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一角獣<ユニコーン>が川のせせらぎに耳を澄ませた。
その背中に乗っていたミシルは、“彼”が喉を潤したいのだと察した。“彼”とは言葉を交わすことは出来ないが、不思議と気持ちが通じ合う。でなければ、一角獣<ユニコーン>の背に跨ることなど、普通の者が許されるわけがない。ミシルは一角獣<ユニコーン>によって選ばれたのだ。
ミシルは“彼”の首を優しく叩いた。すると一角獣<ユニコーン>は並足で音のする方へ向かう。茂みをかき分けると、そこが川だった。もっと正しく言うなら、ささやかな小川だ。
ここ《神秘の森》に流れる川は、皆、水がきれいだった。すべては森の奥にある泉から流れてくるのである。それは森の生命を育み、潤してきた。これからも、それは変わらないだろう。ここは《神秘の森》。永遠を約束された場所だ。
ミシルは“彼”の背から降りた。一角獣<ユニコーン>は首を曲げて、小川の水を飲み始める。ミシルはその白い馬体を撫でてやった。一角獣<ユニコーン>は世界一美しい生き物だ、とミシルは信じて疑わない。そんな“彼”がそばにいてくれるだけで、幸せな気持ちになれた。ミシルはこのひとときが好きだったし、かけがいのないものとしていた。
自分も清水を口にしようと、ミシルは川面を覗き込んだ。透明度が素晴らしいせいで、川底の砂がキラキラと光っているのが見える。焦点をさらに手前に移すと、今度は自分の顔を見ることが出来た。
ミシルはまだ幼い少女の顔をしていた。黒みがかった緑色の髪を襟元で切りそろえ、それをかき分けるようにして、特徴的な尖った耳がニョキリと生えている。ミシルは人間ではない。人間とエルフとの間に生まれたハーフ・エルフだ。
ハーフ・エルフは、とりわけエルフの社会では嫌われた。エルフ族は排他的なところがあり、その多くが人間と隔絶された所で生活することを好む。この《神秘の森》も、ネフロン大陸の西方で最大のエルフの居住地だった。人間は住んでいない。
従って、ミシルにはあまり親しいエルフはいなかった。むしろ、この森の中で一緒に暮らすことを許されただけでも大変なことだと言える。だから、こうして一角獣<ユニコーン>と過ごすことが多くなっているのだ。以前はそういった差別から淋しく悲しい思いをしたこともあったが、今は“彼”のおかげでつらさを紛らわすことが出来た。ハーフ・エルフという自分の境遇を呪ったこともない。
ミシルは冷たい川の水に触れた。それを両手ですくって、口許へ持っていく。喉を伝う新鮮な水は、ミシルを生命から若返らせるようだった。これが《神秘の森》を永らえさせている秘密だ。
そんな不可侵の聖地へ邪悪なる者が入り込むなど、ミシルは考えもしていなかった。
急に一角獣<ユニコーン>が警戒するように頭を上げた。耳が前の方に向かって立っている。《神秘の森》にも、普通の森と同様、危険な動物はいるが、今の“彼”の様子は只事ではない。ミシルも反射的に、腰に吊してある短剣<ショート・ソード>へ手を伸ばした。
それはミシルたちの方へ近づいていた。
警戒心を強めた一角獣<ユニコーン>がいななき、後ろ脚で立ち上がる。
反対側の川岸の茂みが音を立てるや、そいつは姿を現した。尖った耳はミシルと同じ。だが、肌の色は明らかに違った。
ダーク・エルフ。
かつて創造母神アイリスら神々と、魔界の王、並びにその下僕たちが世界の覇権を巡って争った《魔界大戦》において、闇の軍勢に荷担したエルフ族。魔族たちが魔界に追い返されても、その残党は今も世界のあちこちで生き延び、来るべき魔王再臨を待ちながら、数々の暗躍を行っている者たちだ。その証として肌は褐色。いわば同族のエルフたちにとっては裏切り者であり、最も忌むべき存在であった。
当然のことながら、エルフの聖地たる《神秘の森》において、ダーク・エルフがいることなど論外である。森には《監視者》がいて、そのような侵入者は排除されるはずであった。
それがなぜ、このようなところにいるのか。
ハーフ・エルフであっても、ダーク・エルフの存在は許されざるものだ。ミシルは短剣<ショート・ソード>を抜き、その切っ先を忌まわしい敵へ向けた。
「待て! ここはお前のような者が立ち入る場所ではない! 即刻、立ち去るがいい!」
ミシルはあどけない顔に似合わず、男のような言葉でダーク・エルフに警告した。だが、勧告したように退去で済ませるつもりはない。ダーク・エルフは斬る。最初からそのつもりだった。
しかし、ダーク・エルフの様子は少しおかしかった。足下はふらつき、疲労したかのように呼吸が荒く細い。まるでやっと立っているようだった。
熱で潤んだような眼をミシルに向けてくる。
「何だ……誰かと思えば、ハーフ・エルフの小娘か。チッ! どうせなら、純血のエルフを最初に殺りたかったぜ……」
悪辣な言葉とは裏腹に、ダーク・エルフは今にも倒れそうだった。どこか具合でも悪いのか。これならばミシル一人でも相手になりそうだ。
「立ち去れ! さもなくば斬るぞ!」
ミシルは再度、警告した。するとダーク・エルフは鼻で笑う。
「斬る、だと? このオレをか? バカなことを……そんなことがただの小娘ごときに出来るものか!」
一角獣<ユニコーン>が再びいなないた。やはりダーク・エルフ。大人しく従うつもりはないらしい。
「よくぞ言った! ならば冥府に送り届けて後悔させてやる!」
ミシルは勇敢にもダーク・エルフに立ち向かっていった。
ダーク・エルフはベルトの後ろに無骨な山刀のようなものを持っていたが、それを抜く素振りはまったく見せなかった。ただ体をふらつかせながら、人差し指をミシルに向けてくる。
ミシルが片足を小川に突っ込んだ刹那、そのダーク・エルフの人差し指に変化が起きた。指が蔦のようにシュルシュルと伸び、ミシルの方へ襲いかかったのだ。まるで長大なミミズを思わせる。
ダーク・エルフの指はミシルの顔を掠めた。そのまま後方にあった木に突き刺さる。ミシルは驚いた拍子に川の中で尻餅をついていた。
「手元が狂ったか」
ダーク・エルフは自嘲的に笑った。手首を振ると指が元通りに戻る。
魔王の配下だったダーク・エルフは黒魔術<ダーク・ロアー>の使い手だ、とミシルは他のエルフたちから聞いていたが、今のは明らかに魔法ではなかった。このダーク・エルフは特別なのか。
さらなる異変はミシルの代わりにダーク・エルフの攻撃を受けた木に現れた。あれだけ緑を覆い茂らせていた木が、いきなり葉を落とし、みずみずしさを失って枯れ始めたのである。急にこの木だけ、時間が進んでしまったかのようだ。言うまでもなく、ダーク・エルフの奇怪な技が木の生命を奪ったに違いない。
あんなのを喰らっていたら、今頃、ミシルはミイラのようになって死んでいただろう。それを想像したミシルは、先程までの気丈さなど吹っ飛んでしまっていた。森の中で恐ろしいダーク・エルフに出会ってしまったことを後悔する。
「今度は外さない。覚悟はいいな?」
ダーク・エルフはふらつく足取りでミシルに近づいた。
ミシルは腰まで川に浸かりながら、ダーク・エルフから離れようとした。しかし、腰が抜けたようになってしまって一向に立てない。
ダーク・エルフが人差し指を一本立てて見せた。殺られる。ミシルは目をつむった。
そのとき、ミシルの頭上を風が通りすぎ、威嚇するようないななきが聞こえた。
一角獣<ユニコーン>だ。
ミシルは目を開けた。すると“彼”がミシルを守るように、ダーク・エルフの前に立ちふさがっていた。
「邪魔をするな!」
「やめろ!」
ミシルは立ち上がったが、一角獣<ユニコーン>はその場を動かなかった。ダーク・エルフの指が“彼”の首筋を貫く。ミシルは口許を覆った。
一角獣<ユニコーン>はダーク・エルフの一撃を受けて暴れた。傷口から黒い根のようなものが四方八方へと伸び、白毛の馬体を浸食していく。“彼”の苦しみように、ミシルは涙をあふれさせた。
「よくも!」
ダーク・エルフへの怒りが、そして“彼”を犠牲にさせてしまった自分への怒りが、再びミシルに勇気を取り戻させた。短剣<ショート・ソード>を握りしめ、川を突っ切ってダーク・エルフへと斬りかかる。
ハーフ・エルフの少女の俊敏さに、ダーク・エルフはたじろいだ。おまけに目眩もして、体がぐらりと揺れる。それでも武器である指をミシルに放った。
ミシルは飛びかかってくる蛇を避けるかのように姿勢を低くしながら、短剣<ショート・ソード>で薙ぎ払った。ダーク・エルフの指は易々と切断される。地面に落ちると、本物のミミズのようにのたくった。
「やああああああっ!」
気迫を込めたミシルの斬撃。ダーク・エルフは慌てて身を反らす。
ズシュッ!
ミシルの短剣<ショート・ソード>はダーク・エルフの腹を斬り裂いた。その横を一陣の風の如く駆け抜けていったミシルを、ダーク・エルフは信じられないといった表情で振り返る。
いくら体調が万全でないとは言え、今の一撃は自分でも完全に避けたと思っていただけに、ダーク・エルフのショックは大きかった。まさか、ハーフ・エルフの小娘ごときに遅れを取るとは。
ミシルはすぐさまダーク・エルフへ剣を向け直した。今の一撃は、まだ決定打ではない。ふーっと一つ大きな息を吐き、再びダーク・エルフへ斬りかかる。
「ええええええいっ!」
ダーク・エルフは傷口を手で押さえながら、眼でミシルの短剣<ショート・ソード>の動きを追った。何とかこの場を切り抜けて、自分の任務を果たさなくては。死ぬのはそれからだ。
ミシルは右から突き立てるようにしてきた。ダーク・エルフはそれを見切り、回避しようとする。だが、そのとき、短剣<ショート・ソード>の刃が幾重にもダブって見えた。
ドッ!
次の刹那、ダーク・エルフの胸に短剣<ショート・ソード>が突き立っていた。ダーク・エルフの眼が驚愕に見開かれる。そして、その短剣<ショート・ソード>が普通のものではないと、ようやく認識した。
一体どのような材質で出来ているのか、短剣<ショート・ソード>の刀身はガラスのように透明だった。それが光を屈折させて、微妙に刃そのものの形を変えている。しかし、それは見る者へのまやかし。この剣と戦う者は、千変万化する刀身に必ず幻惑される。
よって名付けられた名前が──《幻惑の剣》。
ミシルの母が、唯一、遺していった形見だ。
ダーク・エルフは口から血の塊を苦しげに吐き出すと、そのまま倒れた。ミシルはその死体から目をそらす。いくらダーク・エルフとはいえ、誰かを殺すという行為はミシルを嫌な気持ちにさせた。胸がムカムカし、吐き気を覚える。
しかし、ミシルは頭を振って、それに堪えた。今はもっとすべきことがある。
ミシルは《幻惑の剣》を鞘に収めると、一角獣<ユニコーン>を捜した。自分の身代わりとなってダーク・エルフの魔指の餌食となってしまったのかと思うと心を痛める。だが、周辺を見渡しても“彼”の姿はいずこかへ消えていた。
小川を渡って元の場所へ戻ると、蹄の跡が川上に向かって残っていた。上流には《神秘の森》の命とも言うべき泉がある。森に暮らすエルフたちは、それを霊泉としてあがめており、病や傷を治す力があると信じられていた。“彼”が無事に泉へ辿り着けるよう、今のミシルには祈るしかなかった。
“彼”を捜すよりも、ミシルにはもっと大事なことがあった。ダーク・エルフの侵入を仲間たちに報せることだ。
森へ入り込んだのが、このダーク・エルフ一人なのか、それとも他に何名かいるのか分からない。だが、この平穏だった《神秘の森》を脅かす存在をこのまま放ってはおけなかった。
ミシルは急いでエルフ族の集落へ走った。
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