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◆「覆面作家企画4」参加作品◆

アガトの巡礼

−1−

 チーン…… チーン……

 虫の音のようなものが、ずっと聞こえていた。それは聞こえてきては遠ざかり、また近づいては去っていく。それがアガトの巡礼者たちが身につける鈴の音だと分かったのは、後のことだった。



 ボクは道端に倒れていた。この何日か、まともなものを食べていないせいだ。どれくらいそうしていただろうか。ときどき意識を失っては、また気がつくという繰り返し。もう、とっくに時間の感覚がなかった。
 誰もボクに目もくれなかった。多分、生き倒れなんてありふれているからだ。ここまでの道すがら、ボクも多くの生き倒れている人たちを目にしてきた。他人を助けようなんて人はいない。だから、ボクもそうやって見捨てられた人たちと同じように、このまま死んでしまうのだろうなと思っていた。



 誰かがボクの肩を揺さぶった。そうされたのは、おかあさんに毎朝、起こされていたとき以来のことだった。ボクはすでに死んでしまったおかあさんを思い出した。
「もし? もし?」
 そう呼びかけてくるのは、女の人の声だった。それと、今まで通りすぎていた虫の音がうんと近くに聞こえる。だけど、ボクは返事ができなかった。かろうじて呻くことぐらいしか。
 でも、それでボクが生きているのだと分かったのだろう。枯れ枝のように骨ばった手がボクを助け起こし、口の中に水が流し込まれた。ボクはそれを弱々しく飲み込んだ。
「大丈夫かい? まあまあ、こんなに汚れて」
 わずかに目を開けると、痩せ細ったおばさんの顔があった。おばさんっていうのは失礼かもしれない。きっと貧しい生活が続いたせいで苦労を重ね、本当の歳よりも老けて見えるのだろう。しかし、その穏やかな微笑みは、死にかけていたボクをこちらの世界に引き戻してくれた。
 こうして、ボクはおばさんに命を救われた。



 次に目を覚ましたとき、辺りは夜になっていた。おばさんがボクのそばにいて、焚き火を起こしている。何か作っているのか、とてもおいしそうな匂いがボクの鼻をくすぐった。
「おや、目が覚めたかい? 起きられそう? あんたに粥を作ってみたのだけれど」
 なかなか身体に力が入らなかったけれど、ボクは自分一人で起きあがった。おばさんのおいしそうなお粥がそうさせたんだと思う。ボクは小さな鈴をくくりつけたおばさんの手からよそってくれたお粥を受け取ると、すぐ口に運び始めた。
「随分とひもじい思いをしていたようだね。あんたのお父さんやおかあさんは?」
 アツアツのお粥をかきこもうとするぼくに、おばさんが尋ねた。ボクはお粥を食べながら、いないという意味で首を振った。
「じゃあ、家はどうしたの?」
 また首を振った。
「名前は?」
 もう一度。
「名前くらいあるだろう?」
「アー……、アー……」
 ボクは声を出そうとしてみた。でも、いくらやっても出来ない。
 おばさんは驚いた顔をし、次に憐れむような顔をした。
「あんた、もしかして喋れないのかい……?」
 ボクは初めてうなずいた。



 ボクは生まれながらに喋ることの出来ない子供だった。
 家は貧しく、読み書きも勉強できなかったけれど、お父さんとおかあさんがいて、そして、まだ赤ん坊の弟がいて、自分が不幸せだと思ったことはなかった。
 それも、あの日までは。あの、恐ろしくて忘れることも出来ない夜までは――
 あの夜、ボクの村は、突然、敵兵に襲われた。ボクが住んでいる国は、ボクが生まれる前から隣の国と戦争をしているらしい。その敵の国がボクの住んでいる国に攻め込んで来たのだった。
 小さな、何もない村は瞬く間に焼かれた。お父さんたち男の人は戦ったけれど、敵には戦車があり、数も多かったので、手も足も出ずに殺されてしまった。たくさんの女の人たちは、敵の兵隊さんに捕まって、連れ去られた。そのとき、おかあさんは激しく抵抗したので、弟と一緒に殺されてしまった。
 ボクだけが家の床下にあった空の食糧庫の中に隠れるよう言われていたので、兵隊さんに見つからずに済んだ。あのときのことを思い出すと、目をつむることも恐い。夜もあまり眠れない。あれから、ずっと。
 でも、今夜ばかりはおばさんと出会うことができて、ぐっすりと眠れそうだった。



 おばさんはアガトの巡礼者なのだそうだ。
 ボクにはよくわからないけど、アガトという神を信じる人たちは、本当の世界への道を探しているのだという。では、このボクらが住む世界は本当の世界ではないのかというと、ここは前世に罪を犯した人たちが罰を受けるべく生まれてくるところだそうで、その証拠に神アガトの恩寵は届かず、そのせいで飢餓や戦いなどの苦しみや悲しみにまみれているらしい。アガトの信者たちは、前世の罪を贖いながら、誰もが幸福になれる本当の世界へ辿り着くべく巡礼しているのだと、おばさんは教えてくれた。
 その本当の世界へ行ける聖地が、この街道の西の果て、サルベジの町で見つかったという。おばさんが目指しているのもそこだった。
 おばさんは人生の何もかもに絶望したのだと、ボクに話してくれた。
 おばさんの家族は、疫病でみんな死んでしまったという。おばさんの旦那さんも、おばさんの子供である男の子も、女の子も。おばさんは独りぼっちになってしまった。その話を聞いたボクは、なんだか、とてもおばさんと似ている気がした。
 この世に何の未練もなくなってしまったおばさんは、一刻も早くアガトの神がいる本当の世界へ行きたいのだと言った。きっとそこで死に別れた家族と再会できると信じて。
「よかったら、おばさんと一緒に行かない?」
 ボクはうなずいた。おばさんが言うアガトの神を信じたわけじゃない。ただ、他に行くところなんてどこにもなかったし、何よりも助けてくれたおばさんのことが好きになりつつあったから。
 おばさんはボクのことを死んだ男の子のようだと言っててくれた。



 サルベジの町を目指したボクとおばさんの旅は、それから何日も続いた。
 ボクたちはお金を持っていなかったので、道端や川の中で食べられるものを探したり、通りかかる村などで施しを求めた。でも、食べものは簡単に手に入らなかった。どこの村も長い戦争のせいで生活が苦しかったし、最近はアガトの巡礼者になる人が多くて、毎日のように訪ねて来られて困っているらしい。みんな、自分たちが生きるだけで精一杯だった。
 だから、ボクたちはいつも空腹を抱えなければならなかった。それでも、ボクたちは旅を続けた。続けるしかなかった。



 ボクは旅の途中、おばさんから読み書きを教わった。おばさん曰く、ボクは喋ることができないのだから、読み書きは絶対に必要だと。確かに、ボクは出会ってから何日にもなるのに、おばさんに自分の名前を教えることもできなかった。
 勉強はおばさんが唯一持っているアガトの聖典を教科書にして、読んだり書いたりを憶えた。もっとも、ボクは言葉を発することができないから、おばさんが読むのを自分の心の中で繰り返すだけ。間違っていても、おばさんには分からない。それに、ぼくは字を憶えることが苦手で、とにかく時間がかかった。
 そのうち、ボクは勉強が嫌いになった。



 でも、やがておばさんは、ボクに勉強を教えてくれなくなった。ボクが出来の悪い生徒だったからではない。おばさんの体の具合が悪くなったからだ。
 どうやら、おばさんの家族を奪った病気が、おばさんをも黄泉の国へ連れていこうとしているらしい。
 歩く足は遅くなり、旅は進まなくなった。それでも、おばさんは歩けるかぎり、アガトの聖地へ行こうと歯を食いしばった。最後の希望であるサルベジの町を目指して。
 ボクは、そんなおばさんの杖となり、足となりながら、一緒に歩き続けた。



 とうとう、おばさんが倒れた。
 おばさんはとても高い熱を出し、下痢と嘔吐を繰り返し。
 ボクは近くに住んでいる家の大人に助けてもらおうとしたけど、声を出せず、読み書きもできないボクに、誰かを呼んでくるということは出来なかった。ウーウー、アーアーと言っても、まったく取りあってもらえない。こういうとき、しっかりと勉強しておけばよかったと後悔した。でも、今は泣いているときではない。ボクは助けをあきらめ、おばさんの熱を下げようと、近くの小川から濡らしてきた手ぬぐいを何度も取り替えた。
 でも、おばさんの熱はまったく下がらなかった。それどころか、段々、具合が悪くなっていくみたいだった。
 もう何十回目かになる手ぬぐいの交換をしようとしたボクの手を、虫の息のおばさんの手がつかんだ。
「もういいよ……、もう……」  ボクは座り込みながら涙がこぼれた。おかあさんたちが殺されたとき、もう悲しいことなんて二度とないと思っていたけれど、それは間違いだった。
 おばさんはボクの頭に手を伸ばしてきた。ボクは自分から頭を寄せるようにして、おばさんに抱きついた。おばさんは力のない手で、優しくボクの頭を撫でてくれた。そのとき、手首にくくりつけてあった鈴が悲しげな音をたてた。

 チリン……

「ごめんね……あんたをサルベジの町まで連れて行ってやれなくて……」
 そんなことはどうでもよかった。ボクはおばさんと一緒にいられれば、それだけでよかったのに。
「ごめんね……」
 おばさんはもう一度云言った。泣いていた。もしかすると、おばさんも自分の家族と死に別れたときのことを思い出していたのかもしれない。
 ボクもまた泣きながら、そのままおばさんにしがみつくようにして一緒に寝た。


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