夜中に目を覚ますと、いつの間にか窓から風がそよいでいることにマサキは気がついた。就寝前、確かに巡回の看護師が窓を閉めていったはずだ。マサキの病室は一人部屋なので、他に開ける患者はいないし、今夜は過保護な母も泊りではない。不可解さを覚えながら頭を起こした。
普段、無味乾燥を絵に描いたような無機質な病室の中は、まるで暗い水底のように青い影に彩られていた。窓から柔らかな月の光が届き、闇を美しく照らし出しているせいだ。ふわりと風をはらんだカーテンがひるがえるのを見ていると、マサキは夢の続きなのではないかと怪しんだ。
外は満月。神々しいまでの清らかな光がマサキの目を射た。こんな月を見るのは、果たして、いつ以来だろうか。マサキはしばらく、中天より注ぐ月明かりに心を奪われた。
「よお」
その声は不意にかけられた。にもかかわらず、この部屋に一人だけであったはずのマサキに驚いた様子はない。まるで、この真夜中の来訪を知っていたかのようだった。
「やあ」
マサキは笑顔を向けた。彼の親友であり、クラスメイトでもある月島彰人に。
夜風になびくカーテンの後ろから、彰人は姿を見せた。長身痩躯。まるで研ぎ澄まされたかのような身体は同じ高校生とは思えない。そう見えるのはマサキが病弱であるがゆえだろうか。ハンサムでありながらニヒルな印象を受ける顔は、今夜は珍しく、どこか淋しそうな笑みを浮かべていた。
「ようやく来てくれたね」
マサキは今まで一度も見舞いに訪れなかった親友に対し、責めたような口ぶりではなく、むしろ安堵したように出迎えた。そんなマサキに、彰人は困ったような表情になる。本当は病床に伏している友人の姿など見たくなかったに違いない。こうして来てはみたものの、まるで初対面の相手と顔を合わせたみたいに、どうしていいのか分からないといった感じだった。
だが、それでもマサキはただ来てくれただけでうれしかった。
「窓からやって来るなんて、いかにも君らしいよ」
ここは地上四階の病室なのだが、マサキはそんなことなど少しも不思議に思っていないようだった。彰人はそわそわしだす。
「どうも病院ってのは苦手でいけねえや」
「だからって、こんな真夜中に」
「お前と二人だけで話をしたかったからな。昼間だと、お袋さんとか、他の見舞客もいるだろ?」
「しょうがないなぁ。でも、本当は来てくれないんじゃないかって思っていたんだ。来てくれて、ありがとう」
「そんな、真面目くさって言うなよ」
アキトは鼻の頭を掻いた。照れ臭いらしい。
「それにしても、きれいな月だね。こうしていると、君と初めて逢った日のことを思い出すよ」
マサキは月を仰いだ。彰人もそれにならう。
「憶えているかい? あのときも、こんな風に月がきれいな晩だった」
「ああ」
二人は同じように外を眺めながら、二年前の出逢いを思い出していた。満月の晩、夜の散歩道で。
遠い記憶に浸っていると、突然、マサキがフフッと笑い出した。彰人が訝る。
「どうした?」
「――いや、あのときのことを思い出したら、おかしくて。君への第一印象を知っているかい?」
「知るわけないだろ」
彰人は心外そうに言った。
「本当にあのときの君、おかしかったもの。僕、変な人なのかな、と思ったよ」
「失礼なヤツだな」
「それがまさか僕と同じ学校に転校してくるなんてね。こんなドラマみたいなことが本当に起きるなんて、今でも信じられないよ」
「ちぇっ、勝手に言ってろ。どうせオレは、おめえみたいに育ちもよくねえし、頭の出来も悪いよ」
笑っているマサキに、彰人はむくれた顔つきをした。そんなヘソを曲げた親友にマサキは優しく微笑む。
「でも、君のおかげで、この二年間、とても楽しい思い出ができたよ。本当に充実した、いい高校生活だった」
「………」
ふくれていた彰人は、マサキの感謝の言葉に、また困ったような顔に戻った。病人とは思えぬ、すがすがしい表情をしたマサキとは対照的に。
二人の間に沈黙が流れた。
次に口を開いたのは、またもやマサキだった。
「あと少しで卒業か。あっという間だったね」
「ああ」
「みんなで文化祭を盛り上げたり、放課後の幽霊騒ぎを解決したり、退学になりそうだった先輩のために、校長先生に直談判したり……そう言えば、夏休みには泊まりで海にも行ったよね。そうしたら、乗っていたボートが流されて、無人島に辿り着いたりして。あのときは大変だったなあ。もうダメかと思ったんだから。実際、君がいなかったら、帰って来られなかっただろうって、今でも思うけど。――本当に何もかもが昨日のことのように思い出されるよ」
「ああ」
彰人は短い返事をすることしかできなかった。つい無口になりがちになる。そんな彰人に、
「ありがとう」
マサキは唐突に頭を下げた。それを見て、彰人はうろたえる。意表を衝かれた。
「な、なんだよ、いきなり」
「君に一度は言っておきたくて。もう、これが最後になるかもしれないし」
彰人が来てから、初めてマサキの笑みに翳りが見えた。彰人は真顔になってマサキのベッドに近づく。その表情も動きも強張っていた。
「バカなこと言うな。これが最後だなんて、そんなこと……そんなことあるもんか!」
彰人はマサキの手を握った。夜風に当たったせいか、マサキの手はひどく冷たい。ハッとした彰人は夜風が吹き込む窓を閉めようとした。
「待って」
マサキはそれを制した。友人に懇願する。
「そのままにしておいて」
「だけどよ、身体に障るんじゃ――」
「せっかくの月だもの。月に照らされる君を見ていたい。あの夜と同じく」
「じゃあ、せめて窓だけでも」
「夜の匂いも憶えておきたいんだ。ちょっとくらい、平気だから」
ベッドの上からの願いに、彰人は断ることも出来ずに従った。マサキの元へ戻る。
「マサキ、あまり弱気なことを言うな。お前は大丈夫だ。元気になるさ。そして、オレたちと一緒に卒業するんだ。そうだろ?」
励ます彰人に、マサキは弱々しい笑みを返した。短い会話も彼には体力の消耗を強いる。しかし、それ以上につらいのは現実だ。
「悪いけど、自分の体のことは自分がよく分かっているつもりだよ。僕はもう長くない。ここまで生きられたことが奇跡なくらいさ」
マサキは虚しそうに呟いた。彰人は、そんなマサキの肩を鷲掴みにする。痛いほどに指を食いこませ、マサキの折れそうな身体を激しく揺さぶった。
「そんなことはない! お前は死にやしない!」
「………」
「お前はこれからもオレと一緒だ! 離れ離れになんかなりゃしねえ!」
「ありがとう。でも、いいんだよ。僕は――」
「バカ野郎! お前がよくったって、オレや待っている学校の連中はどうすんだ!? それに半田のヤツは!? あいつは、お前が退院して戻って来るって、ずっと信じていやがるんだぞ! それが奇跡っていう確率だと分かっていても、だ! お前は、そんな半田をほったらかして逝くつもりかよ!」
彰人が口にした名に、初めてマサキの感情が揺らいだ。それでも想いを封じ込めるように目を閉じる。
「聖子には……聖子には君がいる。聖子が好きなのは君だ」
「ふざけるな! あいつが好きなのはお前だよ! 小さい頃から一緒のくせに、そんなことも分からねえのか!」
「分かっているよ。よく分かっている。僕らは兄妹のように育ったんだ。誰よりも彼女のことを知っているつもりだから」
マサキは力なく笑った。そして、自分の両肩をつかんだ彰人の手をそっと引き剥がす。それはとても弱々しい力であったはずなのに、彰人には、どうにも抗うことができなかった。
「だから彼女のことをよろしく頼む。こんなことを頼めるのは、君しかいない」
そう言って、マサキは顔を伏せた。泣いているのを悟られまいと、声を押し殺して。
震えているマサキの手を彰人はつかんだ。そして、抱きしめるように身体ごと引き寄せる。彰人はマサキの耳元で囁いた。
「マサキ、お前さえよければ、オレがお前を――」
囁く唇から、二つの尖った歯が覗いた。それは八重歯などという生易しいものではなく、吸血鬼<ヴァンパイア>が持つという乱杭歯ではなかったか――
「やめてくれ」
首筋に彰人の唇が触れる寸前、マサキは静かに言った。短い言葉には恐れも憤りもないが、決然たる拒絶が秘められている。マサキの左手が彰人の胸に添えるようにして置かれ、これ以上の抱擁を許さなかった。
「そんなことをされて、僕が喜ぶとでも思うのかい?」
「だけど――」
「君と僕らは違う。君だって分かっているはずだ。そうだろう? 僕は君の友達にはなれても、同族にはなれない。それに死ぬのなら、僕は人間として死にたい」
「マサキ……」
今度は彰人がうつむく番だった。
マサキは親友の気持ちに感謝しながら、最後の願いを口にした。
「僕が死んでも、ずっと忘れないでいて。矢追マサキという人間がいたことを。僕は何も残すことはできないけれど、永遠に近い刻<とき>を生きられる君になら託すことができる」
しばらく手を握り合った後、二人はそっと離れた。彰人は入ってきた窓辺に近づき、最後に親友の顔を見つめる。ずっと記憶に焼きつけようとするように。
「じゃあな」
「うん」
マサキは笑顔で手を振った。これまでにない、すがすがしい表情で。まるで、また明日の再会を誓うように。
それを見届けると、彰人は窓の外へと身を翻した。やって来たときと同じく、忽然と。
再び夜の静けさが室内に戻ってきた。ただ、白いカーテンだけが風にそよいでいる。今あった出来事は、実は夢か幻だったのではないかと、そんな疑念すら抱かせる穏やかさであった。
マサキは無二の親友を思い出す月を、もう一度、見上げた。
「さようなら、アキト」
<第14話おわり>