姉が死んだ。
私がそれを知らされたとき、何の感慨も抱かなかった。
携帯電話が鳴ったのは、ちょうど一時限目の授業が終わった後だ。相手は父。母や姉からは何度もかかってきたことはあったが、これが父からの最初の電話だった。
普段とは違う相手からの電話に、私は違和感を覚えた。普通じゃない、と。
案の定、電話口の父の声は深刻さとためらいを含んでいた。
「梢……いきなりの電話ですまない。今、大丈夫か?」
「うん。今、休み時間。でも、すぐ授業始まるから」
私は教室から廊下へ出ながら、父の言葉に応じた。廊下の窓から空を見上げると、梅雨明けしたばかりの青空が澄み切っていた。
「……落ち着いて聞いてくれ。実は……映美が……」
「お姉ちゃんがどうかした?」
私と姉は五つ年が離れている。昨年、大学を卒業し、今では信用金庫の窓口業務をやっているOLだ。昔から頭が良くて、性格もおっとりとしたタイプだったため、何事にも正反対な私は何かにつけて姉と比べられた。
しかし、姉はそんな私にいつも優しかった。ケンカをしたことはあるけれど、それは一方的に私が反発してのもの。姉が私をなじったことは、一度たりとしてなかった。傍目から見れば、とてもいい姉だと私も思う。
だが、いくら才色兼備で妹想いな姉だと言っても、それが好きかどうかは別問題だ。常日頃から鬱積した姉への劣等感はもちろんのこと、何でもそつなくこなして見せるのは、ウチの両親や周りの期待に応えようと無理矢理作っているように感じられ、そんな生き方が本当に楽しいのかと言いたくなる。もっと自分をさらけ出せばいいのに。この十七年間、私は──いや、私ばかりでなく、両親も周囲の人々も本当の姉を知らないのかもしれない。
だから、父から姉の名前が出たとき、正直、電話を切りたくなった。お姉ちゃんのことなんて、私には関係ない。わざわざ、そんなことで電話をかけてこないで。
心の中ではそう思いつつ、私は父の次の言葉を待った。しかし、しばらく待っても父は無言のままだった。
「お父さん?」
私は待ちきれず、父を呼んだ。すると微かに鼻をすするような音が。ようやく──
「映美が……死んだんだ……」
と聞けたのは、二時限目の始業ベルが鳴ったときだった。
姉が死んだ。
私は父の言葉を平然と受け止めていた。
ショックが大きすぎて、感情が麻痺したわけではない。自分の姉のことながら、他人事のように感じたのだ。
ニュースで痛ましい事故や事件で人が亡くなったとき、「なんてひどいことが」と感じても、それは自分とは直接関係ないところで起きたもので、現実感に乏しく、まるでドラマの中の出来事のように、たったひとつの短い感想で終わってしまうのとよく似ていた。
姉の死も実感が伴わなかった。
「そう」
そのときの私の答えは、何と淡泊だったことだろう。だが、他に言葉はなかった。
その後も、私は淡々と父の居所を聞き、電話を切ると、鞄に教科書やノートをしまって、早退することにした。親しい友人と二時限目の授業にやってきた数学の教師に事情を話す。おかしかったのは、彼女たちの方が驚いて、うろたえた表情を見せたことだ。気をしっかり持ってね、とか、タクシーを呼ぼうか、とか配慮をしてくれたが、私は大丈夫です、と答え、学校を後にした。
父の話によると、姉は私も良く知っている大学病院に運ばれたそうだ。詳しい事情は聞かなかったが、朝、私は姉と一緒に駅まで行ったのだから、それから事故なり事件に巻き込まれたのだろう。
私は姉が死んだというのに急ぎもせず、普通に電車を使って病院まで行った。
病院の受付で姉の名前を出すと、地下の霊安室まで案内された。エレベータを降りた途端、半袖の腕が泡立つほどひんやりと感じた。夏本番になって冷房の利きすぎだろうか、それとも他に原因があるのか。案内の看護婦が先に立って歩き出す。私は腕をさすりながら、その後についていった。
霊安室の前には簡素な長椅子が置いてあり、そこに父と母が並んで腰掛けていた。私が来たのにも気づかない。父は一気に老け込んだように憔悴し、母は顔を覆って泣きじゃくっていた。
「お姉ちゃんは?」
私が尋ねると、両親はやっと顔を上げた。
「梢……」
母は私に抱きついてきた。私を痛いほどに抱きしめ、嗚咽を漏らす。見れば父の目も真っ赤に腫れ上がっていた。二人で散々、泣いたに違いない。
だが、私は泣かなかった。泣けなかった。姉のためなんかに。
「何がどうしたの?」
私は事情の説明を求めた。どうして姉が死んだのか。
父は腰掛けたまま、頭を抱えるようにして髪をくしゃくしゃにした。白髪が目立つようになった父の頭。老いたな、と思った。
「轢かれたんだ……駅のホームで……転落して、そのまま走ってきた快速電車に……」
父は心ここにあらずといった様子で喋った。霊安室の方から線香の匂いが漂ってくるような気がした。
家から駅までは、たまに一緒になることはあったが、私の学校と姉の勤め先は方向が逆である。私は姉の身にそんなことがあったとも知らず、いつも通り電車に乗ったのだ。
「じゃあ、事故なの?」
最近、姉の顔色が悪かったのは両親も知っていた。今朝も母が仕事を休んだらどうかと言っていたくらいだ。だから私は、姉がホームで立ち眩みでもして、誤って転落したのかと思った。もっとも、姉の顔色がすぐれなかった本当の理由を私は知っていたが。
私の問いに対し、父はかぶりを振った。
「今、警察が、事件、事故の両面から調べている最中だ……目撃者の話が食い違っているらしい……自分から落ちたという人もいれば、誰かに押されたという人も……」
父はポケットからハンカチを取り出すと、それで目頭を押さえた。もう限界なのか、映美と何度も姉の名を呼びながら号泣する。私はその場にいたたまれなくなった。
私は父と母をそのままにし、一人で一階のロビーに上がった。自販機コーナーで炭酸飲料水を飲む。
何気なく病院の正面玄関へ目を向けると、一人の男性が駆け込んでくるところだった。
男性は息を整える間もなく、受付に駆け寄った。私は飲みかけのアルミ缶をゴミ箱に放り込むと、受付で慌てた様子の男性の肩を叩いた。
「広務さん」
「梢ちゃん……」
男性は驚いたような表情で、私を振り返った。
合原広務は姉・映美の婚約者だ。大学時代、姉の二つ先輩で、その頃から付き合いがあったと聞く。現在は会計事務所に勤め、秋には姉と結婚する予定だった。
多分、父から連絡が行ったに違いない。広務さんの顔は青ざめていた。
「映美は!? 映美は無事なのかい!?」
広務さんは私の腕の強く握るようにして尋ねた。私はその手をやんわりと包み込む。
「来て。案内するから」
私は受付の女性にうなずいて見せてから、広務さんをエレベータのところまで案内した。地下へのボタンを押す。それを見て、広務さんの表情が強張るのが分かった。
しかし、私は何も言わず、広務さんの腕にすがりつくようにした。姉の不慮を悲しむ妹に見えただろうか。両親の前ですら、こんなことは演じなかった。
エレベータに乗って、扉が閉まった瞬間、私は広務さんに抱きついた。そして、声を上げて泣く。姉のためなどではない。広務さんのために。
一年前、姉に紹介されたときから、私は広務さんが好きだった。さわやかな笑顔、鍛えた肉体、物腰の柔らかさと知的さ。どれを取っても、私が知る限り、最高の男性だった。
私はそれまで恋愛などしたことなどなかった。同じ学校の男子はガキっぽくて付き合い切れないし、年上の男性は優しい言葉をかけてくれても、その下心は見え見えだ。一見、今どきの女子高生をやっている私だが、まだ純血を捧げた相手はいなかった。
そんな私がただ一人、広務さんに心を奪われた。彼としてみれば、恋人の妹としてしか私を見てくれなかったかもしれないが、私は広務さんと一緒にいられるだけで充分だった。と同時に、そんな広務さんを射止めた姉が憎かった。
広務さんはよく姉の隣に座ると、姉の長い髪をなぜるようにしていたのを思い出す。そのときの姉の幸せそうな顔。思い出すだけで憎悪が湧き起こってくる。
もし、姉と広務さんがこのまま結婚していたら、私は嫉妬に狂っていたことだろう。だから、私にとって姉の死は悲しむべきことよりも、喜ばしい出来事だと言えた。
私は霊安室の前まで広務さんを案内した。広務さんは呆然と霊安室の扉の前で立ち尽くす。
「合原くん、来てくれたのか……すまない……」
父が顔を伏せたまま礼を述べた。母は相変わらず泣いたままで、何も言うことが出来ない。
広務さんは顔面を蒼白にし、霊安室の扉を開けようとした。私がそれを止める。
「広務さん……お姉ちゃんは……」
姉は通過する快速電車に轢かれたのだ。とすれば、姉の体はすでに……。
しかし、広務さんは私の声も耳に入らない様子で、霊安室の中へと入っていった。
しばらくして──
「うわああああああああっ!」
霊安室から広務さんの絶叫がこだました。
そのとき、私はどうしても嬉しくてたまらなかった。