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◆「覆面作家企画4」参加作品◆

アガトの巡礼

−2−

 次の日、おばさんの体は冷たくなっていた。
 人間は死んだら、おばさんが言っていた本当の世界へと帰っていくのだろうか。そうだといいなと、ボクは思った。
 ボクは近くの木の下におばさんを埋めた。そして、半日ほど、その場に座って、おばさんの魂を慰めた。
 やがて、ボクは立ちあがった。おばさんの形見である鈴を自分の手首に巻いて。
 行こう、サルベジへ。おばさんが行くことができなかった聖地へ行って、本当の世界というものを見てやろう、と。それがボクに出来る、せめてものことだと思った。



 それからボクは何ヶ月も旅を続けた。
 それは、まだ子供のボクにとって辛いことが多かったけれど、手首の鈴の音を聞くたびにおばさんが一緒にいてくれるような気がして、何度も元気を取り戻した。
 サルベジの町が近くなるにつれ、アガトの巡礼者の姿も多く見かけるようになった。どうやら、多くの信者がおばさんと同じように聖地の話を聞き、サルベジの町を目指しているようだった。それだけ、このひどい世界から逃れたいと切に願っている人が多いということなのだろうか。



 とうとう、サルベジの町に辿り着いた。
 でも、そこは聖地というイメージとはかけ離れたところだった。
 元々は、白壁の建物が整然と並ぶきれいな町だったのだろうと思う。でも、今は黒くすすけたようになっていて、すでに人も住めない廃墟となっているものが多く見られた。なんだか、まるで打ち捨てられたみたいに、とても荒れ果てている感じがした。
 それでも、各地から集まってきたアガトの巡礼者たちが、次から次へとサルベジの町へと入っていった。その光景は、まるで住む場所を失った難民たちのようだった。ボクもその列に並んで、少しずつ前に進んだ。
 アガトの聖地はサルベジのほぼ中心地にあった。うらぶれた町の中にあって、白亜の神殿だけが厳然とそびえ建っていた。サルベジの町でも一番の大きさだろうと思われた。
 そのとき、町の外で、ドーンという大きな音がした。驚いて振り返ると、黒い煙があがって、たくさんの人たちがこちらへ逃げてくるのが見えた。あれは軍隊の攻撃だと、ぼくは村を焼かれた記憶から分かった。
「軍がこの町に押し寄せて来たぞ!」
「しかも隣国のじゃない! この国の軍隊だ!」
 誰かが、そう叫んでいるのが聞こえた。この国の軍隊って、どういうことだろう。どうして、国民であるはずのボクたちを攻撃しようとするのだろうか。
 神殿から何人もの僧侶が出てきた。そして、逃げまどう人たちを誘導し始める。
「早く神殿へ! 軍はこの世界を見限ろうとする私たちを拘束するつもりです!」
 それで、どうして軍が巡礼者たちを攻撃しようとしているか分かった。隣国と戦闘状態である今、多くの民衆がアガトの信者となってこの世界からいなくなってしまえば、戦う兵も、調達する食料も補充できなくなってしまう。国を支えるべき人間がいなくなれば、国は滅びるしかない。きっとそれを権力者は恐れているのだろう。だから弾圧を加えに来たのだ。
 戦火は段々と神殿の方へ迫ってくるようだった。ボクは多くの巡礼者と一緒に、神殿の中へと逃げ込んだ。



 神殿の中は、確かに広かったけれども、とても外にいる全員を収容できるとは思えなかった。それなのに、ぼくたちは奥へ奥へと通されていく。不思議な感じがした。
 その理由が奥の院に入って分かった。町の広場よりも広い奥の院の中心に、大きな穴が口を開けていた。それは確かに穴なのだけれども、下に見えるのは剥き出しの土や暗い穴の底ではなく、まるで水のようにゆらめく、銀色に近い光の渦だった。
 それはゆるやかに回りながら、ときどき模様みたいなものが浮かび上がり、それが七色に変化していた。何か光そのものが生きているような感じを受ける。こういうものが神殿の中で見つかれば、本当の世界への入口だと信じたくもなるだろう。
 でも、ボクが驚いたのは不思議な穴のことではなく、その光の渦に向かって、次々と巡礼者が飛び込んでいることだった。
 巡礼者が光の渦に飛び込むと、水に入ったときのように頭が浮かんでくることはなく、そのまま姿を消していた。確かに、光の渦を見つめていると、心が自然と穏やかになり、吸い寄せられるような気持ちになっていく。だけど、まるで投身自殺でもするように多くの人たちが落ちていく光景を見るのは、とても心臓に悪い気がした。
「これが本当の世界への入口なのですか?」
 ボクのすぐ近くで、若い男女が案内役の僧侶に質問していた。僧侶のおじさんは無表情にうなずいた。
「少なくとも我々は、そう信じております。アガトの聖典には、こちらの世界とあちらの世界をつなぐ門があると記されています。これこそが、その門なのでしょう。しかし、残念ながら、それを確認することはできません。この中に入って、戻ってきた者はいないのですから。そんなわけで、これが本当にアガトの聖なる門であるかは、聖職者である我々にも分かりません」
 あまりにも率直すぎる僧侶のおじさんの言葉は、たぶん、二人が期待していたものと違っていただろう。もっと、これが聖典に書かれている門だと断言してもらい、安心したかったはずだ。若い男女の顔には、ここまで来て、本当に信じていいのかという迷いがあった。
 いきなり、足の下から突き上げてくるような振動があった。どうやら、軍の砲撃がいよいよ神殿の近くまで迫ってきたようだ。追いつめられた巡礼者の多くは、もう飛び込むしかないと心を決め、目をつむって、光の渦に身を投じていった。
「どっちにしろ、もう終わりだわ。軍に捕まったら、私たちは異教徒として責められ、死ぬまで強制労働をさせられる。仮に逃げても戦争の道具にされるだけよ」
「そ、そうだな……、それなら、いっそのこと……」
 若い男女は決意を固めたようだった。互いの顔を見つめ合い、最後の口づけをかわす。そして、離れ離れにならないよう抱き合ったまま、光の渦へと飛び込んだ。
「急いでください! もう、あまり神殿がもちそうもありません!」
 旅立った二人を見届けた僧侶のおじさんが大きな声を出して、まだ迷っている信者に告げた。その声に背中を押されるようにして、またたくさんの人たちが穴へと殺到した。
 ボクは穴の淵に立ったまま、アガトの門へ多くの信者が、ある者は叫び、ある者は祈り、ある者は信仰と疑心を抱きながら落ちていく、まるで煮えたぎった鍋の中に人間という食材を投げ入れるような異様な光景を眺め、足がすくんだ。
「さあ、坊や、君はどうする?」
 さっきの僧侶のおじさんがボクに声をかけてきた。自分の身も危ないというのに、一人で旅してきたボクのことを気遣ってくれているらしい。
 ボクは……、ボクは……、
 手首にくくりつけたおばさんの鈴を見つめた。

 チーン…… チーン……

 考え抜いた末、ボクは答えを出した。
 ボクは気にかけてくれた僧侶のおじさんにお礼のつもりで微笑むと、首を横に振り、穴の淵から離れた。
 僧侶のおじさんはボクの決心を分かってくれたらしく、穏やかな顔でうなずいてくれた。
「そうか。ここから出るなら、向こうの裏口を使うといい。坊や、生きろよ。強く生きろ」
 ボクは僧侶のおじさんに別れの手を振りながら、教えてもらった裏口から神殿を出た。軍の砲撃は、さらに激しくなっている。ボクはそれをかいくぐりながら、兵隊さんたちが神殿に取りつこうとしているうちに、サルベジの町から脱出した。
 ボクはこの世界に留まることにした。この世界は、争いと貧困がはびこる、ろくでもない世界かもしれない。苦しみと悲しみに満ちた世界かもしれない。でも、ボクはこの世界に生まれた。お父さんとおかあさんの子として生まれ、優しくしてくれたおばさんや僧侶のおじさんと出会った。ここがボクの世界だ。ここの他にボクが生きていくところなんてない。そう思った。
 サルベジの町からさらに西へと、ボクは新たに旅立った。
 ボクは一人になっても、この世界で生きていく。死んでしまった人たちのためにも。いくら口が利けなくたって、読み書きもまだ憶えていなくたって、いつか、この世界に生まれてよかったと思える日まで。


<劇終>




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