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チクチクと皮膚を突き刺すような日差しに焼かれているはずなのに、ジェリコは自分の身体が次第に冷たくなっていくのを感じていた。
「うっ……ああっ!」
起き上がろうと少し動きかけて、腹部に筆舌に尽くし難い激痛が走った。反射的に手が動き、痛む患部に触れる。ぐっしょりと濡れていた。それもおびただしく。
手の平は真っ赤に染まっていた。血だ。多分、致命傷に近いだろう。
(チクショウ……やられた!)
ようやくジェリコは自分が刺されたことを思い出した。道理で身体の動きが鈍いはずだ。このまま砂漠の上で死を迎えるのか、と自らの運命を悟った。
しかし、まだ二十二歳という若さで死を目前にしているにもかかわらず、どういうわけかジェリコは恐怖よりも、むしろ諦観を抱いていた。この結果は仕方がないと。すべては身から出た錆なのだから。
徐々に意識が薄れていく中、ジェリコは自分に近づいて来る足音に気づいた。誰なのか確かめようと思ったが、もう首を動かすのさえも億劫だ。
すると、その人物は仰向けに倒れているジェリコのそばに立ち、上から覗き込んで来た。
何か喋ろうとしたが、そんなことさえ深手を負ったジェリコには出来なかった。唇がわずかに動いただけ。相手には呻き声くらいにしか思われなかっただろう。
閉じかけた目で相手の顔を確認しようとしたが、中天に昇った太陽の日差しは強烈で、ジェリコからは完全に逆光になってしまっている。ただ黒い影法師だけがジェリコの上に覆い被さっていた。
(まるで死神だな)
ジェリコには、それがまともな人間だとは思えず、シニカルな感想を持った。さらに言うなら、これは死を間近にした幻覚で、現実に起きていることではないのではないか、という疑念もある。
そのうち、ジェリコの意識は消えるように闇の底へ引きずり込まれていった。
目が覚めると、炎天下の空は何処かへと消え去り、辺りはすっかり暗くなっていた。
ネフロン大陸の南中央部に位置するシャムール王国は広大な砂漠の地として有名で、昼間は、その地で生まれ育った者さえ活動を自粛する灼熱地獄、一方で夜になると急速に気温が低下し、その寒暖差は激しい。どちらにせよ、人間が暮らすには過酷な環境だ。
腹を刺されながら、まだ生きていたことに対し、傷を負ったジェリコ自身が何よりも驚いていた。どうやら悪運は尽きていなかったらしい。それどころか首から上を動かすだけの体力まで戻っていた。
「気がついた?」
不意に女の声がした。ジェリコは無理に首を曲げ、そちらを見る。そこには跪いた少女がジェリコに向かって安心したような笑みを浮かべていた。
目だけを動かして辺りを観察してみると、ここは自然の風化によるものと思われる岩場に出来た深い横穴のようで、どうやらジェリコが気を失っている間に運ばれたらしい。近くには夜営用か、明かりと暖を取るための焚き火が赤々と燃えていた。
「ここは……?」
「えーとねぇ、そう言われると困るんだけど……砂漠のどっか……ごめん、あたし、バカだから、うまく説明できなくて……」
ジェリコの質問に答えられず、少女は恥ずかしそうに愛想笑いをした。
見たところ、十三、四といった年頃だろうか。まるで乞食のように髪はボサボサ、顔は薄汚れ、着ているものもボロ切れのようだ。ひどく痩せているが、黄色い歯を見せながら作る笑顔は、それほど悪い印象を抱かせるものではない。これまでの苦労が容易に想像できるのに、この少女からは天真爛漫にも似た純真さが感じられた。
「君が助けてくれたのか?」
「うん、て言いたいけど、違うよ。爺様が助けてくれたの」
「ジサマ……?」
「ええ、爺様よ。ひどい傷だったから、あのままだったら死んでたかも知れないって」
「だろうな。こうして生きているなんて、オレ自身も信じられない」
ジェリコはそっと傷口に触れた。まだ痛みはするものの、死にかけだった状態に比べれば雲泥の差だ。
「“奇蹟”のおかげよ」
「キセキ?」
「そう。爺様はねえ、“奇蹟”を使えるの」
「ナギ」
横穴の奥から別の声がした。しわがれた老人のものだ。
「――あっ、爺様。あのお腹を刺されてた人、目を覚ましたよ」
「そうか、“奇蹟”の効果があったようじゃのう」
「どなたか存じませんが、この度は助けていただいて、ありがとうござ――」
少女の後ろから近づく『爺様』とやらに、ジェリコは礼を述べようとして身を起こしかけたが、途中で言葉を呑み込んでしまった。なぜなら、現れたのがジェリコの想像した『爺様』の容姿と、あまりにも違い過ぎたからである。
「ひっ!」
ジェリコは思わず、腰の剣に手を伸ばそうとした。ところが、砂漠での移動中、ずっと護身用として肌身離さず所持していたはずの短剣<ショート・ソード>は助け出された際に外されたらしく、武器となるものが一切ない。かと言って、この場から逃げ出せるほど体力の回復もしていなかった。
その恐ろしい姿から目を逸らせぬまま、ジェリコはいつ襲われるものかと身構えた。
ジェリコの青ざめた様子に気づいた少女は、慌てて傷ついた青年の緊張と誤解を解こうとする。
「怖がらなくても大丈夫よ。爺様はあなたを取って食おうだなんてしないから」
「し、しかし、そいつは――!」
「余の姿を見て怯えるのも無理はあるまい。普通の人間が魔獣と顔を合わせることなど、そうそうないだろうからな」
「ま、魔獣が……喋った!?」
「若造よ、ひとつ教えてやる。人間の言葉を操る魔獣は少なくないぞ。余のように魔法に長けたものは特にな」
その魔獣はとてつもなく恐ろしい姿をしていた。全体的にはライオンに見えるのだが、尾はサソリのそれであり、背中には片側だけ巨大なコウモリの翼みたいなものが生えている。どうやら、もう片方は失くしたらしい。顔は、白いものが多く目立つたてがみの他は人間の老人そのもので、ほとんど視力がないのか、開かれた左目は白濁していた。
魔法生物に詳しい者がいれば、魔獣の正体は一目瞭然――古代魔法王国期に産み落とされた合成魔獣<キマイラ>の一種、マンティコアだ。
マンティコアが口にした「魔法」という言葉によって、ジェリコは自分を救ったという“奇蹟”の正体に思い当たった。
「じゃあ、お前が聖魔術<ホーリー・マジック>をオレにかけて、助けてくれたのか?」
「そうとも言えるが、そうでないとも言える」
「どういう意味だ?」
「余が信奉するのは、お主ら人間が崇める神ではない。邪神だ」
「………」
「だから、どちらかと言えば黒魔術<ダーク・ロアー>に近い」
魔法を使えぬジェリコにも多少の知識くらいはある。黒魔術<ダーク・ロアー>は悪魔王との契約により会得するという強大な魔法だ。このマンティコアが契約しているのは、かつて創造母神アイリスら光の神々と敵対した闇の神々のうちの一柱なのだろう。言われてみれば、身の毛もよだつ魔獣にはふさわしい。
「どうして魔獣が人間であるオレの命を?」
魔法のことはともかく、ジェリコには自分が助けられた理由が釈然としない。魔獣は人間にとって脅威であり、魔獣にとって人間は取るに足りぬ卑小な存在に過ぎないはずだ。
するとマンティコアは老人の顔をクシャクシャにさせた。あろうことか、魔獣であることを忘れさせるような破顔だ。
「頼まれたからじゃよ、ナギにな。この娘に言われては是非もない」
ジェリコは魔獣が「ナギ」と呼んだ少女の顔を見た。ナギははにかむ。
マンティコアとみすぼらしい少女――そもそも両者の繋がりがジェリコには結びつかない。
「余はナギによって助け出された。だからナギの願いも聞いてやったのじゃ」
「あたしと爺様ね、《奇蹟の町》にいたんだよ。知ってる? 《奇蹟の町》」
「……いや」
「《奇蹟の町》には、いろんな所から大勢の人たちが集まって来るんだよ。爺様に“奇蹟”を授けてもらいたくてね。病気の人、足が悪い人、目が見えない人……爺様はそういった人たちを“奇蹟”で治しちゃうんだ。凄いでしょ?」
「あ、ああ、そうだな」
ナギは心底から、この老いた魔獣のことを本当の祖父かのように敬っているようだ。
だからと言ってジェリコまで面妖な怪物のことを信頼は出来ない。いくら人間とそっくりな顔を持っていようとも。
「だが、余も年老いた。二千年以上生きてきたが、そろそろ寿命が近い」
「に、二千年だと!?」
ジェリコは思わず目を丸くしてしまった。魔法生物である魔獣は長命だと聞いてはいたが、桁が違い過ぎる。長寿で有名な森の妖精族エルフだって、せいぜい数百年が関の山だ。
「何しろ、余は古代魔法王国期の生まれだからな。――だから死ぬ前に一度、あの町から出て、そのまま外の世界で己の最期を迎えたいと思ったのじゃ」
「町から出るくらい、今までにだって可能だったろ。何を今さら」
「いや、それが簡単なことではなかったのじゃよ。何しろ、余には呪いがかけられておったからな。町から逃げてはならぬ、という呪いが」
「呪い……」
「知っとるか? 《制約<ギアス>》じゃよ」
「ギアス……」
「強力な魔法による呪いだ。それによって余は一度も町の外へ出られなかった。古代魔法王国期からずっと今に至るまでな。《大変動》の時代を迎え、古代魔法王国が滅び、一旦は町から住民が死に絶えても」
昔話として聞いたことがある。この世界は、かつて一度、滅んだ――と。
「《大変動》が収まり、何百年も経ってから、廃墟と化していた町に新たな人間たちが移り住んできた。魔法すら満足に扱えぬ、かの時代であれば単なる奴隷としてしか扱われなかった人間たちがな。まあ、《大変動》の中を生き延びたしぶとさだけは認めてやるが」
「………」
「余は彼らの望むがままに魔法を使った。“奇蹟”と称して。町から出られない余が人間と共生するには、それしか方法がなかった」
「で、《奇蹟の町》の出来上がりか」
「魔法を使えぬ人間に言われるがまま力を行使してきた余のことを嘲笑ってくれてもよいぞ。何が魔獣マンティコアだ! 魔法の有無がどれほどの意味を持つ? どんな力を持っていようと、余は狭い町の中でしか生きてこられなかった!」
話だけを聞いていれば不憫な身の上と同情したくなる。が、相手は凶悪な魔獣のマンティコアだ。こうして老いる前に《奇蹟の町》から逃げ出していれば、どれだけ多くの人間に被害を及ぼしたか知れたものではない、とジェリコは冷静に考える。
「だから、あたし、バカで何の役にも立たないけど、爺様を町の外へ連れ出してあげたんだ。爺様にはあたしも助けてもらったから。今のあたしがこうしていられるのは、爺様のおかげだから」
ナギはマンティコアに寄り添いながら、強く訴えた。ジェリコは純粋な思いを抱く少女の勢いに気圧される。
「わ、分かった、分かった。――しかし、魔法の呪いで町から出られなかったはずなのに、一体どうやって――」
ジェリコは疑問を口にしかけ、それを途中で止めた。ここへ近づく何者かの気配を感じたからだ。脳裏に自分が殺されかけた瞬間がフラッシュバックする。
「だ、誰だ? 誰か来たのか? お前たちの他に誰か連れがいるのか?」
「それは……」
ナギの答えを待つ余裕もなく、ジェリコは身の危険を覚えながら、横穴の入口を振り返った。
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