私は広務さんと初めて会ったときを思い出していた。
その日、私は学校帰りに中学時代の友達と原宿へ出掛ける約束をしていた。待ち合わせは渋谷のモヤイ像前。友達が約束の時間に一時間ほど遅れるというメールがあったので、渋谷で適当に時間を潰し、再び待ち合わせ場所に戻ったときだった。
「お待たせ」
聞き覚えのある声に、私は顔を上げた。駅の方から駆け寄ってきたのは友達ではなく、姉の映美。当然のことながら、待ち合わせた覚えなどなかったので、私は驚いた。
それは姉も同様だった。私を見て、珍しく明るかった表情が能面のようになった。
最初に反応したのは私でも姉でもなく、私のすぐ隣に立っていた男性だった。姉に向かって白い歯をこぼす。
「じゃあ、行こうか」
その男の人は優しくそう言うと、姉の肩を抱いて促した。
私は茫然としてしまった。私が知る限り、姉は男性と付き合った経験など皆無で、今も恋人などいやしないとタカをくくっていたのだ。それがどうだ。姉の肩から長い髪へ手を回すこの男性と言ったら。世の女性たちの目を釘付けにするハンサムな顔と長身でもバランスの取れたスタイル。どうしてこんな素敵なひとが姉と待ち合わせをしていたのか、根本的なところからして間違っていると思った。
一方、姉はこの男性のことを私に知られてまずいと思ったようで、その場に立ち尽くしたまま、私を凝視していた。
そんな姉の様子がおかしいのに気づき、男性は視線の先にいる私の方を見た。
「知り合い?」
「妹……」
姉の声は沈んでいた。
「妹さん?」
そのひとは私と姉を見比べた。きっと対照的だと思ったに違いない。私は自分で言うのもなんだが、黙っていても周囲がチヤホヤしてくれる華やかな美少女高校生タイプ。対して、姉の映美は素材こそ私とそんなに変わらないはずなのに、服装も化粧も地味で、根暗に見られそうな感じだ。私たちが姉妹だとは、初対面の人には分からない。
私は先に頭を下げた。
「初めまして。妹の梢です」
「合原広務です」
「もしかして、お姉ちゃんの彼氏ですか?」
私が単刀直入に言うと、広務さんは苦笑しながら頭を掻いた。
「参ったなぁ。──何て言ったらいいのか」
広務さんは困ったように姉の顔を見た。だが、姉は相変わらず顔を強張らせたままだ。
「映美? どうした?」
広務さんが覗き込むようにすると、姉はやっと我に返った様子だった。
「ご、ごめんなさい。驚いちゃって……。梢、出来れば、このことはお母さんたちに内緒にしてて」
懇願するように姉が言った。私は小首を傾げる。
「どうして?」
「だって……お母さんたちに変な心配をかけたくないし……」
姉の声はか細かった。私は反論する。
「お姉ちゃんに彼氏が出来て、心配するわけないでしょ? むしろ喜ぶと思うよ」
姉は気まずそうな顔を見せた。姉が本当に気にかけているのは両親のことではない。私にはちゃんと分かっていたが、広務さんの前では口に出さないでおいた。
そこへ広務さんが助け船を出してきた。
「まあまあ、梢ちゃん。映美も困っているみたいだし、ここは僕に免じて黙っていてくれないかな?」
広務さんは私に優しく微笑みかけた。広務さんにそう言われては仕方ない。
「分かった。その代わり、今度、何かおごってよね」
私の交換条件を無邪気と思ったのだろう。広務さんは破顔しながらうなずいた。
しかし、姉の表情は、益々、翳りを帯びていった。
昔から私は、何でも欲しいものを手に入れてきた。
おやつでもオモチャでも、姉が買ってきた洋服ですら、欲しいと思ったものは、すべて私のものにしてきたのだ。
その犠牲になってきたのは姉である。私が欲しいと言うと、姉のものでさえ私のものになった。
両親はそんな私に半ば呆れながらも、最終的には「お姉ちゃんなんだから」と姉を説き伏せ、私に何でも与えてくれた。私は親に甘え上手だった。か弱い妹として振る舞い、どんな我が侭も聞き届けてもらった。
一方、姉はといえば、私に対してずっと我慢し続けてきた。姉としての自覚なのか、それとも遠慮なのか、決して我を張らず、一歩引いたところに居続けていた。
私はそれをいいことに親に甘え、姉が得るはずだったものを奪ってきたのだ。
他人から何かを奪うことは罪だろうか。否。私にはそれが悪いことだと思えない。すべては姉が了承してきたことなのだ。
イヤならそう言えばいい。それは私のもの、絶対に譲れない、と主張すればいい。
だが、姉は一度も拒否しなかった。仕方のない妹、とでも見下すように、あっさりと自分から身を引いて。
カッコつけて、何が楽しいって言うの?
私はそんな姉をせせら笑いながら、自分の欲望のままに行動してきた。可愛い妹に何でも与えてくれる姉に、私は欲しいものを欲しいと、素直に言ってきただけなのだ。
それの何がいけないのだろう──?
次の日曜日、私は出掛ける姉を尾行した。
広務さんに会いに行くことは分かっていた。姉が風呂に入っているとき、携帯電話のメールを盗み見て、デートの日時を調べ上げていたのだ。
まったく、姉はどこまでお人好しなんだろう。姉はあのとき悟ったはずだ。一目で私が広務さんを好きになったことを。
姉の危惧は、両親に広務さんのことが知られることではなく、私に知られることだった。そうしたら、私がいつものオモチャか洋服のように、広務さんを欲しがるんじゃないかと思って。
ならば、姉はもっと私を警戒するべきだった。私がこれまで、いかに周到な策略を巡らして、あらゆるものを奪ってきたことを考えれば。
姉は私の尾行も気づかず、有楽町の数寄屋橋交差点前で広務さんを待っていた。
程なくして、待ち合わせの時間が訪れ、広務さんが交差点を渡ってきた。私はそれを見つけると、いち早く広務さんに駆け寄り、二の腕にしがりついた。
「ヤだ! 広務さんじゃないですか!」
私はさも偶然を装った。いきなり抱きつかれた広務さんは、驚いた様子で私を見る。
「キミは……梢ちゃん?」
「キャッ! 憶えててくれたんですね! 嬉しいっ!」
私は思いきり、胸を広務さんに押しつけた。
この日のために、私は露出度の高い洋服を選んできた。ノーブラのキャミソールに、生脚を大胆に出したミニスカートだ。正常な男なら、私のこの色香に惑わないわけがない。
案の定、広務さんはウブな反応を示した。照れてぎこちなく笑ってはいるが、目線は私の胸と脚をさまよっている。目のやり場に困ると言った感じだ。
「今日はどうしたんですか、こんなところで?」
私はわざとらしく尋ねた。広務さんはドギマギしている。
「ああ、それが、その……」
広務さんは待っている姉をチラリと見た。
そのときの姉の目を私は今でも忘れない。私を射抜かんばかりの敵意に満ちた瞳を。