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夜の神戸ポートターミナル。港のシンボルでもある神戸ポートタワーなどがライトアップで彩られ、市街地と相まった美しい眺めは「1000万ドルの夜景」と謳われている。
そんな中、すっかり人気が絶えたはずの港に複数のうごめく影があった。
桟橋に停泊しているのは、今朝、香港から四日間の航海を経て入港したクルーズ船だ。クルージングを満喫した乗船客たちはとっくに下船したはずだが、その船上には船員とは思えぬ怪しい人影が仄見える。デッキから港の様子を睥睨していた。
「“どう?”」
囁くような少女の声は広東語だった。誰にも気づかれぬよう警戒しているのか、声音は必要以上に小さめに抑えられている。
「“大丈夫そうだ”」
少女と同じ広東語で少年が答えた。しかし、声には安堵よりも、むしろ用心深さが滲む。
その隣で大きく息を吐き出した者がいた。
「“だから言ったろ? もう到着して半日以上になるんだぜ。そこまで慎重になる必要はないって”」
幾分、年下らしい少年が緊張をほぐそうとするかのように軽口を叩く。だが、その唇は言葉に反して渇いていた。
「“明邦(ミンバン)。用心に越したことはない。何しろ、オレたちを狙っているのは《ヤツら》なんだからな”」
「“そうは言うけどよ、天麟(ティンリン)。ここは香港じゃなく日本だ。さすがに《ヤツら》もここまでは――”」
「“それはどうかな?”」
不意を衝くように、全く別の場所から声がして、甲板上の不審人物たちは総じて身を強張らせた。今の今まで、少しも気配を感じさせなかった謎の声の主に戦慄を覚える。
「ようこそ、日本へ」
今度は聞き慣れた広東語ではなく、この国の言葉――日本語だった。
いつの間にか、誰もいなかったはずの船首に人影が立っていた。黒いスーツに黒いワイシャツ、おまけにネクタイも黒という念の入れようだ。その姿は濃厚な夜の色合いに溶け込みかけている。
少年少女たちは、謎の人物の出現に驚愕し、金縛りみたいになっていた。
「“香港からの刺客か?”」
少年たちの一人が怯えを顔に張り付かせながら言う。すると黒尽くめの男は冷笑を浮かべた。
「“オレは香港からの刺客なんかじゃない。香港から連絡を受け、お前たちを拘束するよう依頼された、この日本の狩人だ”」
再び日本語から広東語に戻しながら男は話した。表情は穏やかだが、目だけは鋭い。実際、その視線だけで身動き出来ない者もいる。飛び道具を持っている様子はないが、動けばやられる――そんな殺気が伝わってきそうだ。
「“大人しく抵抗しないでくれれば、こちらも手荒なことはしないと約束しよう”」
七名の少年少女に対し、たった一人である男が降伏を勧告した。それとも他に仲間がいるのだろうか。少年たちは周囲に注意を配る。
「“あなたに従った場合、その後、僕らはどうなるんです?”」
一番年長らしい少年が代表者として尋ねた。その隣で美しい少女が表情を硬くしている。十六、七といった年齢か。制服を着たら、日本の高校生で通りそうだ。
「“おそらく、香港から来るエージェントに引き渡し、そのまま送還ということになるだろう”」
「“やはり、そうか”」
少年は男の言葉に唇を噛んだ。せっかく日本へ渡って来たというのに。
そこで少年の一人が動いた。
「“天麟(ティンリン)、相手は一人だ。やっちまおう”」
「“よせ、明邦(ミンバン)!”」
血気盛んな仲間に対し、年長者の少年が制止しようとする。だが、他の少年たちも同意見らしい。皆、目で訴えかけている。
「“明邦(ミンバン)の言う通りだよ! ここで捕まっちゃ、何にもならないじゃないか!”」
「“そうだよ!”」
「“降星(ロンシン)、飛星(フェイシン)! お前たちまで!”」
「“おいおい、妙な考えは起こさないでくれよ”」
少年たちの不穏な様子に、黒尽くめの男は肩をすくめた。どうやら面倒なことになりそうだ、と。
「“あんなヤツ、僕一人で!”」
風船ガムを膨らませた、日本なら中学生くらい少年が色めき立つ。
「“ま、待て、耀文(ヤオウェン)!”」
みんなから天麟(ティンリン)と呼ばれている年長者の少年が止めようとしたが、すでに遅かった。
パン、と膨らませていた風船ガムが割れた瞬間、耀文(ヤオウェン)という少年の姿は消えていた。
次の瞬間、船首に立つ黒尽くめの男の頭が左へ傾いた。その直後、姿を消したはずの耀文(ヤオウェン)少年が現れる。残念ながら、右手のパンチは黒い革手袋をした相手によって受け止められていた。
と、次には両者の姿が消え、今度はどうやって移動したものか、最上階のデッキへと闘いの場を移しているではないか。目まぐるしいのを通り越し、目で追うことさえも出来やしない。
「“なかなかどうして。結構、素早いじゃないか”」
「“やぁっ!”」
感嘆する黒尽くめに、一発でもパンチを入れようと耀文(ヤオウェン)は躍起になっていたが、どれもことごとく躱されてしまう。闘ううちに、ようやく自分がとんでもない相手に挑んだことを悟ったが、だからといって今更退くわけにもいかない。
「“耀文(ヤオウェン)!”」
年下の少年の身を案じ、天麟(ティンリン)が叫ぶ。
「“おい、仲間が呼んでいるぞ”」
「“――ッ!?”」
ずっと回避に専念していた男が初めて反撃した。ムチのようにしなった右脚のキックが耀文(ヤオウェン)の脇腹を捉え、まるでサッカーボールみたいに蹴り飛ばす。耀文(ヤオウェン)の身体は仲間たちの近くに叩きつけられた。
「“やっ、耀文(ヤオウェン)ッ!”」
少年少女たちは傷ついた仲間の元へ駆け寄った。たった一撃で耀文(ヤオウェン)は戦闘不能状態だ。
実力のほんの一端を見せつけた黒尽くめの男は、彼らと同じデッキの上に音もなく降り立った。手間をかけさせてくれるな、とうんざりしたような表情で香港から日本に密航した未成年者たちを見つめる。
「“抵抗しなければ、手荒なことはしないと言っただろ? さあ、今度こそ、大人しく従ってくれ”」
耀文(ヤオウェン)が気絶しているのを見て、天麟(ティンリン)は隣にいる少女にそっと囁いた。
「“銀麗(インリィ)、耀文(ヤオウェン)を頼む”」
「“天麟(ティンリン)!?”」
銀麗(インリィ)と呼ばれた少女はハッとし、意を決したような天麟(ティンリン)の顔を見つめた。
「“僕があの男を引きつけるから、みんなは逃げてくれ”」
「“だ、ダメよ、天麟(ティンリン)――!”」
銀麗(インリィ)は止めようとしたが、天麟(ティンリン)は聞き入れようとはしなかった。奥歯を噛むと、真っ向から黒尽くめの男に挑む。
男はガッカリした。
「“おいおい、君は唯一まともな判断が出来る大人だと思ったんだが”」
「“僕一人なら、大人しくあなたに従ったことでしょう。でも、今の僕には仲間がいる。彼らを香港へ送還させるわけにはいかない”」
天麟(ティンリン)の攻撃は軽く受け流された。これで足止めになるか、早くも決死の想いが揺らぎそうになるが、懸命に雑念を振り払う。
「“そりゃあ、密航してまで日本へ来たんだ。それなりの事情が君たちなりにあるんだろう。けどな、こっちも受けた仕事なんだ。悪いが、大人として無責任なことは出来ない。それが子供である君たちとの違いだ”」
まだ幼さの残る少年少女七名が相手とはいえ、たった一人で降伏勧告しただけのことはある。やはり男には、すべての攻撃を難なく見切られていた。当てることはおろか、掠りもしない、とはこのことだ。
しかし、男の表情からは、目の前の天麟(ティンリン)に対し、ほう、と感心したような雰囲気があった。
「“さっきの子とは違うな。ただ、ガムシャラに突っ込んで来ているわけではない。――そうか。少しでも時間を稼ぐつもりなんだな?”」
男の言う通り、天麟(ティンリン)には仲間が逃亡するまでの猶予が欲しかった。気絶している耀文(ヤオウェン)を運びながら、天麟(ティンリン)を除いた六名が無人のポートターミナルに飛び降りる。
「味なマネを!」
つい日本語で呻くと、男は天麟(ティンリン)を相手にするのをやめ、逃げた銀麗(インリィ)たちを追いかけようとした。
「“行かせません!”」
ひとつも攻撃を当てられない天麟(ティンリン)だったが、辛うじて男のネクタイをつかむことが出来た。そのままグイッと引っ張り、油断した黒尽くめの男諸共、夜の海へと飛び込む。
「“天麟(ティンリン)!”」
クルーズ船を振り返った銀麗(インリィ)に、その姿はシルエットとなって見えた。海に落ちた天麟(ティンリン)のことが気にかかり、引き返しかける。
「“ダメだ、銀麗(インリィ)!”」
耀文(ヤオウェン)を背負った明邦(ミンバン)が少女を引き止めた。彼は天麟(ティンリン)、銀麗(インリィ)に次ぐ年長者だ。
「“で、でも……”」
逡巡する銀麗(インリィ)。
「“天麟(ティンリン)の意思を無駄にするな。それに、あいつなら大丈夫さ。信じてやれ”」
明邦(ミンバン)はそう言うと、仲間たちを先導しながら走った。
「“………”」
銀麗(インリィ)は心配を拭えなかったが、結局、明邦(ミンバン)の言う通りにする。
「小悠(シャオユウ)、遅れないで」
一番後ろにいる最年少の少年に銀麗(インリィ)は声をかけた。そして、自らを犠牲にして仲間を逃がしてくれた天麟(ティンリン)の無事を祈る。
かくして、香港からの密航者たちは夜の神戸市街へと消えた。
それから、しばらくした後――
ポートターミナルの岸壁に黒尽くめの男が這い上がった。頭から爪先まで海水にまみれ、ずぶ濡れの状態だ。
「まんまとしてやられたな……こいつはペナルティものだぜ……せっかく神戸に上陸するとドンピシャで当てたのに」
そう日本語でぼやくと、ひとつ派手なくしゃみが出た。季節は十一月の下旬。とっくの昔に海水浴シーズンは終わっている。
びしょ濡れになった今の男に冷徹な狩人の面影はない。まるで別人のように、どこか茫洋とした青年になっていた。
「にしても――」
男は自分の右手を見つめた。はめていたはずの黒い革手袋がない。
「まさか、この右手を使わせるとはな……さすがに無事ではいられないと思うが」
真っ暗な夜の海を男は振り返った。仲間を逃がすことに成功した少年の身体は、海中に沈んだまま浮かんで来ない。安否の確認は不可能だろう。
男はまたくしゃみをし、鼻をすすると、港の隅に停めていた愛車エンツォ・フェラーリに向かって歩き出す。その足取りが重かったのは、海に落ちたせいばかりではなかった。
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