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秋の夜空に、血塗られたような赤い月が昇った晩。
河川敷に掛かる大きな鉄橋の上で対峙する二つの影があった。
その下にはヘッドライトの強烈な光とテールランプの赤い光が尾を引くように行き交い、決して絶えることがない。今は帰宅ラッシュの時間帯だ。しかし、誰もその上で繰り広げられている邂逅に気づかなかった。
そもそも誰が想像し得るだろうか。高さ三十メートルはあるところに、命綱もなしに立ち尽くす者がいるなどと。
もちろん、どちらも尋常な人間ではなかった。いや、人間かどうかさえも疑わしい。下界は平穏な日常生活の一コマに過ぎないが、鉄橋の最高部は人外の世界であった。
「手間を取らせてくれたな」
人影が言葉を紡いだ。一見、人間の若い男だ。二十代半ばか。全身、ワイシャツもネクタイも同色の黒いスーツ姿で、顔にはサングラスまでしている。川沿いに吹きつける風がその身体を揺さぶっても、男はズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、平然と立っていた。
一方、男と対峙している影は人よりも獣に近い。二本の足で立ってはいるが、長い腕は足下につきそうなくらいまで垂れ下がり、姿勢も不格好なほどに前傾している。例えるなら、サルやゴリラだろう。黒く長い体毛が全身を覆っている。だが、身長は黒ずくめの男よりも頭二つ分は高かった。眼は赤い光を放ち、口は耳元まで裂けている。これを言い表せる言葉はひとつしかない。“化け物”だ。
奇妙な二つの影。どちらも発している雰囲気は“殺気”だった。
化け物は男の出方を窺っているように、ジッと動かない。男も直立不動の姿勢を崩さなかった。
「最近は人間の欲望が強くなっているせいか、お前のようなヤツが増えているようだ。そのおかげで、こちらは儲けさせてもらっているがな」
「………」
「どれ、とっととケリをつけさせてもらおうか」
男はポケットから両手を抜くと、あろうことか素手で化け物に向かっていった。狭い鉄骨の上を躊躇なく蹴る。
化け物は歯を剥き出しにして威嚇した。やはり、キーッというサルに似た奇声を発する。
その化け物の頭頂部へ、男は手刀を振り降ろした。黒い服装と対照的に、血が通っていないかのような肌の青白さ。指先も男のものとは思えぬほど細く、きれいだ。
化け物は男の手刀を飛び退くようにかわした。そして、すぐさま着地した男へ襲いかかる。
化け物の手だけは、サルではなく、異様に長い鉤爪の形をしていた。それが男の胸元へ振るわれる。男はすぐに身を反らして、鉤爪を回避した。当たっていたら、裂傷どころか、肉をごっそりと持って行かれたことだろう。
恐ろしい化け物の武器にも、男の表情に怯えはなかった。むしろ、この状況を楽しむ余裕すら感じられる。
横幅のない高い鉄橋上での戦い。にも関わらず、両者の動きはまったく地上でのものと変わらなかった。
攻勢に転じた化け物は、鉤爪を持つ手を振るい続けた。それに対し、男は冷静にかわしていく。それも紙一重の動きだけで。
しかし、それにもやがて飽きたのか、男の顔から遊びの表情が消えた。
「やれやれ。バカのひとつ覚えみたいな攻撃しやがって。こんなのはな──」
鉤爪を振るってきた化け物の左手首に、男は手刀を叩き込んだ。すると、それは鋭利な刃物にでも切断されたかのように、黒い血を撒き散らしながら鉤爪が宙を舞う。化け物が苦鳴を上げた。
「──というわけだ」
男はニコリともせずに言った。
左手を失った化け物はひるんだ。男に畏怖を感じたらしく、少し後ずさる。そして、おもむろに空中へダイブした。
化け物が飛び降りたのは、川ではなく道路側だった。ちょうど走ってきた大型トレーラーの荷台に着地する。運転手は背後でした物音に気を取られたが、そのまま無視して走り続けた。
アッという間に大型トレーラーに乗った化け物の姿は遠ざかっていった。鉄橋の上で、男は呆れたように見送る。
「おいおい、勘弁してくれよ」
男は肩をすくめると、自らも身を躍らせた。事前に目星をつけておいた高速バスの上に降り立つ。こちらは物音ひとつ立てない、軽やかな着地だった。
大型トレーラーと高速バスは、都心方向へ一定の距離を保ちながら走り続けた。この辺は交通量はあっても人通りが少ないので、まだ誰も男や化け物に気づかない。しかし、それも時間の問題だった。
男は化け物を追うべく、高速バスの屋根の上で助走をつけると、思い切り跳躍した。さすがにトレーラーまでひとっ飛びとはいかない。その二十メートル先を走っていた宅急便のトラックの上に乗った。そこから次々と車の屋根に飛び移り、化け物との距離を縮めていく。
そんな男の姿は、とうとう多くのドライバーによって目撃された。このままだと騒ぎになりそうだ。
男はサングラスを外すと、後ろを振り返った。男に気づいたドライバーたちが、その眼を見る。男の眼は赤く妖しげに光った。
するとドライバーたちは、一瞬、意識が飛んだような顔つきになった。そして、すぐさま我に返る。そのときには車の上を飛び移っていく男のことは忘れ、眠気に襲われたのかと頭を振りながら、運転に集中した。
男がかけたのは、催眠術による記憶操作だった。これでドライバーたちは、男のことなど記憶の片隅にも残らないはずだ。化け物や自分の正体を知られないためには、どうしても必要な処理だった。
化け物を乗せた大型トレーラーは、高速道路下の産業道路を走り始めた。信号機による停車が増え始め、より追いつきやすくなる。男は一気に距離を詰めた。
「この野郎、ふざけたまねをしやがって!」
男の立場からすれば秘密裏に片をつけるつもりだったので、化け物が人目のつく中へ逃げたことに怒り心頭だった。大型トレーラーの上に辿り着くと、問答無用で化け物の頭を蹴る。
その衝撃で化け物は大型トレーラーから高速道路下の中央分離帯に落ちた。進入禁止のフェンスに囲まれ、二車線分ほどの広さがあるスペースだ。そこに高速道路の橋脚が立っている。交通量の多い都会の中で、まるで取り残されたようにぽっかりと空いた場所だった。
叩き落とされた化け物は脳震盪を起こしかけて、頭を振りながら立ち上がった。その目の前には、いつの間にやって来たのか黒ずくめの男。もう、どこへも逃がしはしないつもりだった。
「観念しろ」
殺気をみなぎらせながら、男は手刀をかざした。
男を前にして化け物は唸った。背中を向ければやられるだろう。残された道は二つに一つしかない。
化け物は決死の覚悟で男に襲いかかった。渾身の力を込め、残された右の鉤爪で男を切り裂く。男は動けなかった。しかし──
「──!?」
確かに切り裂いたと思われた刹那、男の姿は消失していた。それは残像に過ぎなかったのだ。化け物は男の姿を捜した。
「こっちだ」
不意に後ろから声がした。化け物が振り向く。そこに男が立っていた。
男の眼が鋭く光ったように見えた瞬間、目にも留まらぬ蹴りが繰り出されていた。それは男よりも頭二つ分大きな化け物の体を易々と吹き飛ばす。化け物は背中から高速道路の橋脚に激突した。
あまりの衝撃に、化け物の体はコンクリート製の橋脚にめり込んだ。まるで磔のような格好になる。そんな化け物へ男は悠然と近づいた。
「ジ・エンド」
無情に告げられた死の宣告。それと同時に、男の手刀が化け物の喉笛を貫いた。
急所を突かれた化け物は、痙攣を起こしかけて、すぐに動きを止めた。ガクンと頭が落ちる。すると化け物は急に実体を失ったかのように、黒い羽根が舞い散らされるようにして消えてしまった。あとには男だけが残される。
男は突き出した腕を下ろすと、再びサングラスをした。そして、ポケットから黒革の手袋を取りだし、それをはめる。
立ち去ろうとした男の前に、いつの間にか、もう一人の男が立っていた。身なりが整っている他は、取り立てて特徴らしい特徴を持たない中肉中背の紳士である。男に向かって拍手をしたあと、慇懃に頭を下げた。
「しっかりと拝見させていただきました。相変わらず見事なお手並み。上には私から報告しておきます」
紳士にそう言われ、男は苦笑した。
「『見事なお手並み』とは恐れ入るな。少しやりすぎちまった」
男は橋脚に残った戦いの痕跡に目をやった。化け物の死体は残らなかったが、こちらは隠しようもない。
「ご心配なく。そちらは我々の方で処理させていただきます」
「オレのギャラからさっ引いてか?」
「はい」
「チッ! ちゃっかりしてやがるな」
男は肩をすくめながら歩き出した。そして、フェンスを軽々と乗り越える。
「じゃあ、いつもの口座に振り込んでおいてくれ。明日中にな」
「はっ、確かに」
紳士は再び一礼しながら、夜の街へと消えていく男の後ろ姿を見送った。
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