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吟遊詩人ウィル

暗黒街の歌姫

−23−

 ロベリアは走っていた。
 どこへ向かおうというわけでもなく、ただ後ろの追っ手を振り切るために。
 追っ手は三人。アッシュ配下の盗賊どもだ。ピットのアジトから脱出した際、運悪く見つかってしまい、執拗に追いかけられている。もう、かなりの距離を走ったはずだが、相手にあきらめる様子はない。
 女の足と男の足。いつ追いつかれてもおかしくはなかった。それだけロベリアが奮闘している証拠でもある。完全に息は上がっているが、捕まるわけにはいかなかった。自分を逃がすために残ったラークのためにも。
 ラークはうまく脱出できただろうか。数人相手に戦いながらでは、それも難しいように思える。もしかすると殺されてしまったかも知れない。
 だが、ロベリアはすぐに考え直した。アッシュなら、《涸れ井戸》に堂々と乗り込んできて、しかもまんまと逃げおおせたラークを、一度は自分の前に連れてこさせようとするはずだ。そして、自分に歯向かったことを相手に後悔させようとするだろう。プライドの高いアッシュなら、絶対にそうする。となれば、ラークはその場で殺されることはなく、少なくとも生きたまま捕らえられる可能性が高いと思われた。
 もし捕まってしまったのなら、今度はロベリアが助けるつもりだった。どんな危険が待ち受けようと、たとえ自分の命と引き替えにしてでも。そう強く心に誓う。なぜなら、ラークは──
 苦い思いが込み上げるのを振り払うように、ロベリアは再び、追っ手を振り返った。ラークを助けるには、その前に自分が捕まってはならない。だが、後ろの追っ手を見たとき、ロベリアの目は思わず見開かれた。
 いつの間にか追っ手は一人になっていた。スタミナが保たず、脱落したとは思えない。きっと先回りして挟み撃ちにしようと別れたのだ。
 ロベリアは焦った。相手はベギラの街を知り尽くしている。こちらがどう逃げるかも予測しているだろう。
 だが、だからといって立ち止まるわけにもいかなかった。こちらは丸腰なのだ。短剣<ショート・ソード>を持った相手に太刀打ちできるわけがない。
 ロベリアが悲愴な覚悟を決めたときだった。不意に路地から黒い人影が現れる。
 一瞬、早くも先回りされたのかと思ったロベリアだが、すぐに別人だと分かった。全身黒ずくめの旅姿。見覚えがある。一度、《涸れ井戸》に現れた吟遊詩人だ。
 ウィルはこちらへ逃げてくるロベリアを一瞥し、状況を悟ったようだった。バッとマントが払いのけられ、その下に隠されていた腕を出す。そして、走ってきたロベリアを自分の後ろに隠すようにし、追っ手の盗賊と対峙した。
「な、何だ、貴様は!?」
 盗賊の発した恫喝の声が思わず震えてしまったのは、仕方のないことだろう。妖艶なまでのウィルの美貌。これを前にして平然としていられる者は少ない。
「ウィル。通りすがりの吟遊詩人だ」
 ウィルは静かに名乗った。後ろにいたロベリアは、やっぱりと思う。ドリスが話してくれた下水道での救世主とは、この吟遊詩人だったのだ。
 盗賊は腰の短剣<ショート・ソード>を抜いた。
「だ、だったら、そのまま行っちまえ! 痛てえ目に遭う前によぉ!」
 盗賊は声ばかりでなく、剣を持つ手も震えていた。真っ直ぐに射抜くウィルの眼。それを見ただけで、肝が冷える。
 ウィルは一歩だけ前に進み出た。すると盗賊は、三歩、後ずさる。だが、このまま引き下がれないと思っているのか、剣を下ろそうとはしなかった。
 ウィルの右腕が突き出される。
「レノム!」
 呪文が唱えられると、盗賊は身構えたが、すぐに全身の力が抜けて、その場に崩れ落ちた。そして、安らかな寝息を立てる。それは眠りの呪文だった。
 ロベリアがホッとしたのも束の間、先回りしようと別行動をとっていた二人が、行く手から現れた。もし、あのまま逃げ続けていたら、ロベリアは捕まっていただろう。
「おい、貴様ら!」
 二人の盗賊はロベリアを発見するや、襲いかかってきたが、その前にまたしてもウィルの魔法が発動し、呆気なく眠らされてしまった。
 ロベリアはウィルの顔を思わず見上げたが、当人にとっては造作もないことなのか、まったく表情を変えていなかった。
「酒場にいた女だな」
 ロベリアの顔を見たウィルが言った。ロベリアはうなずく。
「はい。ロベリアといいます」
 そのとき、初めてウィルの目が細められた。
「子供たちから話は聞いている。ラークを助けたそうだな」
「はい。……でも、今度はそのラークが私を助けようとして、もしかすると捕まってしまったかも知れません」
「何?」
 ロベリアはピットのアジトでのことをウィルに話した。珍しく渋面を作るウィル。
「待っていろと言ったのに。──分かった、彼のことはオレに任せろ。あなたは子供たちと一緒に隠れているといい」
 だが、ロベリアは首を横に振った。そして、固く決意したように言う。
「ラークを助けに行くなら、私も連れてって」
 ロベリアは懇願した。悲愴な表情が浮かんでいる。
 もちろん、ウィルがそれを簡単に許すわけがなかった。
「危険だ。それにオレ一人なら、どのようにも動ける。悪いが足手まといだ」
 それでもロベリアは食い下がった。
「お願いです! そもそも、彼をこんなことに巻き込んだのは私なんです! ラークが捕まったことを言っているのではありません! 彼がこのベギラを訪れ、盗賊ギルドを敵に回すような原因を作ったのは、この私なんです!」
 目に涙を浮かべて訴えかけるロベリアの顔を、ウィルは見つめた。
「どういうことだ?」
 ウィルに促され、ロベリアは一旦、言葉を呑んだ。話すべきか否か。だが、この胸の苦しみを誰かに知っておいてもらいたい。その相手として、目の前の吟遊詩人は打ってつけだった。
「……私の弟マイケルは、ギルドで麻薬の運び屋のようなマネをしていました。しかし、そのうち運んでいる麻薬の量をごまかし、自分でさばくようになったのです。すべては私たち姉弟の生活を楽にするため。でも、麻薬流通のボス、ピットにそのことがバレてしまいました」
 話しながら、ロベリアはマイケルのことを思い出す。ロベリアにとって唯一の肉親で、一番大事だった弟のことを。
「ピットはマイケルを薬漬けにし、制裁を加えました。このままでは弟が死んでしまう。そう思ったとき、声をかけてきたのがアッシュです。取引をしよう、と。カリーン王国のティーレというところへ行き、そこの領主が大事にしている宝を持ってこい。そうすれば、マイケルのことは許すようピットに口を利いてやる、というものでした。私はわらにもすがる思いで、その条件を呑みました」
 ロベリアの手が震えた。今も忘れることのない後悔。そして、新しい真実を知らされたとき、それは大罪となって、ロベリアの上に重くのしかかった。
「私は、昔、歌を教えてもらった恩師から、リュートの演奏も習ったので、それを生かして、男装の吟遊詩人になりすまし、長旅をして、その領主の屋敷に向かいました。その領主の娘は、私が家宝を狙っているとも知らず、とても好意的に接してくれ、何日か滞在するうちに、そのありかを聞き出すことに成功しました。その家宝が一体どんなものであるのか、アッシュからは何も聞かされていませんでしたが、何とか手に入れた私は、急いでベギラへと戻ったのです。でも、手遅れでした。弟はすでに死んでいたのです……」
 嗚咽を漏らすまいと耐えながら、ロベリアは振り絞るように語った。それでも涙がこぼれる。固く握られた拳の上に落ちた。
 ウィルは優しく肩に触れるでもなく、ただロベリアを見つめていた。
「そうか。《恭順の耳》を盗んだのはアッシュではなく──」
「私です……私がやりました……弟を救うために、クリステルを傷つけてまで……。ラークからクリステルが毒を飲んで失明したと聞いたとき、心臓が止まるくらい驚きました。すべては私のせいなんです。ラークが本当に剣を向けるべき相手は盗賊ギルドなどではなく、私なんです……だから──!」
 だから、ラークを助けたい。これ以上の悲しみをクリステルに味わわせたくない。
 運命のいたずらとは、どうしてかくも残酷なのか。偶然に出会ったはずの二人に隠された因縁。真実はさらなる人の心を傷つける。
 ウィルは背を向けた。そして、ロベリアに言う。
「分かった。着いてこい」
 ロベリアは思わず頭を下げた。
 そして、ウィルは眠っている盗賊の一人を叩き起こす。
「ラークたちをどこへ連れていくよう命令を受けた? 素直に教えてもらおうか」
 美しき魔人の尋問は、盗賊の固い口を容易くこじ開けさせた。


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