「はぁーっ、終わったぁ!」
夜七時。すべてのクリスマス・ケーキを売り尽くし、店を閉めた途端、私はカフェのテーブル席に腰掛けて、倒れ込むように突っ伏した。今まで忙しすぎて、何も感じなかったが、ようやく長い一日が終わったと安堵した瞬間、猛烈な疲労感がどっと押し寄せる。もう、ダメ。起きあがれない。
「お疲れさま」
奥の調理場から田崎さんが現れ、寝ている私をねぎらった。私はハッとして起きあがる。
「お疲れさまでした!」
一人でクリスマス・ケーキを作っていた田崎さんも、さすがに疲れた様子を見せていたが、どうにか大役を務め終えた充実感からか、その表情はホッとなごんだものになっていた。それにくらべれば、私の仕事なんてどうということはない。
「矢吹さん、お腹減ったでしょ? 今、何か食べる物を作るから、少し待っていて」
結局、昼ごはん抜きだった私を気遣って、田崎さんはそう言ってくれた。でも、お昼抜きなのは、田崎さんだって同じだ。
「じゃあ、私も何か手伝います」
私はすっかり重たくなった身体を、よっこらせと持ち上げようとした。しかし、田崎さんはそれをやんわりと制す。
「いいから、休んでいなよ。アッという間に出来るからさ」
田崎さんはそう言って、再び調理場へ戻っていった。なんだか今日一日で、すっかりたくましくなったような感じがする。
私は田崎さんの言葉に甘えることにした。正直、もう動きたくない。それに調理の腕前だって、私より田崎さんの方が上なのは明らかだ。私が手伝えることなんて、あまりないだろう。
田崎さんが何かを作ってくれている間、私は疲れた体を休めようと、ミニスカ・サンタの衣裳のまま、またテーブルに上体を預けた。ひんやりとしたテーブル面が火照った顔に心地いい。
ほんのちょっとだけ横になるつもりだったのだが、いつの間にかうつらうつらしていたらしい。ポケットの中の携帯電話が鳴り、私は飛び起きた。そうだ。すっかり忘れていたが、店長の容態がどうなったのか、まだ詳しく聞いていなかった。
送信者を確かめると、やっぱり香奈恵さんだった。私は慌てる。
「もしもし?」
「あっ、マリナちゃん? どうだった、お店の方は?」
「えっ、まあ、田崎さんのおかげで何とか無事に。──それより店長は? 店長は大丈夫なんですか!?」
「大丈夫よ、マリナちゃん。心配しないで」
「よかったぁ」
香奈恵さんの言葉を聞き、私は胸を撫で下ろした。それなのに──
「てゆうか、怒らないで聞いて欲しいんだけど、今朝のあれ、実はウソなのよ」
「はっ?」
「だから、ウチの人が倒れたって話、あれ、ウソ」
香奈恵さんが言っている意味を理解するのに、私はたっぷり十数秒を要した。
「ええーっ!?」
店長が倒れたのはウソだった。ということは、実際にはピンピンしているってこと? どうして、そんなウソを?
私の頭の中をいろいろな疑問が駆けめぐった。
「お節介かもしれないけど、これでマリナちゃん、田崎くんと二人でクリスマス・イヴを過ごせるようになったでしょ? まあ、かなりハードなイヴになったとは思うけど」
電話の向こうの香奈恵さんは苦笑していた。すべては香奈恵さんの陰謀。私と田崎さんは謀られたのだ。
「か、香奈恵さん!」
私は顔を真っ赤にして、騙した香奈恵さんに腹を立てた。本気で店長の容態を心配したのだ。それを私と田崎さんのために使ったウソだなんて。言っていいウソと悪いウソというものがある。そもそも、私と田崎さんをくっつけて欲しいと頼んでもいない。余計なお世話だ。
それなのに香奈恵さんは、自分の作戦がまんまとうまくいったことに満足しているようだった。
「大学生最後のクリスマス・イヴでしょ? 思い出に残るものにしてあげたかったのよ。まあ、私からのクリスマス・プレゼントだとでも思って」
「クリスマス・プレゼントって……」
私は釈然としなかった。しかし、
「それにね──今日、二人がお店を頑張ってくれたおかげで、私たち夫婦にもいいクリスマス・イヴになったわ」
「えっ?」
「だって、ほら、結婚してからずっと私たち夫婦は、ケーキ・ショップを営んできたでしょ? 当然、クリスマスは書き入れ時で休みなんかなし。だから、クリスマス・イヴに二人でどこかへ出かけることなんかできなかった。けど、今日はマリナちゃんたちのおかげで、クリスマス・イヴを十二分に満喫することができたわ。そういう意味では、私たちにとって素晴らしいクリスマス・プレゼントになったのよ。もっとも、ウチの人は、お店のことが気になって、それどころじゃなかったみたいだけど」
「………」
「二人を騙すようなことして、ごめんなさい。でも、今日は本当にありがとう」
「………」
「メリー・クリスマス! じゃあ、田崎くんにもよろしく言っておいて」
私が何も言えないまま、香奈恵さんからの電話は切れた。うーん、なんだか、うまく丸め込まれた気がする。でも、店長と香奈恵さんにささやかなクリスマス休日をあげられたことは、ちょっとよかったかも。そうだ。そう思うことにしよう。私は香奈恵さんのウソを許すことにした。
パッ!
携帯電話の電源を切った途端、急に店内の電気も消えてしまったので、私は驚いた。ヤだ、停電?
そうじゃなかった。店の外は、ちゃんと電気が点いている。じゃあ、どうして?
「メリー・クリスマス!」
いきなり声がかかり、私はその方向を見やった。田崎さんがゆっくりと調理場から歩いてくる。その手にはロウソクが立てられたケーキが。
呆然としている私の前に、田崎さんはそっとケーキを置いた。
「そして、ハッピー・バースデイ!」
私はびっくりして、思わず口元を両手で覆った。田崎さんがはにかむように微笑んでいる。
「香奈恵さんから聞いたんだ。今日が矢吹さんの誕生日だって」
そう。今日、十二月二十四日はクリスマス・イヴであり、私、矢吹マリナの誕生日でもある。
この三年間、ずっとひとりぼっちの誕生日を迎えるしかなかった私は、思いもかけない祝福に、目頭が熱くなった。
「さあ、ロウソクを吹き消して」
田崎さんに促され、私は一気にロウソクを吹き消した。たった一人からの拍手。でも、それで充分だった。私は照れくさそうに、ペコリとお辞儀した。
店内は再び真っ暗になったが、田崎さんは電気を点けなかった。その代わり、卓上にキャンドルを置く。私たちの周囲をキャンドルの炎がほのかに照らした。
窓の外は様々な恋人たちが通り過ぎていく。それを眺めながらの誕生日パーティー。洒落た演出だと思った。
「さあ、矢吹さんのために作ったんだ。食べてみて」
それは先日、田崎さんから試食を頼まれたケーキに似ていた。あれから改良したのか、中央にプリンが乗っていたりして、さらに凝っている。田崎さんは、それを私の皿に取り分けた。
「召し上がれ」
「いただきます」
田崎さんの目の前で、私はケーキを食べた。今夜は照明が薄暗いせいか、気恥ずかしさはない。腹ぺこだったこともあって、大きな欠片を一気に口の中へ放り込んだ。
「あっ、これ!」
「分かった?」
前回、フルーツ・ゼリーの隠し味に使われていたブランデーが、他のものに替わっていたことに、私は気づいた。
「りんごのジュース?」
「当たり! さすが、矢吹さん! これなら子供でも大丈夫でしょ?」
私はケーキそのもののおいしさよりも、この前の意見をちゃんと取り入れていることに感動した。
「どう? これなら、合格点かな?」
「んー、そうね。でも、私の採点は辛いから」
私はもったいぶった。本当は合格どころか、百点満点をあげたかったけれど。
田崎さんは苦笑した。
「ケーキだけに、辛いのは困るなあ」
「残念ですけど、私はそんなに甘くないからですから」
私は目の前の田崎さんに悪戯っぽく微笑んだ。
クリスマス・イヴ。好きな人と二人だけの夜。私はとても幸せな気持ちになった。これも香奈恵さんからのプレゼントのおかげだ。
私たちは田崎さんが用意していたシャンパンで、あらためて祝杯を挙げた。シャンパン・グラスが耳障りのいい音を響かせる。
「メリー・クリスマス!」
その夜、私はとてもハッピーだった。