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その夜、タレリアはなかなか寝つけなかった。
明日、大事な結婚式を控えたタレリアは、真っ白なナイト・ドレス一枚をまとった姿で、一人、挙式が行われる大聖堂に程近い塔の上にある“清めの間”に泊っていた。花嫁が身を清めるために最後の一晩籠るのが、この地方の風習となっている。だが、タレリアにとっては、どうせ父であるクロム・カルレラが監視するのに都合のいいだけのことで、神聖な意味合いなどありはしないのだ、と考えていた。
タレリアが生まれたカルレラ家は、このルッツ地方でも指折りの名門であり、その花婿となるダームストルム家もそれにふさわしいものだった。
しかしながら、タレリアはダームストルム家の凡庸な三男、ミケルとの婚姻を承諾してなどいなかった。なぜならば、彼女にはかねてよりの恋人、ロイ・バークレーがいたからだ。
ロイは生まれこそ下級貴族の出だが、魔法の研究者としてはとても熱心で、高い才能が認められていた。タレリアは、そんな若い情熱を持った貧乏青年に恋し、ロイも彼女の美しさと無垢な心に惹かれ、将来を誓い合う間柄になったのである。
ところが、タレリアの父、クロム・カルレラは、そんな二人を許さなかった。クロムは持ち前の権力で研究機関に圧力をかけ、ロイをリルムンド地方へ左遷させる手筈を整える一方、娘の未練をも断つため、ミケル・ダームストルムとの結婚を早々にまとめたのだ。ロイはタレリアと会うことも許されず、やがて失意のうちに去って行ってしまった。
「ひどいわ、お父様! ロイをリルムンドへやってしまうなんて!」
父の卑劣な策略を知ったとき、タレリアは三日三晩、泣きはらした。だが、そんな娘を見ても、クロムは頑として信念を曲げようとはしなかった。
「あんな平研究員と一緒になったところで、お前が幸せになれるわけがない。すべてはお前のためなのだ」
「いいえ! そんなのは私のためなどではありません! 結局はお父様――カルレラ家のための政略結婚ではありませんか!」
以来、タレリアは父と口をきいていない。それはミケルとの結婚を承諾したわけではないというささやかな抵抗であり、意思表示でもあったのだが、準備は着々と進められ、いよいよ挙式は明日に迫っている。もう、どうしようもないのかと、タレリアは理不尽な身の上を嘆いた。
目が冴えてしまい、ベッドの上でじっとしていられなくなったタレリアは窓に近づいた。窓には施錠の呪文がかけられており、開けることはできない。すべては娘に逃げられないようクロムが仕組んだもので、部屋の中で魔法を使うことも封じられていた。
それでも月が昇っている夜空を眺めることはできた。ああ、この夜が明けてしまえば、自分の運命は決まってしまうのだ、と思うと、タレリアはまた涙が込み上げてきそうになる。リルムンドへ移らされたロイは、今頃、どうしているだろうか。タレリアが他の男と結婚することも知らされていないかもしれない。もう一度、愛しいロイに会いたいと、タレリアは月に願った。
その月を眺めているうちに、タレリアは気がついた。初め、夜鳥か何かだと思ったのだが、月に黒い点のようなものが見え、それが徐々に大きくなっていく。そのうち、どうやら鳥ではないことが分かった。なぜならば、それはこちらへ真っ直ぐに向かってきていたからだ。
「ロイ!」
それほど待たぬうちに、近づいてくるのが魔法で飛行している人間だと判明した。ロイだ。この隔離された“清めの間”に向って飛んでくる。
タレリアは窓を開けようとしたが、クロムの魔法のせいでびくともしなかった。多分、女の細腕くらいでは壊れないよう、強化もされているに違いない。
ロイは顔がよく分かるくらいの距離まで“清めの間”の窓まで近づいた。ここには花嫁が奪われないよう、父が雇った守衛も警戒しているはずだ。無暗に近づいては命の危険すらあるのに、こうして自分のために来てくれたロイを間近に目にし、タレリアは涙ぐんだ。
そんなタレリアに対し、ロイは何かを喋った。魔法のかかった窓のせいで聞こえない。それを伝えようと、タレリアも大声を出した。
「ここはダメ! お父様が魔法を!」
多分、向こうにも声は届かなかったはずだが、どうやら状況は呑み込めたらしく、ロイはうなずくと、タレリアに窓から離れるよう、身ぶり手ぶりで促した。タレリアはそれに従う。
次の瞬間、魔法で強化されていたはずのガラス窓が吹き飛んだ。ロイが何かの攻撃魔法を使ったのだろう。しかし、それを知らせるように、けたたましい警報が鳴り響く。これも侵入者を警戒した魔法による仕掛けであることは疑いなかった。
タレリアは外へと通じるようになった窓から身を乗り出した。
「ロイ!」
「タレリア! 迎えに来たよ! 一緒に逃げよう! さあ、僕につかまって!」
ロイは耳をつんざくような警報音に負けまいと、声を目一杯に張り上げた。
窓がなくなっても、部屋の中の魔法封じは働いていることだろう。ここで飛行魔法は使えない。タレリアは窓に足をかけると、受け止めようとしているロイに向って跳んだ。
ロイはタレリアの身体を抱きとめたが、一瞬、ずり落ちてしまいそうになり、ヒヤッとした。慌てて、双方がしっかりと腕に力を込める。それは三か月ぶりの抱擁だった。
「ロイ、会いたかった」
「僕もだよ、タレリア」
若い二人は再会を喜び合った。本当は情熱的な口づけを交わしたいところだが、いつまでもそうしてはいられない。タレリアの脱走に気づいた何名かが、塔の下で騒ぎ出していた。
「行くよ、タレリア」
「ええ」
二人は抱き合ったまま、今度は月へ向かって飛んだ。もう、この地に未練など、ひとつもなかった。
タレリア逃亡の報を知り、彼女の父、クロム・カルレラは苦々しい表情を作った。あらかじめ予期していた出来事ではあったが、それを許してしまった事実が腹立たしい。
「見張りの者どもは何をやっていたんだ!? 高い給金を支払ってやるのだぞ! ええい、役立たずどもめ!」
これはあとになって分かったことだが、見張りの者たちが口にした差し入れには、睡眠薬が混入されていたらしい。もちろん、前もってロイが仕組んだことであるのは明白だった。そのために、ロイの接近が気づかれなかったのだ。
「私も出る! 何としても娘を連れ戻し、ダームストルムの倅と結婚させるぞ!」
十数名の手勢を率いて、クロムは飛行呪文を用い、タレリアとロイを追った。ロイが娘を奪おうとすることは、ある程度、予想されていたことであり、そのために腕に覚えのある荒くれどもを雇っていたのである。というのも、ロイはリルムンドへの左遷が決まっていたにもかかわらず、その辞令に背き、姿をくらましたのだ。その事実は娘のタレリアに伝えていなかったが、そのときから今回のことを計画していたに違いない。ひょっとすると、ロイはまだ何か準備していることがあるかもしれないと、クロムは懸念していた。
「逃がすなよ! 明日の挙式が中止になったら、お前らに責任を取ってもらうぞ!」
クロムは部下たちを脅しながら、さらにスピードをあげた。目標を捉えようと、追跡者たちから明かりとなる光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>が飛ぶ。それはロイたちを追尾し、逃がすまいとする。
ロイに抱かれるようにして飛ぶタレリアは、身を切り裂くような風に震えていた。何しろ、薄手のナイト・ドレス一枚しか着ていない。ロイのぬくもりだけが頼りだった。
「大丈夫かい?」
そんなタレリアをロイは気遣った。だからといって、飛ぶスピードを緩めるわけにはいかない。タレリアは気丈にも笑顔を見せた。
「私のことなら心配しないで。でも、どうするの? このままじゃ、お父様たちに追いつかれてしまうわ」
「そのことなら、ちゃんと考えてある。あと少しで辿り着くよ」
「辿り着く? どこへ?」
「君と僕とが、誰にも邪魔されずに一緒になれるところさ。――それより、この光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>、少々、厄介だな」
「ならば、私に任せて。――ディノン!」
タレリアは魔法を唱えた。すると、タレリアの手から生まれた複数の光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>が放たれ、周囲を飛ぶ追っ手の光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>にぶつかる。双方は相殺され、一瞬だけ強く発光すると、弾けるようにして消えた。
目印の光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>を潰され、追っ手たるクロムたちは二人の姿を見失った。
「しまった、光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>を! さては、どこかに降りる気だな」
眼下には鬱蒼とした山林が広がっていた。このどこかに隠れ家を用意しており、クロムたちをやり過ごすつもりなのか。しかし、クロムには、まだ追跡の手段が残されていた。
「タレリアめ、逃げ切れると思うなよ」
クロムは左手の薬指にはめた指輪をかざした。すると宝石の部分から、か細い糸のような青い光が伸びる。その先にこそ、タレリアがいるはずであった。
「やはり山林へ降りたか。――我らも降下するぞ」
父と娘をつなぐ魔法の光については、タレリアたちも気づいていた。タレリアの指輪から青い光が空へ一直線に伸びている。手で遮ろうとしても、光はそれすらも貫通しており、決して消えなかった。
「これはお母様の形見だと言われて貰った指輪なの。私、騙されたんだわ。――どうしよう、このままでは見つかってしまう」
タレリアは焦って、指輪を外そうと試みたが、それはまるで一種の呪いでもかかっているかのように、一向に取れる様子はなかった。指がちぎれそうになるまで引っ張るタレリアをロイは手を添えてやめさせる。
「ここまで来たら、もう少しだから。行こう」
ロイはタレリアを励まし、先へと進み始めた。
足下を照らす明かりもなく、真っ暗な山林の中を進むことは、タレリアにとって心細かった。いつ父たちに追いつかれるかと思うと気が気ではないし、この辺は野生のドラゴンも多いと聞く。人間が歩くには危険なところだった。
片やロイは、この山林を熟知しているらしい。タレリアの手を引きながら歩く足に躊躇はなく、暗さなど関係ないかのように複雑な経路を辿って行く。やがて、軽く息が弾むようになった頃、岩肌にぽっかりと穴を開けた洞窟の前に出た。
「ここだよ」
「ここ?」
「僕ら二人だけの世界は、この奥にある」
ロイは囁くように言った。
タレリアは真っ暗な洞窟の奥を覗き込んで見たが、ロイの言っていることが本当かどうか分からなかった。
「でも、お父様たちは確実にここへやって来るわ。そのときはどうするの?」
指輪の光は、まだ伸びたままだった。もし、今度、連れ戻されたら、二度とロイには会えなくなるだろう。父ならば、ロイを殺すことすら厭わないかもしれない。
だが、ロイには確信があった。
「大丈夫。僕ら以外に、この奥へ辿り着ける人間はいないから。僕はこの三か月、この日のために準備してきたんだ。どうか、僕を信じてくれ」
「ええ、ロイ。あなたを信じているわ」
その言葉に嘘偽りはなかった。
「ただし、ここに入ったら、もう帰っては来られないよ。そのことは憶えていてくれ」
「構わないわ。この先、ずっとあなたと一緒にいられるのなら、私は家もお父様も捨てる」
「タレリア」
二人は最後の抱擁をした。固い決意に結ばれて。
「じゃあ、行こう。僕たちの約束の地へ」
ロイとタレリアは離れ離れにならぬよう手をつなぐと、洞窟の中、奥深くへと踏み行った。二人だけの世界へと。
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