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相手よりも速く!
それが忍足薫<おしたり・かおる>の剣道だ。
竹刀を握って十年近く。小さい頃からお転婆で、元気の有り余っていた薫は、近所の町道場に入門すると、たちまち持ち前である負けん気の強さも手伝って、同学年の男の子を打ち負かしてしまうような剣士へと成長した。高校一年生になった今や、その実力は全国レベル。この夏の都大会は個人で三位だったが、それも審判による誤審が原因だと言われている。来年こそは全国大会での活躍も夢ではないと噂されていた。
だが――
観客席から様々な歓声が浴びせられる中、薫は目の前の相手に対して、攻め手を欠いていた。竹刀を構えた切っ先が小刻みに揺れる。フェイントなどではなく、迷いから生じるものだった。
相手になっているのは群馬の強豪、創央学園の三年で主将の白河史帆。防具の一切から下の胴着まで白一色に統一され、唯一、胴の腹部分だけが鮮やかな朱色を為している。高校剣道を知る者が見れば、一目で全国女王だと分かった。
その史帆は、試合が開始されたというのに、一向にかかって来なかった。だからと言って、ただ突っ立っているわけではない。相手を圧するような猛々しさがない代わりに、ひと度、振るえば、真剣のような鋭さで斬り伏せられてしまう、そんな隙のなさが窺える。それゆえに薫は攻めて行けぬのであった。
とはいえ、いつまでもこのまま睨み合ってはいられない。相手が動かないのなら、こちらが動かしてみせるまでだ。
「やああああああああああっ!」
腹の底から声を出し、薫は自分に気合を入れた。無敗の女王に対し、果敢に攻撃を仕掛けていく。小さな爆発が起きたかの如く、竹刀が激しくぶつかった。
何とか史帆の取る構えを崩そうと、薫は必死に手数を繰り出した。だが、悔しいことに、そのすべては軽く受けられてしまう。体勢を崩すことなど出来ない。面金の奥から覗く白河史帆の目は、不気味とすら言えるほど冷静に薫を見つめていた。
それでも立ち向かって行こうとする薫であったが、攻撃を重ねるうちに、やがて奇妙な感覚に捉われた。自分が攻めていながら、むしろ史帆によって引き込まれているような錯覚だ。すべては彼女の術中にはまっているのではないか。そんな気がしてならない。それは次第に薫自身の焦りへと転じていった。
そんな薫の心中を読み取ったみたいに、史帆は防御から攻撃へと移った。まずい、と思ったときは遅い。鋭い小手面打ちが来た。
「カテ、メヤァアアアアアアッ!」
一瞬、ひるんだ薫であったが、身体が自然に動いた。互いの身体がぶつかり、鍔迫り合いに持っていく。肝を冷やす場面だったが、どうにか凌ぐことが出来た。
引き面を警戒しながら離れると、すぐにまた史帆は静かな構えに戻った。あれだけの攻撃を受けて、少しも呼吸が乱れていないのは大したものだ。対する薫などは、両肩が上下してしまっているし、背中を汗が伝うのも感じていた。
試合の前から分かっていたことだが、やはり無敗の女王には敵わない。薫がこれほどの実力差を思い知らされたのは何年ぶりだろう。
それでも勝ちたい。中学の頃より目標としてきた史帆から一本を取りたい。そのために今日まで稽古に励んできたのではないか。
薫は念じた。
と――
乱れていた呼吸は、徐々に整えられていった。相手に臆する心も薄らいでゆく。
薫の目が力強い光を帯びた次の刹那――
「メェェェェェェェェンッッッ!」
まるで翔ぶように、薫は床板を蹴った。電光石火の飛び込み面。この三年、薫が磨き続けてきた技だ。相手よりも速く――そのための武器だった。
打ち込んだ薫には、スローモーションのようにすべてが見て取れた。完璧な仕掛け。さすがの史帆も、この一瞬に賭けたスピードには対応できないはず。勝てる。
そう勝利を確信したとき――
目の前から史帆の姿が消えた。避けたのではない。有り得ないが、まるでテレポーテーションでもしたかのように消えたのだ。
薫は信じられない面持ちのまま、史帆の残像に虚しく振り下ろされて行く自分の竹刀を見た。
そして――
不意に気配を背後に感じた。いる。後ろに。まるで幽霊に立たれたかのようだ。薫は血の気が引いた。
素早く振り返るつもりが、何とも自分でも歯がゆい動作になった。渾身の一撃が躱されたことによって、戦意まで消失してしまっている。あとはやられるだけ。振り向きながら薫は観念した。
だが、振り返った薫は、さらに驚かされた。背後に回ったのが、史帆ではなかったからだ。
「遅いわね」
それは琴姫杏だった。しかもミリタリーコートにデニムのショートパンツという明らかに私服の出で立ち。観客席ならばともかく、試合場に立てる姿ではない。
どうして杏が、と思ったが、それは言葉にできなかった。ショックのせいか、声が出せない。そんな薫に対して、杏がニヤリと笑いかけた。そして、一言、
「アンタの負けよ」
杏は軽く跳びあがると、右足を高く上げた。爪先が垂直に立つ。かかと落としだ。
なぜ、杏が試合中に乱入し、薫を攻撃してくるのか。しかも、周りには審判や試合を見守っている仲間もいるのに、誰も杏を止めようとしていない。まったく事態が理解できなかった。
唖然とする薫の脳天に、杏のかかと落としが振り下ろされた。
「きゃああああああっ!」
ドタッ!
自分でも驚くような悲鳴をあげて、薫は目が覚めた。己の状況を把握するのに、しばしの時間を要する。
「夢か……」
ベッドから上半身だけ落ちかけた格好で、薫は呟き、安堵した。寝汗がひどい。夢の中ですっかりと試合をしているつもりになっていたようだ。多分、ベッドから落ちたのも、反射的に杏のかかと落としを躱そうとしたせいだろう。
(それにしても……)
これはかなりのトラウマになっているなぁ、と薫は自己分析した。白河史帆と琴姫杏。どちらも薫がかつて敗北を喫した相手だ。
史帆とは三年前の中学の大会以来、試合をしたことがない。それでも強烈な印象が残っているということになる。その前から無敗の女王の名は薫のところにも届いていたが、手も足も出なかったのはあれっきりだ。
今年の夏、史帆と再戦できるかと期待していたが、残念ながら大会で当たることはなかった。史帆は薫より二つ年上。噂では剣道が強いことで有名な王道院大学への進学が決まっているらしい。薫が再戦するには、高校卒業を待たねばならなかった。
もう一人の琴姫杏とは、ついこの間、手合わせをしたばかりだ。しかも、そのとき杏は竹刀を持っておらず、徒手空拳による異種格闘技対決だった。通常、得物を有する剣道家が優勢であるはずなのに、結果は惨敗。これほどプライドを傷つけられたことは、かつてなかったことである(詳しくは「WILD BLOOD」の第16話「アンタッチャブルは突然に」をご参照くださいませ)。
どちらも薫にとってのトラウマではあるが、同時に憧れの存在でもあった。彼女たちのように無類の強さを身につけたい。そうすれば自分はもっと成長できる、そんな気がした。
「姉ちゃん、大丈夫?」
いきなり、ノックもなしに部屋のドアがそっと開けらると、まだ幼さの残る訝った顔が覗いた。弟の元気だ。隣の部屋で姉の悲鳴を聞き、何事かと思ったのだろう。
「こら、勝手に覗くな」
薫はレディに対するエチケットがなっていない弟を注意した。
元気は小学五年生だが、アイドルの様な顔立ちなので、女の子たちには人気があるらしい。今年のバレンタインにはかなりの数のチョコレートを家に持って帰って来ていた。当人曰く、「予想よりも少なかったかな」だとか。そんな元気を、薫は“ませガキ”だと思っている。
生意気盛りの元気は、五歳年上の姉に叱られてもへっちゃらだった。
「そんなベッドから落っこちて、しかもヘソ丸出しで、カッコ悪いなあ、姉ちゃん」
どうやら引っくり返った拍子にパジャマの裾がめくれてしまったらしい。薫は慌ててお腹を隠した。これでも年頃の女の子なのである。
「うるさいわねえ! あっち行ってなさいよ!」
「それに、『きゃあああ』とか言っちゃってさ。姉ちゃんらしくねえの。何? 高校生にもなって、怖い夢でも見ちゃったとか?」
「アンタには関係ないでしょ! 早く出てって! それとも、私が着替えるとこ、覗く気なわけ!?」
「バッカじゃないの? そんなの一億円もらったって見たくないよ! イーッ、だ!」
元気はアカンベーで返すと、頭を引っ込めて行ってしまった。生まれた頃は可愛い弟だと思っていたが、最近はやたら反抗的で、小憎らしいだけだ。薫は夢のこともあってムシャクシャする。
「ああっ、もおっ! シャワーでも浴びて、シャキッとしよ、シャキッと! ――よいせっと!」
薫は弾みをつけて、引っくり返った体勢から起きあがろうとしたが、うっかりとバランスを崩し、またコケた(苦笑)。
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