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「おはようございます」
やや間延びした挨拶をして、野暮ったい黒縁の眼鏡をかけた長身の青年が登庁してきた。すでに仕事を始めていたS区役所福祉保険部保護課の職員たちは、チラリと視線を向けただけ。青年は頭をポリポリと掻きながら、自分の席に就こうとした。
「仙月さん!」
登庁してきた青年を見咎めたのは、一人の女性職員だった。口調は厳しいが、元々が可愛らしい声なので、あまり迫力がない。怒った顔もまるで拗ねているようだった。
「『おはようございます』だなんて、今、何時だと思っているんですか!?」
その女性職員、早乙女詩織は明らかに年上だと見られる青年に詰問した。青年は少なくとも二十五、六。一方、詩織はまだ女子大生──いや、女子校生でも通りそうに見える。詩織は童顔なので、常に年齢よりも下に見られがちなのだ。その割に胸の発育はよく、制服の上からでも豊かなバストが揺れていた。
可愛い詩織を前にして、この区役所内に鼻の下を伸ばさない男はいない。しかし、仙月と呼ばれた青年は本当に申し訳なさそうな顔をした。
仙月影人<せんづき・かげひと>は、ほんの一ヶ月ほど前に中途採用で職員となった青年である。詩織にしても、まだ就職して二年目で、影人とそんなに変わらないはずなのだが、とにかくこの青年、茫洋として無気力な仕事ぶり。根が真面目である詩織としては、一応の先輩として、日夜、影人の指導に勤しんでいた。もっとも、影人にいくら言ってものれんに腕押しで、詩織一人が、勝手に空回りしているようにしか周りの者には見えなかったが。
今日も影人が登庁してきたのは、午前十一時すぎ。朝というよりは、すでに昼に近い。しかも、こんなことはしょっちゅうで、とっくに社会人失格のレッテルを貼られてもおかしくなかった。それなのに、なぜか影人はクビにもならず、こうして遅刻を繰り返している。
「どうして、きちんと登庁できないんですか?」
詩織は言うことを聞かない子供を叱るように、影人を睨んだ。影人は頭を掻きながら、
「夕べはその……夜遊びが過ぎまして」
と言い訳した。
「よ、夜遊び!?」
詩織はギョッとした。影人はその茫洋とした雰囲気さえ除けば、かなりの二枚目である。人なつっこい仔犬のような目を向けられると、つい母性本能をくすぐられてしまうタイプだ。昼間の姿からはとても想像できないが、夜は多くの女性たちと関係しているのだろうか。詩織はそんな場面を思い描いてドギマギした。
「あっ、間違えました。“夜遊び”じゃなくて“夜更かし”でした」
驚く詩織を見て、影人は訂正した。どうやら天然ボケだったようである。詩織はホッと胸を撫で下ろした──って、なぜホッとしたのか、自分でも分からなかったが。
「何が夜更かしですか! いつもしっかりと定時で帰っているくせに! 少しは仕事に身を入れてください!」
詩織は顔を赤らめながら、影人を叱咤した。影人はしょぼくれたように、すみませんとひたすら謝るのみ。
「まあまあ、詩織ちゃん」
そこへ課長の桑原照光が仲裁に入ってきた。小太りで頭が薄く、おまけに背の低い、仕事の上でとても頼りにならない上司だ。健康サンダルをペッタンペッタン鳴らしながら、渋茶の入った湯呑みを右手に、二人の間に割って入る。
「仙月くんもちゃんと反省しているようだし、今日は私に免じて、許してやってよ、詩織ちゃん」
じわっと汗の浮かんだ額をてらてらと光らせながら、桑原課長は妙な猫なで声で詩織をなだめた。その目は詩織の顔ではなく、大きく膨らんだ胸の方を向いている。この課長のセクハラ視線には、いい加減、詩織もうんざりしていた。できれば少しでも関わり合いたくない。
「わ、分かりました」
あんたが上司としてしっかりしていれば、こんなことは私から言う必要はないんだ、と心の中で悪態をつきつつ、詩織は逃げるようにして身を退いた。自分の席へ戻っていく詩織のヒップを桑原は好色そうな目線で追いかける。そして一転、励ますように影人の背を叩いた。
「仙月くん、キミもしっかりと頼むよ。助役からキミのことを頼まれた私の立場もあるんだから」
「はあ」
小声でささやく桑原に、影人は生返事を返した。それを聞いた職員は、やっぱりという顔をする。なぜ、こんな影人のようなパッとしない男が中途採用で区役所には入れたのか、かねてよりおかしいと思っていたのだ。どうせ何かコネがあったんだろうと噂していたのだが、まさかその通りだったとは。
影人はスゴスゴと自分の席に就いた。しかし、影人の向かいの席は詩織である。ジッと睨まれ、影人は思わずズレた眼鏡を直した。
「仙月さん」
詩織が呼んだ。
「は、はい?」
「午後から私と一緒に来てください」
「え?」
「どうやら書類整理とか得意そうじゃないので、今日は表に出て仕事してもらいます」
「はあ」
「先輩として、私がしっかりと教えますから」
「は、はあ」
戸惑う影人にそれだけを言うと、詩織はプリプリしながら自分の仕事に戻った。
影人は、参ったなあ、という具合に、ただ頭を掻くしかなかった。
「早乙女さん、どこへ行くんです?」
河川敷の土手の上を詩織の後にくっついて歩きながら、影人は尋ねた。この場所は、昨夜、黒ずくめの男と化け物が戦った鉄橋の近くである。今はそんな名残など微塵もなく、平和でのどかな風景が広がっていた。
影人は思わず立ち止まって、河川敷を眺めた。観光用の遊覧船がゆっくりと川上に向かって上っていく。空は雲ひとつなく、秋めいたさわやかな風が影人を撫でた。
「ちょっと、仙月さん。何しているんですか? こっちですよ」
後ろに影人がいないことに気づいて、詩織が急ぐように促した。まったく、マイペースも甚だしい。
影人は小走りになるでもなく、のんびりと詩織に追いついた。そんな影人に詩織はある方向を指差す。
「今日、私たちが行くのはあそこです」
詩織が示したのは、ひとつの橋だった。
橋そのものは、至って普通のものだった。人と車が往来している。しかし、視線を転じれば、その橋のたもとにテントのようなものが建てられていた。
テントに見えたものは、近づくと青いビニールシートでうまくこしらえたものだと分かった。その周囲にはアルミ製のバケツやポリタンク、壊れたテレビなどの電化製品や古タイヤなどが置かれている。いや、置かれているのか、放置されているのかは議論の分かれるところだろう。一見するとゴミの山だ。
それを一瞥して顔をしかめる詩織に、影人は尋ねた。
「こんなところに何の用です?」
「見て分からないんですか? ここは路上生活者──つまり、ホームレスの家です」
「そりゃあ、分かりますけど」
「本来、こんなところで生活してちゃいけないんです。私たちは区の人間として、ここの人に退去を求めるため、こうして来たんじゃないですか」
「ああ!」
合点がいったのか、影人はポンと相づちを打った。しかし、すぐに疑問の顔になる。
「それって、僕らの仕事なんですか?」
詩織は頭痛がしてきた。
「仕事なんです! 私たち福祉保険部の! こういう人たちを相応の施設に入居させ、ちゃんとした仕事に就かせることも、重要なことなんです! 普通の生活が出来ない人を助けるんですから!」
「……誰が助けてくれと言った?」
不意に背後から声がして、影人と詩織は振り返った。そこには労務者風の不潔そうな身なりをした男が立っていた。その後ろには空になったリアカーを引いている。明らかに浮浪者だった。
突然のことに、詩織の顔が引きつった。影人は愛想笑いを浮かべる。
「ど、どうも、S区役所の仙月と申します」
影人は下手に出ながら浮浪者の男に名刺を渡した。男はうさん臭そうな顔つきで受け取り、名刺の名と影人を交互に見やる。そして、いきなり名刺をポイッと捨てた。
「あわわわっ!」
影人は慌てて名刺を拾いに走った。隣にいた詩織は、益々、顔を強張らせる。
「あなたがあの住居の住人ですか?」
「だったら何だ?」
男が喋ると、ひどいアルコールの臭いがした。定職には就かないくせに、昼間から酒を飲んでいるらしい。詩織はひるみそうになるところを何とか奮い立つ。
「あそこに住むことは、都の条例でも違法です。数日以内に退去してください」
「都の条例違反だあ? あんたら、区役所の人間じゃなかったのか?」
「ここは区の管轄でもあります!」
「けっ! ふざけるんじゃねえや! ここから出て、オレはどこで暮らせって言うんだ!? その辺で野垂れ死ねとでも言うのか?」
「そんなこと言ってません! ちゃんとした仕事を探す約束をしてくだされば、ここよりももっとマシな入居施設に入れます! おじさんだって、この生活をずっと続けるわけにもいかないでしょ? それに川縁の近くだなんて、もし大雨でも降って増水したら、命の危険だってあるんですよ?」
詩織は真剣に訴えた。だが、男は唾棄するように、聞く耳を持たない。
「余計なお世話だね。何を今さら。これまで国や都がオレに何をしてくれたって言うんだ? 本当に苦しいときに、誰一人として何もしてくれなかった! 結局、下の人間のことなんてどうでもよく、上の人間だけが甘い汁を吸うんだ! だからオレは一人で生きていくと決めたのさ! それでもオレのためだって言うんなら、ほっといてくれ! それが今のオレにとって一番だ!」
男は唾を飛ばしながら言い放った。詩織は鼻白んだが、簡単には引き下がれない。
「そ、そんなことできません!」
残念ながら詩織の声は震えていた。男はさらに激怒した。
「帰れ! オレは絶対に出て行かないぞ! オレは今の生活を守るんだ!」
男に迫られて、詩織は硬直した。もう声も出ない。
そこへ名刺を拾ってきた影人が、詩織の後ろからそっと肩をつかむようにして引き下がらせた。
「早乙女さん、今日のところは帰りましょう」
「で、でも……」
「ささ、いいから」
影人は詩織をなだめながら、その場を退散した。男は引いていたリアカーを下ろして、拳を振り上げる。
「二度と来るな!」
男の怒鳴り声が引き上げる二人の背中に浴びせられた。
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