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そろそろ店に行こうと、ノブが自宅アパートを出て、玄関のドアに鍵をかけたところだった。
「これから出勤か、マスター」
背後からの声に、ノブは全身が動かなくなる。聞き覚えのある声。そして、最も再会を喜びたくない相手だ。
「……これは久しぶりですね」
振り返ったノブは感情を読み取られないようにしながら、営業用のスマイルを顔に貼りつかせた。このような小細工が通用する相手とも思えないが。
「まだ店を開けるには早い時間かな、と思ったものだから。居るんなら、こっちだろうと踏んだんだが、どうやら、ちょうどいいタイミングだったみたいだ」
ノブの自宅アパートを訪ねたのは仙月影人だった。時刻はもうすぐ夕方の四時になろうとしている。
ここ北新宿は、首都・東京で最大の繁華街から程近い割には、まだ古いアパートなども残されていて、同じ区内だということに違和感を覚える者も少なくない。
しかし、ふと見上げてみれば、いくつもの超高層ビルが空を切り取るようにそびえ立っており、それぞれに異質な街同士、隣接しているのがよく分かった。
新宿歌舞伎町に店を構えるノブは、徒歩でも通うことの出来る北新宿に暮らして長い。かれこれ十年以上にはなるだろうか。
狭い住居と人付き合いを好まない性格から――バーのマスターとしては如何なものか――誰も自室へ招いたことはないが、わずかな者だけがアパートの所在地を知っている。どういうわけか影人もそのうちの一人だ。
「こっちに戻って来たと聞いてたんで、もっと早くに店の方へお越しいただけるのかと思っていたのですが」
ノブは心にもないことを言ってみる。出来れば、もう二度と会いたくなかった。
それを影人はどう受け取っただろう。
「すまなかった。こっちも色々と立て込んでて、飲みに行く暇もなかったものだから。いつかは顔を出そうと気にはかけていたんだが」
バーのマスターとかつての馴染み客――といった何の変哲もなさそうな会話が交わされているが、両者の間には互いに探るような緊張感が存在した。いわゆる腹芸というヤツだ。
まだ夜の訪れには早いというのに、影人は全身黒尽くめのスーツ姿でノブの前に現れた。この格好こそ裏の仕事をしているときの影人の正装であることをノブは知っている。特に黒い革手袋をはめている右手に、つい目が吸い寄せられてしまう。
それに、もう何年も音信不通だったにもかかわらず、この微妙な時期と状況を狙ったかのように、いきなり現れたのだ。このことに意味がなかろうはずがない。
間違いなく、影人は銀麗(インリィ)たちを追っている。ノブは警戒を強めた。
神戸港で待ち受けていたという吸血鬼<ヴァンパイア>の話を聞かされたとき、その容姿から影人ではないかと密かに恐れていたのだが、その不安が的中してしまったようだ。
“黒影”――
闇の狩人として暗躍する影人に、いつの間にか付けられた通り名だ。彼の実力を知る者は、その不吉な通り名を耳にしただけで戦慄する。ノブもその一人だ。
出来れば、この件に影人が関係していないことを願っていた。銀麗(インリィ)たちが神戸港で接触したという吸血鬼<ヴァンパイア>が、あの恐ろしい“黒影”でないことを。
「少し買い出しをしておかなくてはいけないので、ちょっと時間を置いてから店に来ていただけるといいのですが」
「買い出しか。なら付き合おうか」
煙に巻くつもりが、何気ない影人の申し出に、ノブはギョッとしそうになった。
人狼であるノブが香港(ホンコン)から来た少年少女たちを匿っているのでは、と影人が疑いを持つのは有り得ないことではない。であるなら、ひとつ腑に落ちないことがある。
「……い、いや、わざわざ買い出しになんて」
ノブはやんわりと断ろうとした。ところが影人はニンマリとする。
「遠慮するなって。オレとマスターの間じゃないか。荷物持ちくらい手伝ってやるから」
あくまでも買い出しに付き合う気のようだ。どうやって固辞すべきか、ノブは頭を悩ませる。
そこへ――
「へえ。吸血鬼<ヴァンパイア>に人狼の知り合いがいるとはねえ」
筋骨隆々の大男が二人の会話に割り込んできた。
見かけない顔だが、発せられる殺気は子供でも分かりそうだ。十一月だというのに上半身はタンクトップ一枚で、ゴツい二の腕を誇示するかのように剥き出しにしている。それでいて手はジーンズのポケットへ無造作に突っ込まれていた。
「なるほど、このオッサンが例のガキどもを匿っているというわけか」
ノブの年齢について評するなら、そう言う大男と比べても五十歩百歩のように思えるが、凶悪な面構えはちょっとした微苦笑さえ許しそうにない。
「せ、仙月さん……これは……?」
「どうやら地下駐車場の出口から尾けられていたらしい」
「び、尾行を――!?」
影人ばかりか、化け物のような大男まで現れて、ノブは完全に尻込みしていた。逃げ出したいところだが、二人の吸血鬼<ヴァンパイア>を前にして足が震えてしまっている。
一方、大男へと向けた影人の目はスッと細められていた。
「謝紅久(シェ・ホンジュ)の手の者か」
影人はさっき会ったばかりの香港から来た依頼人の名を口にする。それを聞いた大男は唇を笑いの形に歪めた。
「言っておくが、オレはヤツの配下になったつもりはない。貴様と同じように依頼を請け負っただけだ」
「依頼……ということは……」
「お初にお目にかかる、という挨拶でいいかい? 仙月影人――いや、最近、巷で何かと名高い“黒影”さんよぉ。オレの名は“壊し屋”。そう呼ばれている」
「こっ……“壊し屋”だとぁ……!?」
驚愕の表情を見せたのは影人ではなくノブだった。その通り名には聞き覚えがある。影人と同じ闇の狩人であり、最強を冠する吸血鬼<ヴァンパイア>の一人だ。
「どうやら、依頼人はオレのことを『頼りない』と思ったようだな」
謝紅久(シェ・ホンジュ)が別口で仕事を依頼していたことに腹立たしさも見せず、影人はただ肩をすくめただけだった。本来なら、これは影人のプライドを傷つけるやり口だ。
「まあ、仕方ねえんじゃねえか? 初手で仕留めきれなかったわけだし。まさか、あの“黒影”ともあろう者がガキども相手に手間取るとはな」
「それは実際に彼らと手合わせしてから言うのだな」
初めて大男を見据える影人の目に険のある色合いが灯った。これぞ万人を震え上がらせる“黒影”の視線だ。
ところが、それを受け止めた“壊し屋”は不敵に笑った。影人から向けられた殺気に、むしろゾクゾクしているのだろう。闘いこそが、この男にとっての悦楽のようだった。
「いいねえ、その目。何人も殺してきた目だ。――いや、何百人、それとも何千人か? オレも危険な輩とは、散々、渡り合ってきたが、これほどのヤツと出遭ったのは初めてだぜ。どうやら楽しい殺し合いが出来そうだ」
“壊し屋”は愉快に笑った。血が騒ぐのだろう。だが、すぐ真顔に戻る。
「――その前に、先に依頼を果たしておこうか」
「ひっ――!」
ノブは縮み上がった。“壊し屋”の目がこちらに向いたからだ。
「なあ、アンタ。ガキどもを何処に匿っている? 言え」
「……が、ガキどもって……いったい、何のことだ? お、オレには言っている意味がさっぱり――」
「なるほどねえ……あくまでも、とぼけようってのか!?」
“壊し屋”の怒号が轟いた刹那、ノブの身体は近くにいた影人によって突き飛ばされた。次の瞬間、ノブが立っていたところを何かが通過する。
ドカーン、という爆発に似た物凄い音が、地面に倒れ込んだのと重なるようにして起きた。まるで猛スピードを出して走って来た車同士が激しく正面衝突したかのようだ。
「ううっ……」
影人によって押し倒された格好のノブが頭を上げると、灰色がかった煙のようなものが舞い、何か小さな破片がパラパラと降り注いでいることに気づく。
視界が晴れてから後ろを振り返ると、ノブは愕然としてしまった。
「なっ……そ、そんな……バカな……」
自宅の二階建てアパートが、悲惨にも半壊していた。きれいに真ん中の部分だけ大砲の弾にでもぶち抜かれたような状態になっている。
これが“壊し屋”の仕業であることは疑いない。だが、吸血鬼<ヴァンパイア>よりも巨人に近いこの男は、現れたときと変わらず、今も両手をズボンのポケットに突っこんだまま動いた形跡がない。何をどうやってやったのか、ノブには見当もつかなかった。
「街中でいきなりとは……どうするつもりだ? 誰かが駆けつけるのも時間の問題だぞ」
影人は白い埃を被り、それを手で払い落しながら仏頂面で尋ねた。着ているものが汚れたので、機嫌を損ねたらしい。
それよりもノブなどは一瞬にして住む場所を失ってしまった。自分の部屋だったところがただの瓦礫と化したのを目にし、腰が抜けてしまったのか。まったく足に力が入らない様子で、仕方なく影人が手を貸し、どうにか立たせてやる。
「ちゃんと弁償するんだろうな? 今夜からマスターを宿無しにさせやがって」
「その点は心配いらねえよ。こちらからご招待をさせてもらうんでね」
乱杭歯を覗かせながら、“壊し屋”は笑った。「ご招待」とは暗に「拉致」のことを指しているのだろう。どのような手段を使っても、銀麗(インリィ)たちの居場所をノブから聞き出すつもりのようだ。
「マスターは辞退させてもらうってよ」
影人は勝手に返答した。もちろん、ノブにも応じるつもりなどなかったが。
「食事も寝床も用意させてもらうぜ。しかも特注の、これまで味わったことのないものを」
「ノーサンキューだ。それより、あのボロアパートの損害に見合う賠償金を支払ってやれ」
「フッ、どうしても貴様はオレと遊びてえみたいだな」
“壊し屋”は影人と対峙した。あまりにもサイズ感が違い過ぎる。大人と子供だ。
「――マスターは逃げろ」
「えっ――?」
影人の言葉にノブは戸惑った。この男も“壊し屋”と同じ目的のはず。銀麗(インリィ)たちを捕まえに来たのなら、ノブを助ける理由などあるはずがないのに。
「早くしろ」
影人は重ねて促した。“壊し屋”から一時たりとも目を離さない。
ノブは影人たちに背を向けると、言われた通り、その場から逃走を図った。そうはさせじ、と“壊し屋”も動こうとする。
その行く手を影人が遮った。
「行かせはしない」
「面白え。オレの攻撃が何なのか、貴様、分かっているのか?」
「ああ、もちろんだとも」
「へえ――けどよ、分かってたって、当たれば貴様はペシャンコだ!」
再び“壊し屋”からの攻撃。殺気で分かる。今度は影人を狙ってのものだ。
が――
影人は一歩も動かずに立ち続けた。毅然として。
むしろ身体が揺らいだのは“壊し屋”の方であった。一瞬にして余裕の笑みが失われ、表情筋が硬く引きつる。
ドサッ、と両者の間に何かが重い音を立てて落ちた。常人が目撃したのなら、きっと悲鳴を上げたことだろう。それは人間の右腕だった。
「……それが貴様の武器か」
呻く“壊し屋”の右腕は肩口から見事に切断されていた。おびただしい血がアスファルトの地面に撒き散らされる。
「ああ、そうとも」
影人は五指をきれいに揃えた右手を“壊し屋”に向かって見せた。いつの間に外したのか、はめていたはずの黒い革手袋がない。
「今度は、その太い首を跳ねても構わないが、さてどうする?」
冷徹なる視線を逸らすことなく、影人は同業者たる“壊し屋”に宣戦布告した。
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