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◆突発性競作企画第17弾「vs.Glim.」参加作品◆

吟遊詩人ウィル

黒の館

−1−

「お招きできて光栄ですわ」
 黒塗りの馬車の中でウィルの向かいに座った妖艶な女は、神秘的な金色の瞳を潤ませながら言った。肌寒い夜だというのに、ノースリーブの赤いロングドレス姿。胸元からは豊満な双丘の谷間が覗き、裾には大きなスリットが入っていて、大胆にも艶めかしい美脚を組んで、露出している。普通の男であれば、目線のやり場に困るところだ。
 だが、女の目の前にいるのは吟遊詩人のウィル。小さな星の明かりが大きな星の輝きの前に色褪せてしまうように、この妖艶な美女よりもウィルの美しさの方が際立っていた。女性はもちろん、同性ですら一目見たら一生忘れられない魔性の美貌。黒ずくめの旅装束やマント、それに旅帽子<トラベラーズ・ハット>は、まるでそれを少しでも覆い隠そうとするかのようだった。
 ウィルは妖艶な美女を前にしても、何ら感情を動かさなかった。ただ愛器である《銀の竪琴》を手にしたまま座り、夜空を思わせる黒い瞳で女を見据えている。そんなことをされれば、女の方がただではすまない。
「素晴らしかったですわ。先程の演奏」
 女は喘ぐように感想を洩らすと、込み上げてくる欲情を抑えるかのように正面のウィルから視線を逸して、窓の外を眺めた。しかし、見えるものは流れ去っていく木々のシルエットだけ。冬を前にして葉をすべて落とし、奇怪にねじ曲がった枝の形を、不気味なほど大きく見える満月がハッキリと浮き彫りにしていた。
 先刻までウィルは、ミースという町の酒場で酔った客相手に弾き語りを披露していた。客たちはその多くが酩酊状態であり、とても演奏など聴ける状態ではなかったはずだが、ウィルが酒場の一角で《銀の竪琴》をおごそかに爪弾き始めるや、喧騒は水が打ったように静まり返り、皆一様に耳を傾けたのである。そのうち、旅人が故郷を懐かしむ歌の内容に感極まった多くの者たちがむせび泣き、曲が終わったときは万雷の拍手と絶賛の嵐が浴びせられた。
 その酒場の前をたまたま通りかかったのが、この女である。クローディアと名乗った彼女は、自分はこの地方を治めている領主の姉だといい、ウィルを自分の館へと招待した。
「弟のジュリアンは生まれつき体が弱く、絵画や音楽などの芸術を愛しておりました。しかし、最近は体調も思わしくなく、館の外どころか自分の寝室からも出られないほどでして。姉としては、一日中、ベッドの上で過ごすしかないあの子が不憫でなりません。どうか、ジュリアンのために歌ってもらえないでしょうか」
 そう依頼されて、吟遊詩人であるウィルに否はなかった。
 こうして二人は、クローディアが乗っていた四頭立ての馬車で、ミース郊外にある領主の館へ向かったのである。
「ひとつ、訊いても構わないか?」
 不意にウィルが尋ねた。クローディアは窓の外から視線を戻す。
「何でしょうか?」
「先程の町では、この地方に領主はいないと聞いた。何でも、長年、領主が不在なので、王都から新しい領主が来ることになったとか。しかし、その新しい領主もまだ到着しておらず、何かあったのかと噂になっているようだ。本当にあなたの弟が領主なのか?」
 ウィルに鋭い眼を向けられ、クローディアの表情が、一瞬、強張った。だが、すぐに微笑みを取り戻す。
「それは先程も申しましたように、弟の体調がすぐれないからですわ。我が一族は、代々、この地方の領主を務めて参りましたが、国王や大臣たちは今の弟に領主の職務を全うできないと判断したのでしょう。それも仕方ないことです。でも、まだ新しい領主という方は着任されていません。その方がいらっしゃるまでは、弟がこの地方の領主であることに変わりないと思います。私が申していることはおかしいでしょうか?」
「いや」
 ウィルは首を軽く横へ振った。そして、今度はウィルの方が窓の外へ視線を向ける。それきり口を開かなかった。
 やがて馬車は郊外にひっそりと建つ小さな館へ到着した。その正面に停車すると、馬車のドアが開けられる。先にクローディアが、次にウィルが降りた。
 二人が降り立つと、ドアが閉められる音とともに再び馬車が走り始めた。館の裏手へと消えていく。そのとき、ウィルの位置からは御者の姿は見えなかった。いや、そもそもあの馬車に御者は乗っていたのだろうか。そういえばミースで馬車に乗り込むときも、御者の姿を目の当たりにしていない気がする。
「どうぞ」
 ウィルが疑問を抱いているうちに、いつの間にかクローディアが玄関のところで誘っていた。その顔には妖艶な笑み。まるで何かを企んでいるかのようだ。
 それに気づいてか、気づかずにか。ウィルは何事もなかったかのように、館の玄関をくぐった。その後ろで扉が独りでに固く閉じられる。
「ようこそ、我が館へ。こちらですわ。どうぞ」
 クローディアはそう言って、ウィルを案内した。
 不思議なことに、誰も出迎える者はいなかった。領主の館ともなれば、少なくとも数名の使用人がいてもおかしくないはずだが、一向に現れる気配がない。館内はまるで人気がなく、ひっそりと静まり返っていた。
 しかし、館の内部は、さすがにこの地方の領主のものというだけあって、素晴らしい調度品の数々が置かれていた。特に領主のジュリアンが芸術を趣味にしているということもあってか、壁には多くの絵画が飾られている。大小様々な風景画、肖像画、そして抽象画。その種類は統一されていないが、どれも名だたる画家の手によるものなのか、実に見事なものばかりだった。これらを収集するだけでも大したものである。
 結局、クローディア以外に館の人間とは会うことなく、ウィルは食堂へと通された。高い天井の上からは豪奢なシャンデリアが吊り下げられ、七、八人は座れそうな細長いテーブルの上には、色とりどりの料理が並べられている。いつ誰が、どのように作ったのか。料理はどれもまだ温かく、しかもウィルの来訪を予期していたかのように、すでに二人分が用意されていた。
「まずはお食事にいたしましょう。まだ召し上がっておられないでしょう? 演奏はそのあとにお願いしますわ」
 クローディアは椅子を勧めながら、ウィルに座るよう促した。しかし、ウィルは豪勢な料理を前にして動かない。
「オレはジュリアン殿に歌を聴かせるために来ただけだ。このような歓待を受けに来たつもりはない」
 固いことを言う表情のない吟遊詩人に、クローディアは口許をほころばせた。
「そんなことをおっしゃらずに。これらの料理はせめてもの御礼ですわ。それに、こんな時間では、すでに弟は休んでしまっているかもしれません。そのときはここにお泊まりいただいて、また明日にでも演奏をお願いしたいのですが」
「………」
 クローディアの言葉に、ウィルは黙り込んだ。確かに、病弱というジュリアンがまだ起きているとは限らない。かといって、無理に起こすわけにもいかないだろう。逡巡しているウィルにクローディアは近づいた。
「さあ、マントとお帽子をこちらに」
 クローディアは考える暇を与えぬうちに、ウィルのマントを外しにかかった。そして、旅帽子<トラベラーズ・ハット>も取ってしまう。その美しき容貌が完全にさらされた。
「その竪琴とお腰のものも預かりましょうか」
 さらに《銀の竪琴》とベルトに下げていた短剣もクローディアは預かった。食事の場には不必要なものだ。ウィルがそれに従うと、クローディアはそれらを持って別室へと引っ込んだ。
 ウィルは所在なげに立ち尽くし、食堂の中を見回した。するとウィルが入ってきたドアの上に一枚の肖像画が掲げられているのを見つけた。

 その肖像画には二人の人物が描かれていた。右側で隣の椅子にもたれかかるようにして立っているのはクローディアだ。今日の衣裳と同じ真紅のロングドレスを着ており、艶然と微笑みかけている。
 一方、その左側には椅子に座っている青年がいた。どこかクローディアに似た相貌は穏やかだが、その眼には鋭さが宿っている。ひょっとすると、これがクローディアの弟、ジュリアンなのかもしれなかった。
 肖像画の右下には、画家の署名らしき“グリム”の文字が読めた。もし同名の別人でないとすれば、カリーン王国で天才の名をほしいままにしている画家のことだ。そのグリムに肖像を描かれたことは、大変な名誉に違いない。
 ウィルが姉弟の肖像に魅入っているうちに、クローディアが笑みを絶やさずに戻ってきた。そして、ウィルの視線に気づく。
「ああ、これは数年前に、かの有名な画家グリム様に描いていただいたものですわ。左にいるのが弟のジュリアン。あの頃は、まだこうして元気だったのですが……」
 クローディアは表情を曇らせかけて、すぐにそれを振り払った。そして、ウィルの手をそっと取る。
「どうぞ、お座りください。まずは地元の葡萄酒で喉を潤してくださいませ」
 クローディアはウィルを座らせると、自ら葡萄酒のボトルを手に取った。この地方は葡萄酒の名産地としても知られている。ウィルは言われるままにグラスを取ると、濃厚な赤い色をした葡萄酒を注いでもらった。
 自分のグラスにも葡萄酒を注いだクローディアは、遠く離れた向かいの席に座った。そして、葡萄酒の入ったグラスを掲げる。
「では、乾杯いたしましょう」
「何にだ?」
「そうですね……今宵のこの出逢いに」
 二人は乾杯すると、それぞれ葡萄酒に口をつけた。芳醇な薫りを楽しみながら、喉の奥へと流し込む。そのとき、クローディアはウィルから視線を外さなかった。
「うっ……」
 急に葡萄酒を飲んでいたウィルがうめいた。その刹那、クローディアの眼が光ったことに気づいたかどうか。ウィルの右手からグラスが滑り落ちた。
 ガシャン!
 床に落ちたグラスは跡形もなく砕け散った。こぼれた葡萄酒がまるで血のように広がっていく。
 テーブルにはウィルがうつぶせになった。昏倒だ。
 その様子を見ながら、クローディアは悠然と葡萄酒を飲み干した。そして、赤い口紅に彩られた唇を指で拭う。
「フフフフフッ……今のうちよ。いい夢を見られるのも」
 クローディアの哄笑は、吟遊詩人を罠に陥れた食堂にこだました。


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