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吟遊詩人ウィル

闇の哀歌<エレジー>

1.廃  城

 闇の中で、女が喘いでいた。
「どこ……どこなの……あのひとは、どこ……?」
 それはまるで地の底から這いのぼるかのように陰々滅々と漏れ聞こえ、まとわりつくような湿り気を帯びた暗闇に陰鬱な響きをこもらせた。
「あぁ……あぁ……どこへ行ってしまったというの……? この私を残して……私も……私も連れて行って……お願い……お願いよ……」
 だが、哀切なる女の言葉に応えるものはなかった。女はすすり泣く。そのむせびは、どことも知れぬ漆黒の中で、痛切に沁み渡った。
 その一条も光が射さぬ闇の中、白くなまめかしい肌が蠢いた。妖にして艶。怪奇にして耽美。それは白蝋のごとき女の繊手であり、何かを追い求めるかのように伸ばされた。しかし、それがつかむものは虚空でしかない。いくら欲しようとも、何物にも触れることあたわず。
「ああっ……! ああっ……!」
 女の嗚咽はいよいよもって留めようもなかった。
「あのひとに会いたい……もう一度、あのひとの愛を確かめたい……!」
 その懇願が女の想い人に届くことは永遠にない。だが、たとえいらえがなかろうとも、女の白い指は愛する者を求め続けた。
 重く塗り潰された闇の色は、その女の哀しみが作り出したもののようだった。



 日が沈みかけて、ワトキンは焦燥感を覚えた。
 早くしないと夜になってしまう。その前に帰らなくてはならない。だが、そうすれば自分の立場が悪くなる。ワトキンはどちらも恐れていた。
 ワトキンは羊飼いだ。昼間、このグローマ地方の農家から羊を預かり、高台にある広大な牧草地で放牧を任されている。羊が草を食んでいる間、それを見守るのが仕事だ。そして、夕暮れになれば羊たちをそれぞれの農家に戻し、その日一日のわずかばかりの稼ぎを得るのがワトキンの日課だった。
 もちろん、放牧している間、ワトキンは羊たちから目を離してはならない。羊を襲う血に飢えた獣や不埒な羊泥棒が現われる恐れがあるからだ。一頭でも失えば、責任はワトキンが負わなくてはならない。現に、まだ若く、実績も乏しいワトキンがこの仕事にありつけたのも、前任者が不覚を取ったからだった。
 しかし、全部で六十頭以上もいる羊すべてに目を配ることは、最初から無理な話だった。羊は群れをなす動物だが、中にはどうしてもはぐれてしまうものもいる。これまでにも、どこかにいなくなってしまい、慌てて捜し回ったことが数回と言わずにあった。本当はワトキンの他にも羊飼いが何人かいれば、そんな危険を冒すことなく、目が行き届くのであろうが、それではせっかくの稼ぎを――それでなくとも少ない稼ぎを――山分けすることになってしまう。これまでにも金に困った友人から申し出を受けたことがあったが、できれば、この仕事を独り占めしたかったので、不興を買うのを覚悟で断っていた。
 安全よりも稼ぎを取ったワトキンだが、万が一、羊がいなくなってしまったら、預かりものであるだけに、簡単に見捨てるわけにもいかず、何が何でも捜し出さなければならなかった。子羊の一頭でも欠けていたら、それはワトキンの信用を回復不能なくらい失墜させるだろう。それほどに、この地方の農家は羊の乳や肉、羊毛といったものに頼っており、生活の糧として欠かせぬ重要なものだった。
「まずいな……」
 最悪の事態が起きて、ワトキンは青ざめた。いざ帰るというときになって、一頭いなくなっていることに気づいたのだ。しっかりと見張っていたつもりだが、いかせん、たった一人での見張りでは四六時中というわけにはいかない。ワトキンは間違いであってくれと願いながら、何度も羊の数を数え直したが、残念ながら結果は同じだった。
「クソッ、どこへ行きやがった!? もうすぐ、日が暮れるっていうのに!」
 日が暮れかかった高台の牧草地を見渡しながら、ワトキンは悪態をついた。今夜はカードに負けた友人のおごりで、うまい酒が飲める予定だった。それがこんなことになろうとは。ひょっとすると、そんな考えにふけってばかりいたせいで、羊を見失ってしまったのかもしれない。
 とにかく、ぐずぐずしてはいられなかった。
 ワトキンは羊たちを残し、はぐれた一頭を捜すことにした。放牧をしている高台の牧草地からどちらへ行っただろうか、と思案する。森の方角か、あるいは川の方角か。
 考え抜いた末、ワトキンは川を選んだ。今から森を捜していたのでは戻れなくなってしまうからである。最悪はあきらめなければならない。
 ワトキンは高台を駈け下り、川へと向かった。これまでもいなくなった羊が何事もなかったかのように川で水を呑んでいたということがある。その可能性にかけた。
 ところが、残念ながら今回その思惑は外れ、いつもの水飲み場になっている川辺に羊はいなかった。ワトキンは目の前が真っ暗になったような気分になる。おしまいだ。これでもう、羊飼いの仕事はできなくなってしまう。
 ワトキンは、もう一度、西の方角を見た。日没まで時間がない。ワトキンは最後の賭けとして、もう少し川の上流へ行ってみることにした。そこにはぐれた羊がいてくれることを願う。
 それは時間との勝負だった。この先は、グローマの住民たちから禁忌の場所とされているところだ。誰も近づいてはならないと厳重に言い渡されている。特に日が没した夜は。
 ここグローマは、今でこそ牧羊を中心とした酪農の地だが、五十年ほど前まではマレノフ王国の大貴族、ボードワール家のお膝元であった。現在、名門の誉れ高いボードワール家は、これより東のマルスキーという街に居を移しているが、それは記憶する者も少なくなった昔に起きた大火のせいだと言われている。
 およそ五十年ほど前、ボードワール家の居城が原因不明の火災に見舞われ、逃げ遅れた当時の奥方と数名の従者が亡くなったという。その出来事は今でもグローマの人たちに口伝えで語り継がれており、小さな子供までが、その話を知っていた。
 居城と奥方を失ったボードワール家は、傷心のうちにマルスキーへと移り住んだ。しかし、その後、焼け残った城に、さらなる怪異が囁かれるようになったのである。なんと、その廃城に恐ろしい怪物が棲みつくようになったというのだ。
 そう噂する者の話によれば、夜、その廃城の近くへ行くと、その者は帰って来ないと言う。最初は与太話だと思って相手にしない者が多かったのだが、実際に行方を絶つ人間が出てくるにつれ、それが本当だったのだと思い知るはめになった。それも必ず、女子供ではなく、どういうわけか一人前になった男ばかり。いつしか噂は、廃城の怪異としてグローマの人々に広く知れ渡り、その地を忌避するようになった。
 もちろん、グローマの住民たちも、ただ黙って手をこまねいてはいなかった。廃城近くで行方不明者が出るたびに、住民たちは腕に覚えのある男たちを共同で雇い、その探索と怪物退治を依頼したのだ。それこそ、何度も探索行が行われたのだが、その度に怪物はおろか、何かの痕跡すら発見できず、芳しい成果は上げられなかった。また、マルスキーに移り住んでも、引き続き、この地方の領主を務めているボードワール家にどうにかしてほしいと訴え出たりもしたのだが、返答はなしのつぶてで重い腰をあげようともしない。究極の選択としては、廃城を壊そうかという提案も出たのだが、結局は誰が貧乏クジを引くのかということになり、その役をあえて買って出ようとする者は皆無だった。
 その廃城が、ワトキンの行く手にそそり立っていた。石造りの城は形こそ昔のままに留めている。しかし、黒く焼け焦げた壁と人気の絶えた不気味さが、見る者の足をすくませた。怪物か幽霊か、いかにも出てきそうな雰囲気がワトキンの背筋をゾクッと震わせる。
 勇気を振り絞って廃城の近くまでやって来たが、肝心の羊はどこにもいなかった。ワトキンはあきらめようと腹をくくる。羊飼いの仕事を失うことになるが仕方ない。
 せっかくの仕事は惜しいが、それよりも何よりも自分の命の方が大事だった。子供の頃から廃城の怪物について何十回となく聞かされてきたワトキンは、一刻も早く、この場から立ち去りたい衝動に駆られた。やっぱり、ここへは来るべきではなかったのだ。今にも廃城から、この世のものではない怪物が現われ、襲われるような錯覚を覚えた。
 ワトキンが廃城に背中を向けて逃げ出そうとしたとき、若き羊飼いの耳に何かが聞こえた。
「――っ!?」
 思わず、ワトキンは廃城を振り返ってしまった。最初、はぐれた羊の鳴き声かと思ったからだ。もし、そうなら、ここまで捜しに来た甲斐があったというものだ。ワトキンは、もう一度、聞こうと耳を澄ました。
 このとき、ワトキンが羊たちのところへ戻っていたら、この愚かな羊飼いの運命は変わっていたかもしれない。
 じっと待ち構えるワトキンの耳に、再び届くものがあった。それは――
 それは、羊の鳴き声などではなかった。これまでワトキンが聞いたこともないような、美しく、そして儚く、聞く者の心を惹きつける声。女の声だった。まるで歌のような――否、それは明らかに歌声であった。
 これまでの人生で聞いたこともないような美しい歌声を耳にしたワトキンは、ふらふらと自然に歩きだした。まるでその歌声に誘われるかのように、怪物が出るという元ボードワール家の廃城へ。
 もはや、ワトキンの目からは、意志や焦点といったものが失われていた。歩きながらにして夢でも見ているように瞼はとろんとして落ち気味になり、その表情はだらしない恍惚を浮かべてさえいる。明らかにワトキンの様子はおかしかった。
 だが、そんなワトキンを止める者は誰もいない。
 これが噂の怪物による仕業なのであろうか。美しい歌声を持つ廃城の怪物。ワトキンは、その犠牲者に選ばれたのか。
 やがてワトキンは、廃城の中へ自ら入ってしまった。
 その怪異から目を背けるかのように、血のように赤い夕陽が西の稜線に没し、すべてを覆い隠す闇夜が訪れた。


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