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ゴゴゴゴゴッ……!
突然、足元に振動が伝わってきた。見れば、落とし穴の戸板が元に戻ろうとしている。もちろん、それを操作しているのはアッシュだ。
フィアーは閉じようとしている落とし穴を見つめ、それから目線をアッシュの方へ移動させた。
今、アッシュたちとフィアーを隔てているのは、この落とし穴のみ。八人の部下たちを易々と葬った刺客に対し、この行動はまったく不可解であった。それがフィアーにとって簡単に跳び越せるものだとしても、わざわざ障害を取り除かなくてもよいはずだ。
アッシュは一体、何を考えているのか。
フィアーは白い歯を見せた。
「どうやら観念したようだな。オレの強さを見て、死を悟ったか?」
勝ち誇ったように言うフィアーだが、その実、アッシュの出方を警戒していた。落とし穴を閉じたのは、何かある。そう踏んだのだ。
するとアッシュも笑いをこらえきれないように声を上げた。
「ベギラの盗賊ギルドで恐れられている刺客とは、一体どんなものかと思えば、ここまで図抜けた阿呆とはな」
「何?」
フィアーはムッとした様子で、アッシュをねめつけた。その間に、完全に落とし穴が塞がれる。
もはや、両者を隔てるものは何もない。
アッシュは続けた。
「まだ分からないのか? お前はオレに手の内を見せすぎた。もし、その黒い染料の秘密を暴露しなければ、オレはお前に殺られていたかも知れない。だが、すべてを晒してしまった今のお前にオレは殺せん」
「抜かしたな!」
フィアーは憤った。アッシュの言葉など、何の根拠もないことだ。たとえアッシュとドッグの二人がかりでも、超人的な体技を持つフィアーに敵うわけがない。仮に一太刀浴びせることに成功しても、フィアーの肉体に傷一つ与えることは出来ないのだ。
どうせ、この場をしのぐためのハッタリだと、フィアーは睨んでいた。
だが、それがハッタリだとすれば、アッシュの強がりは名演技だったと言えるだろう。目の前の刺客を見下すような眼。余裕すら窺える涼しい表情。次第にフィアーも、何か奥の手を隠しているのかと疑った。
その考えを見透かしたかのように、アッシュは二本ある剣のうち、長い方を手に取った。
一般的に盗賊は軽装が多く、武器も重量がある長剣<ロング・ソード>より、軽い短剣<ショート・ソード>を持つことが多い。ところが、ここにいるギルドの若き幹部は、その両方を装備していた。短い方は、他の盗賊たちと変わらず、短剣<ショート・ソード>であろう。そして、今、手にした長剣<ロング・ソード>は──
それは剣としての美しさに欠けるかのように、刀身がやや幅広になった、ずんぐりとした感じの剣だった。黒褐色の重々しい鞘に彫り込まれた複雑な紋様。アッシュはゆっくりと剣を抜いた。
「これはただの剣ではないぞ」
アッシュは剣を見せながら、フィアーに言った。珍しくフィアーが息を呑む。確かに、それが普通の剣ではないと気づいたからだ。
剣の刀身には、細かいルーン文字が刻まれていた。それは魔剣の証。古代王国時代、数多創られたマジック・アイテムだ。
アッシュは魔剣を愛でるように眺めると、再びフィアーに視線を戻した。
「この魔剣を知っているか? 《灰燼剣》という」
「かいじん……けん……」
フィアーは譫言のように繰り返した。アッシュがうなずく。
「そうだ。この《灰燼剣》で心臓をひと突きされると、その者は一瞬にして灰になるのだ」
説明しながら、アッシュは《灰燼剣》の剣先をフィアーの心臓に向けた。そして、ニヤリと笑う。
「人が灰となって崩れ去る様を、お前は見たことがあるか? それは美しいものだぞ」
アッシュはそう言って、上着のポケットからガラスの小瓶を取りだした。中には白い粉が入っている。灰だ。きっと《灰燼剣》の犠牲になったものを保存していたに違いない。その小瓶をそのまま足下に落とした。
フィアーはその小瓶を見つめ、そして笑った。これまでになく高らかに。
それを見て、アッシュは眉をひそめた。
「何がおかしい?」
「ハッハッハッ! どんな魔剣かと思えば、心臓を突き刺すと灰になるだと? その前に忘れたのか? オレの肉体には、どんな鋭利な刃物も通じないのだぞ! それでオレの心臓を貫けるものか!」
フィアーは表情にこそ出さなかったものの、たった一つの懸念が解消されて、ホッとしていた。
魔剣が出された時点でフィアーが恐れたのは、攻撃魔法が封じ込められている場合だった。たとえば、召雷剣<ライトニング・ブレード>という魔剣は、コマンド・ワードを唱えることによって、相手に電撃を浴びせることが出来る。どんな刃物も通さないフィアーの肉体だが、魔法となれば別だ。ダメージは避けられない。
だが、アッシュの持つ《灰燼剣》は、どうやら心臓に到達しないと効果はないらしい。一応、魔剣であるだけに、フィアーの肉体すらも貫く可能性はあったが、要はアッシュの攻撃を交わせばいいだけの話だ。アッシュの剣技がどれほどのものかは分からないが、接近戦で後れを取ることは絶対にないという自信があった。
ところが、アッシュもまた口の端を吊り上げ、笑みを絶やすことはなかった。自分の優位は変わらないのだと言いたげに。
「フィアー。オレは言ったはずだ。手の内はすべて見せてはならないと。《灰燼剣》の力は、それだけじゃないのさ」
アッシュの言葉に、フィアーの笑いがすーっと消えた。
「何だと?」
「《灰燼剣》のもう一つの特殊効果。それは──灰にした者を自分の下僕として復活させることができる力だ!」
そう言ってアッシュは、《灰燼剣》を逆に持ち替えると、床に落としたガラスの小瓶に突き立てた。ガラスが割れ、灰が舞う。それは瞬く間にもうもうとした煙へと変わり、室内を圧した。
「何だと言うのだ!?」
フィアーは後ろに飛び退くようにして、これから何が起ころうとしているのか、見極めようとした。
ほどなくして、煙の中から大きく黒い影が現れた。それは大男のフィアーすらもしのぐ大きさだ。フィアーはセスタスを構えた。
ブウゥン!
煙を散らすように、何かがフィアー目がけて振り下ろされた。フィアーはそれを横にステップして回避する。次の刹那、重く鈍い音を立てて、石畳の床が陥没した。それが桁違いに大きい棍棒の一撃だと見抜き、フィアーの表情は固まった。
ようやく煙が晴れて、アッシュが呼び出したものの正体が判然とする。フィアーをも凌ぐ、その岩のような巨体。醜い顔。鼻が曲がりそうな悪臭。それはフィアーも知っているモンスターだった。
「トロールだと?」
フィアーの言うとおり、それは人々に恐れられている怪物トロールだった。
トロールは下級の巨人族<ジャイアント>とも呼ばれているが、定かなことは分からない。分かっていることと言えば、とても凶暴な性格を持つことと、まともな人間では太刀打ちできないことだ。ただ、そんなトロールにも弱点はある。穴蔵に棲んでいることが多いため、太陽の光に弱いのだ。ただし、このアッシュのアジトの中で、太陽のように強烈な光を探すことは無理な話だったが。
トロールはフィアーに襲いかかってきた。それほど素早くはないが、その怪力は警戒しなくてはならない。フィアーはトロールの側面に回るように動いた。
しかし、トロールは自らの腕を振り回すようにして、フィアーを近づけはしなかった。ただ腕を振り回しただけで、大きな風が巻き起こる。
それを見物しながら、アッシュとドッグは悪趣味に笑っていた。
「どうした? ちゃんと避けないとペシャンコにされてしまうぞ! いくら皮膚が丈夫でも、首の骨を折られたらおしまいだろ?」
言われなくても、そんなことはフィアーにも分かっていた。充分に間合いを取って、隙を窺う。
一方、トロールに戦法らしきものはなかった。ただ敵に向かって突進し、力でねじふせるのみ。その威力は強烈だが、大振りが目立つ。
振り下ろされた棍棒を見切り、フィアーは攻撃に転じた。懐へと飛び込み、トロールの腹部目がけ、セスタスを振るう。
「グアアアアアッ!」
傷を負わされたトロールは唸り声を上げ、フィアーを払いのけようとした。危ういところで飛びのくフィアー。しかし、フィアーは可能な限りの手数を出したにもかかわらず、トロールの強靱な肉体に深手を負わすことはできなかった。セスタスの刃では、トロールの厚い皮膚を切り裂くのがせいぜいで、急所にまで届かないのだ。
むしろ、この攻撃は、トロールの怒りに火を点した結果になる。トロールは狂ったようにフィアーに襲いかかった。
それを見て、アッシュは隣のドッグに合図を送った。ドッグは無言でうなずく。
怒り狂ったトロールには、さすがのフィアーも手を焼いた。とにかく攻撃がめちゃくちゃなのである。それでいながら、一度でも攻撃を受ければ、簡単に骨を折られてしまうだろう。トロールの攻撃を避けるのが精一杯になっていった。
そのトロールを盾にして、ドッグはフィアーに接近した。目の前の怪物で手一杯のフィアーは気づかない。
トロールの脇ががら空きになった瞬間、フィアーは反撃を繰り出そうとした。こうなったら、出血多量で動けなくなるまで、攻撃し続けるしかない。
だが、そこにドッグが顔を覗かせた。それこそがアッシュの狙いだったと気づいたときは、もう遅い。フィアーの顔に向けて、ドッグはくわえていた長爪楊枝を発射した。
「ぐわあああああっ!」
フィアーは悲鳴を上げた。ドッグが飛ばした爪楊枝は、フィアーの右眼に突き刺さったのである。いくら全身に黒い染料を塗って、不死身を誇るフィアーであっても、眼ばかりは防御することができなかった。
片眼を潰されたフィアーは、たまらず動きを止めた。
そこへ再び襲いかかるトロールの一撃。
ブゥゥゥゥゥン!
あわやと思われた瞬間だったが、フィアーはなんとか反応した。後ろへ大きく飛び退き、トロールの間合いから離れる。決定的だと思っていたアッシュも、思わず感嘆の吐息を漏らした。
「よくぞ交わした」
「アッシュ……貴様!」
とめどなくあふれる血を右手で押さえながら、フィアーは残っている左眼でアッシュを睨みつけた。その憎悪の凄まじさ。ギリッと噛みしめた歯が鳴った。
アッシュは、そんなフィアーの怒りを笑いながら受け止めていた。どんな恨みを買おうとも、彼は盗賊ギルドの幹部なのだ。いちいち気にするような神経を持ち合わせてはいない。
フィアーは長く、そうしていられなかった。トロールがまだフィアーを狙っているのだ。初めてターゲットを殺せなかった悔しさを隠しつつ、フィアーは一旦、脱出を図った。出口から素早く姿を消す。
フィアーに逃げられ、トロールもまた怒り狂った。だが、その背後からアッシュが《灰燼剣》を突き刺す。トロールはピタリと動きを止めると、文字通り灰燼に帰した。
「追わなくてもよろしいのですか?」
ドッグが尋ねた。
「捨て置け」
アッシュは《灰燼剣》を鞘に収めた。そして、悠然と歩き出す。
「それよりも、あのラークという男と再会しようではないか。そちらの方が面白そうだ」
まるで今までのゲームに飽きたかのように言い、アッシュは高らかに笑った。
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