[RED文庫]
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[新・読書感想文]
[#02→]
追跡者<CHASER>
#01.夏休みの終わり
夜に訪れる室内プールは、昼間とはまったく違った様相を見せていた。窓からこぼれる月の光が暗い水面をわずかに輝かせているが、それは昼間に見られる清廉さではなく、得体の知れない不気味な雰囲気を感じさせるものでしかなかった。室内の照明をつければ、それらが払拭されることは分かり切っていたが、こっそりと忍び込んだ城戸倉香里にすれば、それはできない。そんなことをすれば深夜に学校に忍び込んだことを誰かに知られてしまう。
香里は足下に気をつけながらプールサイドを横切り、ちょうどプールの中間点に設置された監視台に駆け寄った。そこでもう一度、入口から誰もやって来ないことを確かめて、服を脱ぎ始める。最初は、誰もいないのなら裸のまま泳ごうかとも思ったが、万一、見回りの職員にでも見つかったら大変だ。ただ怒られるだけでは済まない。
あらかじめ服の下に着ていた水着だけの姿になると、脱いだものを監視台にひっかけて、香里は準備運動を始めた。室内とは言え、おそらく夜になって水温も下がっているはずだ。入念にやっておいたほうがいいだろう。
若干、息が弾むまで身体をほぐした香里は、プールへと足を進めた。水面に爪先が触れた瞬間、香里は身をすくませそうになったが、構わずくるぶしまで入れていく。大丈夫。夜とはいえ、季節はまだ夏だ。香里は思い切って全身を飛び込ませた。
全身がプールの水に包まれると、心地よい浮遊感に満たされていった。香里は仰向けに浮かび上がると、ゆっくりと背泳ぎの体勢に入った。広いプールをただ一人、独占して泳いでゆく。
四ヶ月前、私立の森里高等学校に進学。希望だった水泳部に入部してから数え切れないくらい同じプールで泳いでいるが、こんなにのんびりと、しかも何も考えずに身体を浮かべることはなかった。全国的にも競泳のトップクラスとして有名な森里高校では、新入生と言えどもある程度のタイムが要求され、クリアできなければ『二軍』に落とされてしまう。『二軍』は練習も出来ず、『一軍』の選手たちの裏方に回ることになるのだ。一度、『二軍』に落ちてしまうと、挽回のチャンスはまず巡ってこない。それだけに香里も必死に泳いだ。今のところ、なんとか『一軍』に踏みとどまっているような状況だが。
香里がそれだけ必死になるのにはワケがあった。一年先輩の男子水泳部員、殿村庸司の存在である。
殿村は森里高水泳部のエースだ。三年生を含んでも、バタフライは一番速い。将来のオリンピック候補という評判も高い。その上、ルックスもよくて女の子に人気だ。女子の入部者の半分は、殿村目当てだとさえ言われている。事実、香里もその一人だった。
だいたいの女子部員は『二軍』に落ちて、殿村の追っかけのようになっているが、香里はそれが嫌だった。追っかけの一人として見られるより、同じ『一軍』で頑張る仲間として認めて欲しかった。その方が、より殿村を身近な存在として感じられると信じていた。
一学期の間は、殿村との会話さえままならなかった。プールを男女共有しているので、すれ違いざまの挨拶はあったが、それは先輩と後輩同士のごくごく当たり前のもので、殿村から話しかけてくることはなかったし、香里も勇気を振り絞ることは出来なかった。
それが夏休みに入って急に進展した。夏の大会を控えた水泳部は『一軍』だけが強化練習を行った。『二軍』がいなくなったため、先輩たちの世話役は香里たち一年生が受け持つことになり、殿村と接する機会が自然に増えたのだ。殿村は初めて香里のことを知ったようだったが、そんなことは構わなかった。二人はよく会話をするようになり、練習帰りにどこかへ立ち寄るようにもなった。
殿村から正式に交際を求められたのは、夏の大会が終了してからだった。そのとき、うれしさのあまり泣いてしまい、香里は殿村を困らせたことを憶えている。今にして思えば恥ずかしさが込み上げてくるが、素直な気持ちが出た結果だったのだろう。そんな自分がいたことを遠い昔のように感じる。
それからは毎日が初めて経験することばかりだった。デートをした。二人で腕を組んで歩き、二人で映画を観、二人で一緒のものを食べた。旅行にも行った。親には内緒の旅行だ。海に行った。花火を眺めた。そして、ヴァージンも捧げた……。
今年の夏休みは楽しすぎて、永遠に続くような錯覚を覚えた。まるで夢の中で生きているようだった。時間はもちろん、日にちの感覚がなくなっていった。それほど楽しかった。
しかし、終わりは訪れる。
夏休みの終わり。
それが恋の終わりでもあっただなんて……。
香里は、わずか二時間前のことを思い出して急に気持ちがしぼみ、水の中に身体を沈めた。
「オレたち、終わりにしよう」
信じられない言葉だった。今まで想像したこともない。それが殿村の口からもれた。
その言葉が出る、ほんの数分前まで、香里は殿村に抱かれていた。いつもと変わらない殿村の様子から、最初、耳を疑った。冗談かと思った。いや、冗談でもタチが悪すぎる。
「本気なの?」
声が震えていた。それが益々、自分の気を萎えさせていた。
「終わりにしよう」
もう一度、殿村が言った。
どうして、と問いただした。泣いた。喚いた。殿村の身体に拳を叩きつけた。しかし、殿村はそれ以上、何も言わなかった。
泣きはらして家に帰った。親に出くわさないようにして、二階の自分の部屋に閉じこもり、また泣いた。泣いても泣いても涙は止まらない。今まで生きてきた中で、一番悲しかった。これが失恋なのだと知った。
部屋で一時間も泣いていた香里を心配して、母がどうしたのかとドアごしに尋ねてきた。なんでもない、と返しても納得しない母に嫌気がさし、香里は再び家を出た。どんなに泣いてもいい場所を求めて行き先を学校に決めたのは、どんな心理が働いたのか香里にも分からなかったが、こうしてプールの中でゆらゆらと身体をゆだねていると、正解だったように思えてくる。
(このプールは私の涙が作り出した海なんだ……)
また涙が滲んだ。が、すぐにそれをプールの水が洗い流す。頬を濡らすのが涙なのかプールの水なのか、もう分からない。
それからどのくらいプールに入っていただろうか。
ようやく気持ちが収まってきた香里は、再び背泳ぎを始めた。
これからのことを考えてみる。
明日から新学期だ。学校が始まれば水泳部の練習で、嫌でも殿村と顔を合わせることになる。いっそ、辞めてしまおうか。もともと殿村目当てで入部したようなものだ。自己記録は四月からほとんど伸びていないようなものだし、退部したって差し支えない。そうだ、そうしよう。
香里は決意すると、プールから上がろうとした。一旦、泳ぎをやめて立ち上がる。そして今度は、服が置いてある監視台の方向へと泳いでいこうとした。
そのとき──
香里の足下に何かが触れる感覚があった。スッと撫でるような感じである。いきなりのことに、香里は悲鳴を上げそうになった。
相変わらず水面は暗く、底を見通すことは出来ない。だが、決して気のせいなどではなかった。確かに何かが足下に触れたのだ。
なにか魚のようなものでもいるのだろうか。
まさか。
ここは室内プールだ。そんなものが入り込むはずがない。
香里はその場にじっとして、その正体を見極めようとした。だが、それらしき影を見つけられなかった。
それでも安心などできなかった。むしろ恐怖心が徐々に込み上げてくる。一刻も早く、このプールから上がるべきだと本能が知らせていた。
母の実家がある長崎で、祖母から河童の伝説を聞かされたことがある。その話の中の河童は、ただキュウリが好物なだけのユーモラスな妖怪ではなく、人の生き肝を喰らう怪物として語られ、幼かった香里を怖がらせるのに充分なものだった。その記憶が甦る。
まさか本当に河童が現れたわけではないだろうが、得体の知れないものであることにかわりはなかった。パニックに陥りそうになる。
プールサイドまで十メートルくらいだろうか。泳げない子供じゃあるまいし、長いという距離ではない。ひと泳ぎで辿り着ける。だが、このときばかりは覚悟が必要な距離だった。動いた途端に襲われないだろうか。そんな不安がつきまとう。
動くに動けず、しかし、じっとしているのも耐えられず、恐怖と緊張の糸は今にも切れそうだった。
ポチャン
暗闇と沈黙が支配していたはずの室内プールに、一瞬だけ気配が感じられた。それは背筋を凍らせるようなおぞましさだった。
「きゃあああああっ!」
押さえ込んでいた恐怖が、一気に放たれた。香里は絶叫に近い悲鳴をあげ、懸命にプールサイドを目指して泳いだ。それはクロールでも平泳ぎでもないメチャメチャな泳ぎ方で、焦る気持ちに反してなかなか前に進まない。だが、もう香里に冷静な判断は出来なかった。
ほとんど溺れるようになりながらも、香里は手足を動かし続けた。身体がスローモーションのように遅くなったような気がしたが、徐々にプールサイドには近づいている。あと五メートル、四メートル、三メートル……。
あと少しで手が届くというところで、再びおぞましい感触を腿に感じた。全身が引きつる。やはり来たのだ。
「いやぁあああっ……ゴボッ!」
悲鳴をあげた途端、プールの水を飲んでしまった。泳ぎのバランスが崩れる。身体が沈んだ。
その香里の左脚に何かが巻き付いた。海ヘビか、と一瞬思った。だが、目を開けて正体を確かめる勇気はなかった。ただ懸命に振りほどこうと左脚をばたつかせる。
最悪なことに香里の左脚に巻き付いたモノは、徐々に這い上がってこようとしていた。ふくらはぎから膝、そして内腿へと移動している。香里は半狂乱になりそうだった。
(イヤ、来ないで、来ないで!)
心の中で懇願しても、脚に巻き付いたそいつの動きは止まらなかった。這い上がってくる。まさにヘビのようだった。
そいつの──おそらくではあるが──頭が脚の付け根にまで達した。すなわち、そこは香里の女の部分そのものであり、まだ殿村一人にしか許していない秘密の箇所でもある。まさかこの生き物──なのだろう──は、そこを目指しているのだろうか。だとすれば何のために。
香里はまた、生き肝を喰らう河童の話を思い出していた。
(イヤ、やめてっ!)
悪い予感は当たる。香里の秘部を競泳用の水着が守っていると分かったそいつは、これまでになかった力で水着の股下部分を引きちぎりにかかった。抵抗する間もない。伸縮性に富んだ水着は易々と破かれ、そいつは香里の中へ侵入を図った。
「イヤァァァァァァッ!」
室内を悲痛な叫びと水音が響いた。
そして──
水音がおさまったあと、再び静寂が戻った。それは死を連想させるもので、暗闇ばかりが濃く彩りを加えていた……
香里が室内プールで正体不明の生物に襲われてから一時間後、同じ場所に二人の人物がやって来ていた。
一人は男。レスラーのような立派な体躯をしており、筋肉の盛り上がりがわかるくらいにフィットしたタンクトップを着用している。年齢は三十半ばくらいだろうか。髪を短く刈り上げ、精悍な顔立ちをしている。
もう一人は女。いささか流行りを過ぎたボディコンのワンピース、足にはお揃いのピンヒールと、実にハデな出で立ちだが、その美貌は知的で聡明である。なにより強い意志が感じられる瞳が印象的で、仕事に生きる女として同性から羨望を集めることだろう。もちろん男も別の意味であこがれを抱くのは言うまでもない。
二人はぐるりとプールサイドを回りながら、何かの異変を探し出そうとするかのように目を凝らしていた。森里高の教師だろうか。いや、それにしては先程の香里同様、室内プールの照明もつけずに探索するのは不自然だ。時計は夜中の十二時を回ろうとしている。
ふと、女の足が止まった。指を鳴らして男に知らせる。男も気がついた。
「あったわ」
女はプールサイドにかがみ込むと、さざ波程度もゆらがない水面を指さした。
その方向には、この暗闇では注意しなければ見落としてしまいそうなくらい小さく、そして、プールの水に同化したかのように透明なものが浮かんでいた。まるでビニールのようだ。
「ヤツめ、ここに逃げ込んだか」
男は苦々しく呟くと、周囲を見渡した。室内の隅に立てかけられているデッキブラシに気がつき、それを手にする。そして柄の部分を先にして、水面に浮かぶビニールのようなものをたぐり寄せた。
「よっと!」
プールから上げられたそれは、ビニールよりもやや透けた感じの乳白色に見えた。細長い形をしており、ちょうどスーパーの店頭などに置かれている、傘を入れておくビニール袋に似ている。大きさはそれよりも若干小さめか。
「ここで脱皮したんだわ」
女が冷静に言った。その瞳は静かなプールに向けられている。
女は「脱皮」と言った。とすれば、男が引き上げたものは何かの抜け殻なのか。形からすればヘビのようなものだろう。
「いるのか?」
男の口調は、冷静な女に対して、少し緊張を含んでいた。この巨体でビビッているわけでもないだろうが。
男も女もしばらく無言でプールを見て回った。だが、これ以上の異変は発見されなかった。
「入ってきたプールの給水口から、また出て行きやがったかな?」
男はそう結論づけた。しかし、女の意見は違った。
「鹿島、こっち」
明らかに年下らしい女は、男を「鹿島」と呼び捨てにして指を鳴らした。人を呼ぶときのクセらしい。
特に呼び捨てにされたことを不快にも思ってないのか、鹿島は素直に女の傍らへ近づいた。
女は顎をしゃくって、プールサイドの床を示した。
その床はプールの水で濡れていた。その痕跡は監視台の所へと続き、さらにそこから出口へと向かっていた。
「ヤツは水から這い上がれるのか? 聞いてねえゾ!」
鹿島は驚きのあまり、つい声が大きくなった。しゃべってしまってから、慌てて口を押さえる。
「おい、カンナ」
それは女の名前だったろうか。
しばし思案した女──カンナは、ゆっくりと口を開いた。
「私もヤツが水から上がれるとは聞いてない。だから、これは犠牲者のものだと考えるのが妥当よ」
「な、なにィ?」
「誰かがこのプールで泳いでいたのならあり得るわ。これは最悪の展開になったわね」
「ま、マジかよ〜?」
鹿島は身体に似合わぬ情けない声を出した。カンナのほうが毅然としている。
「とにかく所長に連絡。急いで」
このとき、ちょうど午前零時。学生たちにとっては、夏休み最後の日は終わった。
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