番組の顔として定着していた。この他にも、バラエティー番組のリポーターなどで活躍し、まだ入社二年目だと言うのに、すっかり局の看板として、売れっ子になっている。
こうして顔が売れていくと、最近の女子アナウンサーというのは、アイドルや女優並の人気が出るものだ。下世話な週刊誌には、男性タレントやプロ野球選手との噂などが書かれ、それが売り上げに関わってくるというのだから、世間の注目度は非常に高いと言えるだろう。それは過剰な人気とも言い換えることが出来る。
「明日はプロ野球全六試合が予定されています。パ・リーグの予告先発は、ご覧の通りです」
ホームランのVTRが終わり、元のスタジオに戻ると、紗彩はお決まりのコメントで締めくくった。この後はCMで、その次は野球以外のスポーツを伝えることになっている。
ここまでは進行もスムーズにこなし、ホッとした様子の紗彩は、解説者たちと笑顔を交わしていた。画面はスタジオを俯瞰に撮りながらズームアウトし、CMへと切り替わる。
それを見届けてから、私は車内の液晶テレビから目を離した。
私が運転するタクシーはJR浜松町駅で客待ちをしていた。テレビを見ている間に、かなり乗り場へ近づいてきた。午前零時を回っているだけあって、タクシーの利用客は多い。その証拠に乗り場にはタクシーを待つ人たちが長蛇の列を作っていた。
すぐに私の番が回ってきた。乗り込んできたのは、恰幅のいい四十代くらいのサラリーマンだ。後部座席に腰を沈めるのと同時に、ぷんとアルコールの臭いが漂ってくる。おそらく、近くで飲んで、電車に乗って帰るのが面倒になった、というところだろう。
「南千住まで」
「はい」
サラリーマンが告げた行き先にうなずき、私は料金メーターを倒した。一路、南千住へと向かう。
サラリーマンはやれやれといった様子で、座席にふんぞり返っていたが、まだ消していなかった液晶テレビから再び紗彩の声が聞こえ始めると、眠そうな目で、身を乗り出してきた。紗彩はラグビーの試合結果や、近くに迫ったワールドカップ・バレーを伝えている。こちらはVTRに合わせて、コメントを読むだけなので、さらりと流すといった感じだ。
「あっ、これ、テレビ?」
サラリーマンは目を細めるようにしていた。
「はい。うるさいようでしたら、消しましょうか?」
私は紗彩の出番を見逃したくなかったが、乗客が嫌がるようであれば致し方ない。どうせ、家では録画してあるのだ。
だが、サラリーマンはかぶりを振った。余計にアルコールの臭いが鼻を突く。
「いいよ、いいよ。消さないで。もう、こんな時間だったか。──あっ、このコ、知ってるよ。今、とても人気のある女子アナだよね」
「ええ。高宮紗彩ですね」
私は答えた。乗客との会話も仕事のウチだ。会社からも、乗客を無視するような態度は戒められている。
するとサラリーマンは酔いのせいもあるのか、陽気に喋り始めた。
「そうそう、高宮紗彩。可愛いよね。彼女、何歳くらいなんだろ?」
「二十三です」
私は即答した。へえ、と、サラリーマンが感心する。
「運転手さん、詳しいねえ。ファンなの?」
「いえ。でも、最近、よく週刊誌などで見かけますから」
私は無難な答えを言った。本当は違う。私は紗彩のすべてを知っている。愛する紗彩のすべてを。
サラリーマンは私の言葉に納得したようだった。再び後部座席にもたれる。だが、目は液晶テレビの画面を見つめたままだ。
「それにしても、最近の女子アナはまるで芸能人みたいな扱いだよねえ。局にはファンレターも届くそうじゃない? そう言えば、この前、週刊誌で、『抱いてみたい有名人ベスト20』とかでも、アイドルや女優の名前に混じって、上位にランクされていたのを読んだなあ。まったく、女子アナってのは、アナウンサーってよりもタレントって感じだよね」
それに関して、私は何も言わなかった。本当は、「そんなことはない! すべてはマスコミのねつ造で、紗彩が望んでいることではない!」と、強く反論したかったが、ここはグッと堪える。一介のタクシー運転手が女子アナウンサーを擁護すれば、きっと変に思うことだろう。それに乗客とのトラブルは、なるべく避けるに越したことはなかった。
サラリーマンも特に紗彩や最近の女子アナの在り方について不満をぶつけたかったわけではなく、それから話題は今年のプロ野球について話が転じていった。私も紗彩のスポーツ・ニュース番組を見ているお陰で、ある程度、プロ野球について、話を合わせることが出来た。
結局、サラリーマンは酔いつぶれて寝てしまうこともなく、自宅のある南千住まで喋り通しだった。
「ありがとうございました。お気をつけて」
サラリーマンを降ろしてから、私は時計を見た。午前零時三十分を回っている。今からお台場へ向かえば、充分に間に合うだろう。
私は乗車表示を「空車」から「迎車」に切り替え、お台場へと向かった。
うまくすれば、テレビ局から退社する紗彩を乗せることが出来るかも知れない。私はかつて二度、紗彩を自分のタクシーに乗せたことがある。一度目は偶然に、二度目は味を占めて。二メートルと離れていない所で紗彩と接した、そのときの緊張と喜びを、どのように表現すべきだろうか。とにかく私にとって至福の時間であったことは間違いない。
テレビはスポーツ・ニュース番組の後にやっている、さほど面白くもないバラエティー番組を流していた。今頃、番組を終えた紗彩は、今日の反省会と翌日の軽い打ち合わせを行っているはずだ。以前、紗彩を乗せたときに、それとなく聞き出したことなので、間違いない。
打ち合わせは、大体、一時間半くらいで終わり、その後、ようやく紗彩は退社できる。それが深夜の二時くらいだ。つまり、その時間を目安にテレビ局へ向かえば、紗彩を乗せることが出来るかも知れないと言うわけだ。
紗彩が勤めるテレビ局は臨海副都心として現在も発展を遂げているお台場にある。今では観光スポットのようになっているが、都心からは離れており、深夜になれば、車しか移動手段はない。
テレビ局に深夜勤務している者のほとんどは自家用車を乗り入れているようだが、紗彩にはまだ運転免許証がなかった。現在、取得中という話も聞いたが、やはり仕事が忙しいせいで、教習所へもあまり通えていないらしい。必然、深夜のスポーツ・ニュースを担当して以来、帰りの足にはタクシーを利用せざるを得なくなった。これが一般企業なら経費節減とうるさく言われるのだろうが、昔ほどの勢いがなくなったとは言え、全国でも指折りのテレビ局という金回りの良さと、看板アナウンサーのためなら、というような理由で、タクシーでの帰宅が許されているらしい。それは私にとっても有り難いことだった。
タクシーはレインボー・ブリッジを渡った。反対車線をテール・ランプの赤い明かりが夜光虫のように流れていく。それが途切れる間もなく、やがてライトアップされた、ユニークなデザインが特徴的な局舎が見えてきた。紗彩が勤務しているテレビ局だ。今日は紗彩を乗せることが出来るだろうか。
スポーツ・ニュース番組がある月曜日から金曜日まで、この時間に合わせて、必ずテレビ局へ行っている私だが、それでも乗せる確率は低い。テレビ局の人間は隣県から通ってくる者も多いため、乗せればいい稼ぎになると同業者は知っているからだ。特に終電が終わって、帰れなくなったサラリーマンを送った後、もう一稼ぎ出来るのがテレビ局や出版社などのマスコミ関係である。彼らの仕事は朝のスタートが遅い分、深夜二時、三時にまで及ぶ。
案の定、テレビ局の近くへ行くと、局舎へ吸い込まれるようにタクシーが並んでいた。ここからは運とタイミングが勝負である。私は局舎を眺めながら、この周辺を回ることにした。
こういった深夜になると、送迎のタクシーはテレビ局から手配される。つまり、個人でタクシー会社に電話するのではなく、テレビ局の配車センターからタクシー会社へ連絡が入り、会社から各車へ無線で伝達されるのだ。これは帰宅する方向が同じ社員を一台のタクシーに同乗させ、なるべく経費を節減させるためである。ただし、当然のことながら、タレントなどはこれに該当しない。
無線を受けたタクシーは指定された場所と現在位置から判断し、近ければ車を向かわせる。利用客が極端に少なくなる深夜は、町中を流して乗客を拾うよりも、こういった無線連絡によって仕事にありついた方が手っ取り早い。だから、ただ町中を流すよりも、無線が入ったときにすぐに急行できる場所で待機するのが、賢いタクシー運転手である。
無線はひっきりなしに入ってくるが、私は無視し続けた。そして、時計の動きと心の中で紗彩の行動を想像しながら、タイミングを計っていく。
午前二時を十五分ほど回った頃、私はテレビ局の名前を言っている無線を取った。果たして、私の勘は正しかったか。
無線に車輌ナンバーを告げ、私はテレビ局の敷地内へ車を乗り入れた。
私は毎日のように味わっている緊張感に、胃をキリキリさせながら、自分の番を待ちわびた。先程までと違って、時間の流れが急激に遅くなったように感じる。目の前に列をなしているタクシーは、次々とテレビ局の人間を乗せ、それぞれの目的地へと走り去っていく。私が車中から眺めていた限り、他のタクシーが紗彩を乗せていった様子はない。
いよいよ私の番が訪れた。
「お疲れさまでした」
およそ深夜の仕事終わりとは思えないほど、明るく元気な声が響いた。私は弾かれたように首を巡らせる。
そこには、他のスタッフたちに挨拶をしている、私の愛する紗彩の姿があった。