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かくして、アキトとアヤネによる影踏みが始まった。
鬼であるアキトが、逃げるアヤネの影を踏めば勝ち。アヤネは少女の姿をしていて小柄だが、この夕暮れの世界では影が三倍にも四倍にも長く伸びている。ちょっと本気を出せばすぐに捕まえられると、アキトは楽勝のつもりでいた。
だが、アヤネはこの異界を作り出したあやかし。この世界では、何でも彼女の意のままになる。
逃げていたアヤネの姿が、突然、消えた。次の瞬間、五十メートルくらい離れたところに忽然と現れる。それはまるでテレポーテーションをしたかのようだ。愕然とするアキトに、アヤネは大人びた顔を見せて笑った。
「簡単には捕まらないよ」
「くそっ!」
とにかく負けず嫌いなアキトは、アヤネを追いかけた。チーターも真っ青なスピードで、アヤネに迫る。
それに対し、アヤネの姿はどんどんと遠ざかっていった。涼しい顔をして、消えては現れ、現れては消える。アキトはまるで捕まえることの出来ない逃げ水を相手にしているかのようだ。
「ほーら、こっちこっち」
アヤネはアキトとの影踏みを無邪気に楽しんでいた。猛然と追いかけてくるアキトを、時折、嘲笑しながら挑発する。
アヤネはひらりと、アキトに壊されて池の中に落ちた回転遊具の上に飛び乗った。アキトも負けじとジャンプして、飛び移ろうとする。しかし、寸前でアヤネの姿はまたしても消え、代わりに池の水が間欠泉のように噴き上がった。
ドォォォォォォォォォン!
「うわあああああああっ!」
当然、アキトは吹き飛ばされた。二十メートルほど宙に舞い上げられ、為すすべなく、そのまま水が引いてしまった池へ落下する。それから数瞬遅れて、池の水が雨のように降り注いだ。
ざあああああああああっ!
短い雨は、空にひとときの虹を作り出した。それを眺めたアヤネが、子供らしい感嘆の声を上げる。
「わあああああっ、すごーい!」
アヤネは鉄棒の上に座るようにしながら、喜んで手を叩いた。
雨が上がり、虹が消えると、アヤネは鉄棒から飛び降りた。そして、アキトが落ちたはずの池へ近づく。
「お兄ちゃん、もう降参?」
アヤネは池の水面に向かって訊いた。すると返事の代わりに、水泡が浮かび上がる。それは徐々に数を増した。
ブクッ……ブクッ……ブクブクブクッ……!
「ぷはぁーっ!」
息苦しそうにアキトの頭が浮上した。そして、口からピューッと水を吐き出す。
「よく生きてたね」
アヤネは感心したように言った。
アキトはそんなアヤネに殺意のこもった視線を向けながら、やっとの思いで池から這い上がった。そして、四つん這いになりながら、苦しそうに咳き込む。
「こ、こ、この野郎……いきなり池を深くしやがって! マリアナ海溝よりも深いかと思ったぞ!」
死にそうになりながらも、アキトは毒づくことを忘れなかった。
アヤネは笑う。
「だって、この世界はアヤネそのものだもん。だから好きに作り替えることが出来るのよ。でも……ここではアヤネ一人だけ。ずっとずっと、ひとりぼっち。だから、たまに誰かが迷い込んできてくれると嬉しいの。そのときだけ、ひとりぼっちじゃないから。──もっとも、みんな、すぐにアヤネと遊んでくれなくなっちゃうんだけどね」
最後は少しだけ淋しげな表情を見せたアヤネだった。
だが、アキトは同情しない。
「それはお前が、老いることもなく、時間も意味を為さない存在だからだろ。そんなヤツに普通の人間がずっと付き合いきれるわけがねえ」
懸命に息を整えながら、アキトは言った。その言葉は自分自身にも突き刺さる。吸血鬼<ヴァンパイア>もまた不老不死。これまでも永久の時間の中をさすらってきた。今、友として接してくれるつかさとも、いつまで一緒にいられるか。それを考えると、切なさを覚える。
一方、アヤネはアキトに背を向けた。そして、ゆっくりと歩き出す。アヤネの影もまた、アキトから遠ざかった。
「じゃあ、お兄ちゃんとアヤネはお似合いだね。このまま、ずっとずっと遊んでよ」
振り返ったアヤネの顔は、あくまでも無邪気だった。しかし、子供だからこそ、相手への思慮が足らず、わがままに見られることもある。
アキトは唾を吐いた。
「ヤなこった! オレは帰る! この勝負が終わったら、メガネを連れてな」
そう宣言して、アキトは立ち上がった。全身はびしょびしょで、髪もぺしゃんこだが、アヤネに向ける眼だけはギラギラとしている。降参など、この男の辞書にはない。
アヤネもまた、不敵な姿勢を崩さなかった。
「ふーん。まだやるの? ムダだと思うけど」
「どうかな?」
アキトは自信ありげに笑みを作った。そして、改めて児童公園を見渡す。それはアヤネが作り上げた、永遠の黄昏の世界。
「──お前、さっき言ったよな? この世界はお前そのものだって」
「それがなぁに?」
「この公園がお前そのものなら、この公園にある影はお前の影同然ってことだろ?」
アキトは口の端を吊り上げた。そして──
ちょうどアキトの立っている場所まで、外灯の影が長く伸びていた。その影をアキトは踏みつけようと、足を上げる。
「これでオレの勝ちだ!」
勝ち誇ったアキトだったが、次の刹那、足は外灯の影を踏み損なっていた。いや、正確には──
「なにぃ!?」
アキトは目を剥いた。たった今、そこに立っていたはずの外灯が消失している!
「あはははははははっ!」
アヤネはお腹を抱えて、おかしそうに笑った。
すると、次々に公園内の施設や樹木が消えていった。滑り台もブランコも、池も茂みも立て看板も。予想もしなかった出来事に、アキトはただ立ち尽くすしかない。
「アヤネはもう一つ言ったはずだよ。好きに作り替えることも出来るって。そろそろ、この風景にも飽きていたんだ。新しく作り直す前に、この世界の真の姿を見せてあげる」
公園が跡形もなく消えていく光景は、まるで時間が巻き戻っているような感覚を受けた。アヤネとアキトだけを残して、坂時町児童公園はジグソーパズルのピースが一枚一枚剥がされていくようになくなり、とうとう夕焼け空までも色を失った。
「………」
アヤネの言う真の世界は、水彩絵の具が滲んだような灰色の空間だった。地平線もなく、上下の区別もつかないため、平衡感覚も距離感覚もまったくつかめない。普通の人間なら、こんなところに長時間いたら気が狂ってしまうだろう。
「どう?」
茫然としているアキトに、アヤネは尋ねた。そのとき見せた表情が、少しだけ淋しげに映った気がする。これこそがアヤネそのものだとすれば、何とも悲しい色ではないか。
周囲を見渡すアキトの眼が、灰色の空間に、それ以外のものを見つけた。そこには仰向けになって寝ているセーラー服の少女──寧音<ねね>だ。公園というカモフラージュがなくなったため、呆気なく発見することが出来た。
さらに、その近くには白くて細かいものが山と積まれていた。吸血鬼<ヴァンパイア>の視力は、それがおびただしい量の骨だと判別する。きっと、このアヤネの世界へ迷い込み、その犠牲となった人間や動物のものだろう。
「おい、メガネ!」
アキトは大声を出して、寧音<ねね>を呼んだ。しかし、寧音<ねね>は、
「ウチの特ダネ……これでピューリッツァー賞はいただきや……」
という寝言を返し、まったく起きる気配を見せない。
「呑気に寝やがって」
元の世界では、みんなが心配しながら探しているというのに、こうして何の危険も感じず、無防備な姿でいるのを見ていると、腹立たしく思えてくる。
アキトは叩き起こしてやろうと、寧音<ねね>の方へ行きかけた。
しかし、そこへアヤネが立ちふさがる。
「まだ、勝負はついてないよ」
「何言ってやがる! お前から影踏みをやめちまったんだろうが! オレの不戦勝だな。約束通り、あいつを連れて帰るぜ」
アキトはそう結論づけて、アヤネを避けようとした。だが、アヤネも執拗だ。
「さっきのは引き分けよ。次で決めましょう。今度はお兄ちゃんが、どんな遊びをするか決めていいから」
「ああん?」
アヤネの提案に、アキトはしかめっ面をした。だが、アヤネもあのような決着では引き下がりはしないだろう。ここは完全に勝利して、グウの音も出ないようにすべきかも知れない。
アキトはニヤリと笑った。
「オレが決めていいんだな」
「うん」
「じゃあ、オレとの勝負は──これだ!」
アキトは拳を握って見せた。今までの鬱憤を大暴れして晴らすつもりだ。
「念のために言っておくが、ジャンケンじゃないからな」
「分かってるよ」
アヤネはうなずくと、後ろに回した手からお面を取り出した。縁日で売っているような、キツネのお面。
「こっちも、それなりの準備をさせてもらうから」
そう言うと、アヤネはキツネのお面をアキトの顔の前に突き出した。アキトは思わず、後ずさる。と、その刹那、アヤネは姿を消し、代わりに長身の男が立っていた。
長身の男と言っても、顔はキツネのお面によって隠されている。背丈はアキトと同じくらい。服装も真似たのか、琳昭館高校の夏用男子制服を着ていた。
「ほう」
アキトは感心したように呟いた。そして、やっと面白くなってきたと、自然に顔がほころぶ。
そんなアキトへ向かって、いきなりキツネ面の男がパンチを振るってきた。
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