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その光景を目撃した瞬間、少女は息を呑んだ。
昼過ぎから降り出した雨は次第に激しさを増し、今では夕暮れの薄暗さも手伝って、視界を煙らせるほどになっていた。沢沿いの細い道はひどくぬかるみ、所々、大きな水たまりが出来ている。右手にある川を木々の合間から見下ろすと、かなり増水したらしく、土色に濁った激流が轟音と共に勢いよく川下へ押し出されていた。
少女が乗る荷車は悪路に激しく揺れながら、派手に泥と水しぶきを跳ね飛ばし、村への帰り道を急いでいた。隣の村まで母親に頼まれた小麦粉を買い付けに行った帰りだ。小麦粉なら少女が暮らしている村でも取り扱っているのだが、そこが少女の母親が持つ徹底したこだわりのようで、仕事用だからと言って決して譲らなかった。
少女はまだ十五にも満たぬ年頃だが、短く切りそろえられた藍色の髪と太い眉毛のせいで少年のようにも見えた。その眼差しには芯のしっかりした意志の強さが垣間見え、この仕事に日頃から従事していることが窺える。このような悪天候の中でも弱音を吐くような素振りを少しも見せない。ひたむきに前を見据えていた。
とは言え、小麦粉の袋を積んだ荷台を引っ張っているのは、一頭の小柄なロバであり、期待するほどの速度は出ない。屋根もない荷車に乗った少女は、すでにずぶ濡れだ。体もすっかり冷えてしまっている。一刻も早く家に帰り着き、熱い湯と温かい飲み物が欲しいところだ。それに、この雨では地盤がゆるみ、土砂崩れの恐れもある。早くこの道を抜けてしまいたかった。
心の中で焦りを感じながら、もう一度、荒れ狂う川にふと視線を向けた少女は、その手前の斜面に違和感のあるものを発見し、目を凝らした。何かが銀色に鈍く光っている。その形がどうやら人らしいと気づき、少女は慌てて荷車を止めた。
「ジムリ、ここで待っていて」
少女はロバを名前で呼ぶと、荷台から降りた。ロバのジムリは主人の言いつけを守るように、その場にうなだれ、口から白い息を吐き出す。少女はジムリと荷車をそのままに、道の端から斜面を覗き込んだ。
やはり少女が目にしたのは人間だった。頭を川の方へ向け、うつぶせに倒れている。行き倒れだろうか。どうやら騎士らしく、重たそうな甲冑を身につけている。銀色に見えた正体はこれだ。それにしても、どうして道ではなく、河原へと降りる斜面で倒れているのだろうか。
「大丈夫ですか!」
少女は大きな声で、倒れている人物に呼びかけた。だが、雨音の激しさのせいなのか、それとも相手が完全に気絶でもしているのか、少女の声は届かなかったようで、何の反応も返ってこない。少女はもっと近づいてみようと、斜面に生えている細い木々を頼りに、慎重な足取りで降り始めた。
近づくにつれ、騎士の様子が分かってきた。その手元には剣が投げ出されるように落ちており、左耳の上には深い傷跡が口を開け、そこからあふれた大量の血が、雨と一緒に洗い流されている。
「!」
少女は思わず息を呑み、両手で口許を覆った。しかし、それは不用意だったと言えるだろう。それまでつかんでいた木を手放してしまったため、途端に足を取られ、斜面を滑落してしまったのだ。
「キャーッ!」
幸い、川沿いの道から下の河原まで大した距離はなく、斜面も崖と呼ぶほどの急な勾配ではなかったが、一度、したたかに肩を木にぶつけ、少女は顔をしかめた。
河原まで到達するのは一瞬だった。足先からお尻、そして背中にかけて泥だらけになり、少女は半ベソをかきたくなる。
ところが、しゃくり上げようとする声すら、途中で止めざるを得なかった。なぜなら、さらに凄惨な河原の光景を直視してしまったからだ。
先程の斜面に倒れていた騎士と同様、甲冑を身につけた者が、三人、様々な格好で倒れていた。だが、今度はひと目で死んでいると分かるほど、無惨な有様だった。一人は首を、あとの二人は腹部を斬り裂かれ、恐怖と驚愕を表情に凍りつかせている。血は河原の石を赤黒く染め、水かさの増した川へと流れ込んでいた。
さらに、そのそばには、もう一人の男が倒れていた。ただし、その男は他の者たちとは違って甲冑姿ではなく、旅人らしい服装だ。右手にはしっかりと剣が握られ、反対の左腕は肘から先が失われている。少女が見た限り、それは剣のような刃物で切断された傷口ではなく、何かに噛み砕かれたように思えた。
その男の剣を握る指が、ぴくり、と動いた。少女は反射的に身を固くし、思わず後ずさる。どうやら、この片腕の男は生きているらしい。だが、そうは少女の頭で理解していても、近づくのが怖かった。
できれば関わり合いになりたくないと思った。つい、好奇心と親切心から荷車を降りて来てしまったが、今はすっかり後悔している。早く帰りたい。この地獄絵図のような場所から即座に逃げ出したかった。
少女は荷車のところへ戻ろうと、踵を返そうとした。ところが、その肩が何かに当たる。転びそうになるところを、慌てて少女は振り返った。
いつの間に少女の後ろにいたのか。そこに立ち尽くしていたのは、黒い鍔広の帽子と黒いマントを身につけた男だった。一瞬、その黒ずくめの姿を見た少女は、この男がここにいる者たちの命を奪った死神ではないかと恐怖する。しかし、黒マントの男の顔を見た途端、そのような思考は霧散した。
それは一口に美形と評しても、言葉が不足しているようであり、それでいて、それ以上の賛辞が思い浮かばぬほど、超絶した美しさを持った顔であった。切れ長の眼は憂いに満ち、すっと通った鼻梁は優美さを具現化し、形の良い薄い唇は甘い吐息を感じさせる。まだ、恋を知らない十四歳の少女ですら、その魔性のような美麗さに陶酔し、すべての言葉を禁じられた。
少女同様、男は降り注ぐ雨に濡れていたが、それすらも彼を引き立てる役目を負っているかのようだった。
陶然とする少女をよそに、黒ずくめの男は倒れている片腕の男に近づいた。そして、首筋に指を押し当て、脈を探る。マントの下から洗われた指は、少女がハッとするくらい華奢で繊細だった。
「生きている」
男は呟くように言った。その声を耳にしただけで、少女は背筋が怖気立つ。これが男性の声だろうか。もちろん、女性の声とは明らかに違うのだが、どこか中性的な響きがした。
黒ずくめの男は、左腕を失った男の剣をその腰の鞘に収めると、相手の右腕を自らの首へ回し、支えるように立ち上がった。
少女は、そこで初めて、気絶している男の顔を見ることが出来た。
負傷している男は、顔中がヒゲだらけのような、がっしりとした体格の人物だった。多分、四十歳を少し過ぎたくらい。武器を携帯しているところを見ると、旅の剣士とか流れ者と思われる。少なくとも少女が暮らしているテコムの村や隣の村では見かけない顔だ。
体格的には黒マントの美青年の方が小さいのだが、どこにそんな力があるのか、よろめきもせず、隻腕の男を担ぎ上げた。
少女はやっと我に返り、息を詰めて美しい青年を見つめる。
「あなたは……」
誰、と問おうとして、声はかすれてしまった。それだけ緊張している証拠だ。
すると青年は、初めて少女に気づいたかのように顔を向けた。少女は青年の美しい顔をまともに直視できない。それに構わず、青年は名乗った。
「オレの名はウィル」
「ウィル……」
「通りすがりの吟遊詩人だ。この男を助けたい。手伝ってもらえるか?」
ウィルと名乗る青年に乞われ、少女は熱に浮かされたようにうなずいた。きっと他のどんな頼みでも、彼の言うことなら断れなかっただろう。
「う、上に私の荷車が」
少女はそう言って、ウィルの反対側に回り込み、負傷した男を支えた。男の血で少女の服も汚れたが気にしない。二人はそれきり無言のまま、少女の荷車が止めてある沢沿いの道まで男を運んだ。
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