私が後部座席のドアを開けると、紗彩が乗り込んできた。暗く陰鬱な車内が急に華やいだ気がする。私は思わず、運転席で居住まいを正した。
紗彩は親しいスタッフたちに手を振りながら、「池尻までお願いします」と私に告げた。池尻は紗彩の自宅がある場所で、もちろん私は心得ている。私は小さく「はい」と応じ、車をスタートさせた。
車がテレビ局から離れるにつれ、紗彩の表情は疲れたものに変わっていった。まだ、二十三歳でスポーツ・ニュースのキャスターを任され、毎日の生放送の中、かなりのプレッシャーを感じているはずだ。画面ではいつも明るく振る舞っているが、実際には大御所のようなプロ野球解説者相手に気を遣ったり、先輩アナウンサーから厳しく指導されたりしているのだろう。また、テレビ出演によって、どこでも注目される存在で、気の休まるときなど少しもないに違いない。そもそも、仕事がこんな深夜にまで及んでは、気の許せる友人と会うこともままならないはずで、遊びたい盛りの年頃の娘には酷な仕事と言えた。
バックミラーでそんな紗彩の表情を盗み見ながら、私は池尻へと車を走らせた。紗彩を少しでも早く自分のベッドで寝かせてあげようと。しかし、その反対に、この二人だけの空間をなるべく長く共有したいという思いもあり、私の心は揺れた。
車が青山に差し掛かったときだった。黙々と携帯電話のメールをチェックしていた紗彩が、ふと顔を上げた。バックミラー越しに私と視線が通い合う。少し紗彩のことばかりに注意が向いていたらしい。私は慌てて目をそらし、フロントガラスを見やった。
「運転手さん」
「は、はい?」
紗彩から話しかけられ、私は心臓が飛び出しそうになるくらい驚いた。やっぱり、私が見ていたのを気づかれてしまったか。
すると紗彩は少し身を乗り出すようにしてきた。紗彩が覗き込んでいるのは、運転席にある私の身分証明書だ。私の名前も顔写真も記載されている。
「やっぱり──前にも私、乗せていただいたことありますよね?」
紗彩の言うとおり、彼女を乗せたのはこれが三度目だ。都内にタクシーなど何千台と走っていて、それを利用する回数の多い紗彩が私のことなどを憶えていることなどないだろうと思っていたのだが。やはり、紗彩との直接的な接触は避けるべきだったと、私は後悔した。
しかし、今ここで否定するのも変に思われる。私は認めざるを得なかった。
「はい。三回目くらいでしょうか。よくこの時間帯は、あそこのテレビ局からお客様をお乗せしますので」
もちろん私は、それが紗彩目的であることを言わなかった。単なる偶然だと思わせる。
「それにしても、よく憶えておられましたね」
私は感心したように言った。
すると紗彩もリラックスしたようにシートにもたれ、明るい笑顔をこぼしてくる。いつもテレビで見ている紗彩の顔だ。
「前に乗せてもらったとき、運転手さんといっぱいお喋りしたのを憶えていたんですよ。テレビ局からウチまで、ずっと局のこととか、番組のこととか、アナウンス室のこととか、いろいろ聞かれて」
確かに、私が初めて紗彩を乗せたとき、つい舞い上がってしまって、彼女にいろいろと質問した。テレビ局へ通うようになったのは、もしかしたら一目でも紗彩に遭えるかも知れないと思ったからなのだが、まさか自分の車に乗ってくるとは思っていなかったのである。今の紗彩がどのようにテレビ局で働いているのか知ったのは、そのときだ。
今思えば、危ない綱渡りだったと思う。いや、今だってかなり危険な状況ではある。現に、こうして紗彩に顔と名前を憶えられてしまった。
私は動揺を必死に隠しながら、とりあえず話を合わせることにした。
「あのときはすみませんでした。まだ、タクシー運転手になりたてで、芸能人とか乗せたことがなかったので、つい興味本位に質問してしまって」
半分はウソだ。例え、芸能人を乗せても、私はこちらから根ほり葉ほり質問するようなことなく、淡々と目的地へ送り届けるだろう。私が関心を持っているのは、愛する紗彩、ただ一人。
私の言葉に、紗彩は笑った。
「私なんて、ただのテレビ局の局員ですから。有名なタレントさんなんかと違って、普通のOLの人とそんなに変わりませんよ」
本心なのか謙遜なのか、紗彩はまったく屈託がない。
私はかぶりを振った。
「そんなことないでしょう。ああやってテレビに出て、全国的に顔を知られて。そんなOLさんは普通いませんよ。大変でしょう、毎日毎日。夜は遅いし、外へ出れば私みたいなミーハーに騒がれるんですから。前にお乗せしたときより、何だかすごく疲れているようにお見受けしましたよ」
それは本当だった。初めてこの車に乗せたときの紗彩は、快活に自分のことを喋ってくれた。深夜の仕事を終えても、まだまだ元気が有り余っている感じがしたものだ。だが、今日の紗彩は明らかに沈んでいる。
紗彩は私に言い当てられたのか、一瞬、真顔に戻ってから苦笑した。そして、視線を伏せがちにする。
「別に疲れてはいないんです。ただ……」
「ただ?」
二の句はすぐに出てこなかった。私は余計なことを聞いてしまったかと後悔する。
しかし、車窓へ目を向けながら、紗彩がぽつりと漏らす。
「ちょっと、いろいろと心配事があって……」
「………」
バックミラーに映る憂いを帯びた紗彩の横顔。ああ、こんなときに彼女の力になってやれたら、どんなにいいだろう。だが、今は一介のタクシー運転手にしか過ぎない私には、何もしてやることができない。
そうこうしているうちに、車は紗彩の住むマンションへ辿り着いた。
私が料金を告げると、紗彩はタクシーチケットに金額を書き込んだ。
「ありがとうございました」
紗彩はにこやかに笑いながら、運転席の私へタクシーチケットを手渡す。私はそれを受け取るとき、少しだけ紗彩の指に触れた。意図的ではない。偶然だ。だが、過去、二回乗せたときにもなかった接触に、私の心臓は高鳴った。私はそのとき白い手袋をしていたのだが、それでも紗彩の体温を感じられたような気がして、何とも言えない至福を味わった。
車から降りた紗彩は、私に親しげな表情を向けながら手を振ってくれた。私が発車させるまで、ずっとそうしているつもりらしい。私は再び紗彩と離ればなれになることに一抹の淋しさを感じたが、自らの気持ちを抑えつけるようにして、走り出した。
バックミラーに紗彩の姿が小さくなっていく。もう、彼女を乗せて走ることはないかも知れない。今回は偶然だと言い張ったが、さすがに四度目になったら、紗彩も私のことを不審に思うだろう。それは決して許されなかった。
翌日の昼過ぎ、私は再び紗彩のマンションの近くに来ていた。
何しろ、彼女の姿を直に見られるのはここしかないのだ。私はほとんど毎日のようにここへ来ては、紗彩の出勤を見届けていた。
もちろん、マンションの前に堂々と止めていたのでは怪しまれる。反対側の車線で休憩している振りをして、こっそり見送っているのだ。
紗彩はまだ部屋にいるはずだ。私は車内で、今日買ったばかりの週刊誌を取り上げた。
週刊誌には相変わらずセンセーショナルな見出しが躍っている。一体、これのどこからどこまでが真実を書いているのか。それでも私がこうして買ってしまうのは、紗彩の記事が載っているからだ。
記事の見出しには、「高宮紗彩アナを悩ます恐怖のストーカー犯」とある。本文を読んでいくと、紗彩を四六時中、追いかけ回すストーカーがいて、プライベートな生活を盗撮し、あまつさえ、それがネットオークションで出回っているのだという。紗彩は精神的なショックを受けており、しばらく休職するかどうか、本気で考えている、というような内容の記事だ。
昨夜の紗彩の様子から、そこまでの深刻さはなかったものの、彼女の悩みの原因はこれかも知れないと私は思い当たった。
私はそんなストーカーがどこにいるのかと、外を窺ってみた。こうして毎日のようにマンションの前へ来ているが、怪しい人物を見かけたことはない。今もそれらしき人物を発見することはできなかった。
もし、この週刊誌の記事通り、紗彩を苦しめているなら、絶対に憎むべきことだ。私は愛する紗彩を必ず守ると改めて心に誓った。
やがて、紗彩がマンションから出てきた。出勤だ。彼女はテレビ局まで電車を乗り継いで通っている。いつもなら地下鉄の駅の方へ歩いていくはずだ。
だが、紗彩はマンションの前で足を止めた。そして、やって来た別のタクシーに向かって手を挙げる。まさか、タクシーで出社しようと言うのだろうか。それとも別の場所へ。
普段なら、このまま仕事へ戻るのだが、私は紗彩のことが気になって、自分の車をスタートさせた。そして、途中でUターンして、紗彩が乗ったタクシーを追いかける。こんなときに、乗客に呼び止められるのは面倒なので、「空車」から「迎車」の表示にしておくのを忘れない。
紗彩は渋谷を抜けると、そのまま国道246号線沿いを走り、六本木までやって来た。タクシーは交差点の所で停まり、紗彩を降ろす。紗彩は信号を渡ると、交差点の角に建っている老舗のカフェ、アマンドへ入っていった。
私は人も車も混み合う六本木で何とか駐車スペースを見つけると、そこに車を置いて、アマンドの近くへと行ってみた。アマンドは一階から三階が店舗になっている。その二階の窓際の席で、紗彩の姿を見つけた。
そのとき、私は道端で立ち尽くした。紗彩の向かいに、見知らぬ男性が座っていたからだ。