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吟遊詩人ウィル

闇の哀歌<エレジー>

2.マルスキーの新領主

 自分の容姿を鏡に映してみて、ジョエル・ボードワールは満足した。
 仕立てのいいライトブルーのジャケットに袖を通した鏡の中の青年は、爽やかで品のいい微笑みをジョエル自身に向けていた。マレノフ王国に代々仕えるボードワール家の新しい当主としては地味な出で立ちかもしれないが、町の中を歩くとなると、あまり華美なものは目立ってしょうがない。今日の外出は、あまり人目を惹きたくなかった。
 颯爽とした足取りで表へ出ると、すでに四頭立ての馬車が用意されていた。従者が馬車の扉を開けて、一礼した格好のまま待っている。ジョエルは身も軽やかに、馬車に乗り込んだ。
 領主の館からマルスキーの町へ馬車が走りだすと、ジョエルは窓の外から景色を眺めた。深緑が目に痛いほど鮮やかに色づき、牧歌的な雲を浮かべた青空がすがすがしい。明るいブラウンの髪を優しく撫でる風は、この外出を待ちかねていたジョエルにとって心地よかった。
 ジョエルの目的は、マルスキーの仕立屋で働いているエレナという少女に会うことだった。
 ジョエルとエレナが出会ったのは、ふた月ほど前。ジョエルが新しい服を作ろうと、いつもひいきにしている仕立屋を領主の館に呼んだときだ。そのとき、仕立屋と一緒に現れたのがエレナだった。
 まだ二十二歳と若いジョエルは、ひと目で美しいエレナを気に入った。この地方では珍しい少しエキゾチックな顔立ち、長く伸ばされた艶やかな黒髪。ほっそりとした顎から首にかけてのラインが特に美しく、そばにいると、何やらかぐわしい花の匂いに陶然となる。どのような服にするか相談しようとする仕立屋の言葉も耳に入らず、ジョエルはエレナに見とれた。
 それからというもの、ジョエルは頻繁に仕立屋を呼んだ。もちろん、服の新調などは口実で、エレナが目当てであることは言うまでもない。仕立屋には、必ずエレナを連れてくるよう言い含めてあった。
 それは決して、ジョエルの一方的な恋慕ではなかった。エレナの方もまた、このハンサムでとても紳士的な青年貴族へ好意を抱くのに、さほど時間がかからなかったからだ。若い二人は、会うたびごとに親密になっていった。
 しかし、それを快く思っていなかった人物がいた。ジョエルの父、セドリック・ボードワールだ。セドリックは一人息子で後継ぎでもあるジョエルに、いずれは家柄の釣り合いが取れた、どこかの令嬢と結婚させるつもりだったからである。あまりにも美しいエレナに、若いジョエルが熱を上げるのも無理からぬことと理解していたが、ただの町娘を名門の花嫁に迎えようとは考えていなかった。
 父、セドリックの反対に、さすがのジョエルも苦悩した。いくら親子とはいえ、父の意向は領主としてのものだ。それに逆らうことは、マレノフ王国の国王アドニス・ド・グランドクルスに叛くことと等しい。もしも、ジョエルに他の兄弟がいれば、後継のことなどに煩わされず、家名を捨てても構わなかったが、そうでない以上、短慮でボードワール家を断絶させるわけにはいかなかった。
 ところが、その父が一週間前に急死した。月に一回、国王が王都プロミスにて催す晩餐会に招かれた、その帰りに、である。あれだけ厳格で通してきた父も気づかないうちに老いていたのかと、ジョエルは悲しみの涙を流した。
 だが、父の突然の死は、ジョエルにとって悪いことばかりではなかった。唯一の後継者であるジョエルがボードワール家の当主となったことで、結婚相手を誰にはばかることなく決めることができるようになったからである。つまりそれは、一介の町娘であるエレナとの結婚に何の障害もなくなったということだった。
 自分はエレナと結婚する。そのことを一刻も早く宣言したいジョエルであった。
 この一週間、父の葬儀のことで館から一歩も外に出られないジョエルだったが、今日、ようやく時間を作ることができた。喪が明けるまでは無理だが、なるべく早いうちにエレナを妻に迎える。そのことを知らせたら、彼女がどんなに驚き、どんなに喜ぶだろうと想像しながら、ジョエルは馬車が早く到着しないかとそわそわした。
 ジョエルの馬車が、マルスキーの町の中に入った。馬車はあらかじめ指示してあった場所に停車する。そこは仕立屋の店から離れていたが、さすがにボードワール家の馬車が横付けしたら、町の者は何事かと怪しむだろう。無用な興味を掻き立てることは避けて、ジョエルはあえてここから店まで歩くことにしていた。
 すれ違いざまに顔を見られないよう、大きめで鍔広の帽子をかぶり、ジョエルは馬車を降りた。そして、路地を縫うようにして、エレナのいる店を目指す。もう、何度目かのお忍びなので、迷うようなことはない。誰かに見咎められることもなく、仕立屋の裏口に辿り着いた。
「裏から失礼する。主はおるか?」
 そこは仕立屋の作業場になっていた。何人かのお針子たちが、忙しそうに立ち働き、注文を受けた服を作っている真っ最中だ。ジョエルのいきなりの登場にも、すでに慣れてしまったか、お針子の一人が仕立屋の主を呼びに行った。
「これはこれは、ジョエル様。お父上のことは大変でございましたな。私からもお悔やみを申し上げますぞ」
 仕立屋の主は、訪ねてきた新領主をうやうやしく出迎えた。しかし、ジョエルが求めていたのは、そんな社交辞令ではない。
「エレナはいるか?」
 頭から帽子を取りながら、ジョエルは尋ねた。仕立屋の主は、少し狼狽したような様子を見せる。視線が逸らされた。
「え、エレナでございますか。それが……」
「どうした?」
 ジョエルに問われ、観念したのであろう。仕立屋の主は唇を湿らせた。
「エレナは……もうここにはおりません」
「なに? 店を移ったのか?」
「い、いえ」
「では、何だ? ハッキリと言え」
 ジョエルは言いよどむ仕立屋の主に苛立ちを覚えた。仕立屋は額に汗をにじませる。
「あの、実は……エレナは五日ほど前に、生まれ故郷に帰ると申しまして」
「何だと? 生まれ故郷? どうして、いきなり?」
「それが私にも分からないのでございます」
 仕立屋は恐縮していた。なぜ引き止めなかったのかと、二人の仲を知っていただけに、若き領主の叱責を恐れているのだろう。
「その日、いきなり仕事を辞めさせてほしいと言ってきまして。理由を尋ねたのですが、答えてはくれませんでした。とにかく、生まれ故郷に帰りたい、と」
「その生まれ故郷、どこであるかは聞いたのだろうな?」
 ジョエルは仕立屋に迫った。普段、温厚なこの青年にしては珍しいことだ。
 責められるような口調に、仕立屋は、もう一度、唇を舐めなくてはならなかった。
「は、はい。二か月前、あの娘を雇うとき、自分はグローマ地方から来たと申しておりました。多分、そこが生まれ故郷ではないかと……」
 自信がないせいか、仕立屋の言葉は尻つぼみになっていった。
「グローマ……」
 そこはここからそんなに遠くはないボードワール家の領地であり、かつて祖父、サミュエル・ボードワールが領主であった五十年ほど前まで、立派な居城があったと聞いていた。ジョエル自身は訪れたことがないが、現在はマルスキーのような大きな町ではなく、小さな名もない村が点在している。エレナがそこの生まれであると初めて知った。
「まったく、あの娘も何を考えているのでしょうな。自分が閣下に見染められたというのに、いきなり田舎に引っ込んでしまうとは。これ以上の玉の輿など望めないでしょうに。それとも閣下に対し、何か後ろ暗いことでもあったのでしょうか?」
 仕立屋はジョエルの側に立って言ったつもりだったが、つい口が滑った。ジョエルにひどく睨まれ、首をすぼめる。何か処罰を言い渡されるのではとおののいた。
 しかし、ジョエルはそれ以上、追及するようなことはせず、再び帽子をかぶりなおすと、足早に店の裏口から外へ出てしまった。
 エレナが何も告げずにマルスキーの町を出て行ってしまったことは、ジョエルにとってショックだった。何らかの事情があったのだろうと信じてはいるが、それにしても言伝のひとつでもあってしかるべきだったのではなかろうかと思う。それとも、今頃になって身分の違いに空恐ろしくなり、ジョエルの元から去ろうと決意したのか。
 予定外に早く店を出てきてしまっていたので、まだ落ち合う場所に馬車はいなかった。そこに突っ立っているわけにもいかず、ジョエルはどこかで時間をつぶそうと、身をひるがえす。その肩が背後からやって来た男にぶつかった。
「気をつけろ!」
 ぶつかった男が声を荒げた。粗野な感じがする男だ。同様の雰囲気を持つ男が、他に三人。昼間から不快な酒の臭いを漂わせていた。
 ジョエルは黙って立ち去ろうとした。ところが、男は行く手を譲ろうとしない。それどころか、帽子に隠れたジョエルの顔を覗き込もうとした。
「人にぶつかっておいて、すみませんの一言もなしか? 貴族だからって、何様のつもりだ?」
 男はからんできた。ジョエルは短く、すまぬ、と謝罪して行き過ぎようとする。ところが、男とその仲間に囲まれた。
「何のつもりだ?」
 人の目が届かぬ路地であることをいいことに、男たちはジョエルに対し、ケンカ腰だった。帽子が乱暴に剥ぎ取られる。ジョエルは身の危険を感じた。
「無礼者! 私はここの領主だぞ!」
 だが、男たちは先程の仕立屋とは違い、怖じ気づかなかった。むしろ、せせら笑う。
「言うにこと欠いて、領主様だと!? そう名乗れば、オレたちが逃げ出すとでも思ったのか!?」
「領主様を騙る不届き者め! オレたちがその口を利けないようにしてやる!」
 男たちはジョエルが領主であることを鼻から信じていなかった。確かに、こんな町中を従者も連れずに、一人でうろついている領主など話にも聞いたことがない。どうせ昼間から遊び歩いている貴族のボンボンとしか、ジョエルを見ていないのだろう。
 さすがに争いごとを好まぬジョエルも、数に頼った男たちの態度に立腹した。脅しのつもりで腰に差していた細身の剣<レイピア>を抜く。
 ところが、すでに囲まれていたジョエルは、後ろにいた男に羽交い絞めにされてしまった。さらに手にしていた細身の剣<レイピア>を奪われてしまう。
「な、何をする!?」
「うるせえ! 町中で剣を抜きやがって! ちょっとばかり飲み代をくれりゃあ見逃してやろうかと思ったが、そっちがそのつもりなら、こっちも容赦しねえぞ!」
 男は激怒して、細身の剣<レイピア>を振り上げた。思わず、ジョエルは目をつむる。
 しかし、いくら待っても斬撃は振り下ろされなかった。
「い、痛てぇ、痛ててててててぇ!」
 男の悲鳴にジョエルは目を開けた。すると、男の後ろから何者かの手が伸び、細身の剣<レイピア>を持った手をつかんでいた。女のように華奢な手であるのに、その力はどれほどのものなのか、大の男が脂汗を流している。
「ここで血を流すつもりか?」
 草原を渡る涼風のような美しい声が、日の当たらない路地に響いた。その者は男の腕をねじあげると、いとも容易く細身の剣<レイピア>を奪い取る。
 そのとき、ようやくジョエルは救いの主の顔を見ることができた。と同時に魅入られてしまう。そのあまりにも見たことのない美貌に。
 美しさとは、こんなにも完璧で、これ以上のものがないというくらい無二のものに出会うと、感嘆よりも恐れを抱くものだということをジョエルは生まれて初めて知った。黒い旅帽子<トラベラーズ・ハット>に黒いマント、同じく黒の旅装束という全身を闇で塗り潰したような出で立ちの男は、想像を絶する美形だった。最初に男の声を聞いていなければ、女かと思ったことだろう。
 その黒ずくめの男は、ジョエルに絡んできた男たちに細身の剣<レイピア>を向けた。
「好き方を選べ。このまま大人しく帰るか、それとも――」
 シュッ、と細身の剣<レイピア>が空を切り裂いた。その瞬間、まるでかけられていた魔法が解けたかのように、荒くれたちは逃げ出していく。捨て台詞のひとつもなかった。
「大丈夫か?」
 ジョエルを助けてくれた男は、手にしていた細身の剣<レイピア>を返した。その間も、ジョエルは夢を見ているような気分で、現実感をともなっていなかった。ようやく我に返ったのは、男の後ろ姿が去って行こうとするときだ。
「ま、待ってくれ。私はジョエル・ボードワール。この地方の領主だ。何か、助けてもらった礼がしたい。せめて、あなたの名を伺えないだろうか」
 すると、旅の男はゆっくりと振り返った。
「オレはウィル。吟遊詩人のウィルだ」


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