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吟遊詩人ウィル

許されざるもの

−2−

 ロバのジムリが引く荷車は、御者台に少女と、ウィルと名乗った美青年、荷台にたくさんの小麦粉の袋と左腕をなくした男を乗せて、テコムの村へと到着した。
 テコムの村は、ネフロン大陸の西方、五大王国のひとつであるブリトン王国でも、辺境に位置する村だ。だが、ここから隣国エスクード王国、ターナ公国への国境が近く、行商人たちの中継ポイントにもなっている。そのため、辺境の割には賑わいを見せている村だった。
 すでに日が暮れていたが、村の誰かに見られたら大騒ぎになりそうなので、少女は大ケガをしている男に小麦粉の袋と一緒にシートをかぶせていた。しかし、こんな雨では外に出ている者は多くなく、そのような心配は無用だったと言えただろう。ただ、時折、すれ違った何人かが、少女の隣に座っているウィルに気づいて、惚けたようにその場に立ちすくむ。隠すならこっちの方だったかも知れない。
「母さーん!」
 少女は家の裏に荷車を着けると、ジムリを荷車から解放して小屋に入れるよりも早く、裏口の扉を勢いよく開けた。そこは母の仕事場になっている。いつものように母は仕事に没頭していた。
「何だい、ルン! 帰った早々に騒がしいねえ!」
 振り向きもせず、娘のルンに負けないくらいの大きな声で、母であるマーサがたしなめた。そして、そのままドスンと、練っていたパンの生地を作業台の板に叩きつける。ルンの家はパン屋を営んでいた。
「母さん、大変なのよ!」
 ルンは我関せずといった様子で作業を続ける母に対し、じれったそうな声を上げた。パンを作っているときの母は、いつもこんな調子だ。しかし、今のルンはかなり焦っていた。
「失礼する」
 そうこうしているうちに、ルンの後ろからケガ人を抱え上げたウィルが入って来た。思わず声の主を見ずにはいられない美声に、初めてマーサは振り返る。全身黒ずくめの衣裳が雨に濡れ光るその姿と、腕に抱えられた負傷した男を見たとき、マーサはハッと声を上げた。
 十年もの間、女手ひとつで子供を育ててきたマーサが、年若い男性を目の前にして、こんなに驚き、そして呆然としたような表情を見せるのは、実の娘であるルンにも記憶がなかった。初めて見る母の女らしい反応。だが、それも仕方がないだろう。それほどにウィルの容貌は世の女性たちの心を虜にさせた。
 ウィルもそのような反応に慣れているのか、苦笑することも、顔をしかめることもなく、無表情で仕事場を見回した。
「休ませられる場所があるか?」
 ウィルはルンに向かって尋ねた。今のマーサでは、まともに答えられそうにないと思ったのだろう。
 ここへ来るまでの間に、いくらか免疫が出来たルンは、美麗の吟遊詩人にうなずいた。そして、奥の方へと案内する。
「こっちへ。──母さん、ベッドを使わせてもらうわよ! ケガ人なの!」
「えっ!?」
 マーサはようやく我に返ったようだった。肘から先のない男のケガを見て、驚いたように息を止める。しかし、それがウィルの甘美な魔力を弱めたようだ。すぐにいつものマーサに戻り、娘を押しのけるようにして、自分の寝室へ案内した。
「そこへ寝かしつけてやってくれるかい? ──ルン、湯を沸かして!」
 寝室のランプを灯したマーサは、運び込んだウィルと娘に指示を出しながら、自分は薬箱を取りに行った。その間にウィルは男をマーサのベッドに寝かせ、濡れている服を脱がせていく。
 男は左腕を失っている他にも、全身、傷だらけだった。古いものもあれば、新しいものもある。かなりの修羅場をくぐり抜けた剣士に違いない。胸板の厚さや腕の筋肉は、鍛え上げた者のそれだった。
 間もなく、薬箱を持ったマーサが戻ってきた。まず、左脇をきつくしばり、これ以上の出血を抑えながら、食事用にあらかじめ沸かしてあった湯を水で埋め、左腕の傷口を洗う。そして、消毒と止血効果のある糊状の薬を塗り、清潔な布を当てて、包帯を巻いた。血を見るのも苦手な女性なら、ここまでてきぱきと手当てできなかっただろう。
 そんな様子を寝室の入口から二つの顔が覗いた。ルンよりも幼い男の子と女の子だ。騒がしさに何事かと思ったに違いない。
 だが、新しい湯を持ってきたルンに見咎められ、
「お前たちはテーブルの方へ行っていなさい」
 と、追い払われた。
 二人は、一度、首を引っ込めたものの、ルンがマーサの手伝いに追われ始めると、再び顔を出して覗き込んだ。
 そんな子供たちを、何気なくウィルは振り返った。
 すると二人ともびっくりしたような顔になって、今度こそ本当に引っ込んでしまった。きっと、子供の目にも、見たこともないウィルの美貌は衝撃的だったに違いない。
 そうこうしているうちに、男の手当てが終わった。マーサとルンの二人は、まるで格闘でもしたかのように額に汗を浮かべ、ホッと胸を撫で下ろす。男は多量の出血と、長い時間、雨に打たれていたため、体がすっかり冷え切っており、何枚も毛布をかけられていた。今は落ち着いたように見える。
「すまなかった」
 寝室を出てくるマーサに、ウィルは感謝を述べた。だが、マーサは皮肉めいた表情を浮かべてみせる。
「礼はちゃんと助かったときに言っておくれ。こんなところじゃ、応急処置くらいしか出来なかったよ。誰かに聖魔法<ホーリー・マジック>をかけてもらうのが一番なんだろうけど、あいにく、隣のモンタルンの村まで行かないと、魔法を使える司祭がいないからね。とにかく、ひどいケガだよ。これで大丈夫だとは思えないね」
 遠慮なくウィルに言う姿は、もう、いつものマーサだった。そして、寝室の方を振り返る。
「一体全体、どうしたって言うんだい?」
 マーサはウィルに事情を尋ねた。
「ここへ来る途中、河原で倒れていたのを見つけた。他にも数名、王国の騎士の死体が転がっていた」
「騎士?」
 マーサは思わず尋ね返していた。こんな辺境まで騎士がやって来ることなど珍しい。
 ウィルはうなずいた。
「もしかすると、あの男と斬り合いになったのかもしれん」
「どうして?」
「何か追われる理由があったか。とりあえず事情は、直接、本人にでも訊いてみないと分からないが」
「それって、悪人ってこと?」
 濡れた服を着替えて戻ってきたルンが、二人の会話に割り込んできた。せっかく助けた男が悪人ではやりきれない思いがしたのだろう、その表情は悲しげだ。
 そんなルンを慰めたのは、母親のマーサだった。
「悪人だろうと善人だろうと、お前は人の命を救ってやったんだ。そのことはちっとも恥じることじゃない。むしろ胸を張るんだ。いいね?」
 マーサにそう言われ、ルンはコクンとうなずいた。
「それよりも、左腕の傷が気になる。あれは剣などで切断されたものではない。只事ではないな」
 ウィルは考え込むように呟いた。それはルンも感じていたことである。だが、それが何を指し示すのか、そこまでは考えが及ばなかった。


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