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追跡者<CHASER>
#02.新学期の朝
今日から九月と言っても夏が終わったわけではない。熱帯夜は依然、記録的な日数を続けているし、外を歩くだけで汗がしたたり落ちて、喉が渇く。制服のシャツは肌に張りつくし、太陽にさらされたアスファルトはありとあらゆるものを溶かさんばかりに熱を発していた。もう、不快極まりない。
だが、今日から新学期だ。ダラダラと家で過ごすのも悪くはないが、見知った顔たちに再会するのも楽しいものである。特に、一方的に好意を寄せている異性がいればなおさらだろう。
森里高校の一年、矢代圭祐も待ちに待った新学期だった。なぜなら、同じクラスの城戸倉香里に会えるからだ。
圭祐が香里に初めて会ったのは入学式の日。いわゆる一目惚れだった。
香里はクラスで目立つ方ではないが、お嬢様風の容貌で、なかなか可愛い。おまけに性格の良さも申し分なく、どちらかといえば優等生の部類に入る。そんな香里を同じ教室から眺めているだけで、圭祐は幸せな気持ちになった。そのせいか、結局、一学期の間は香里とまともに会話もできなかったが。
だが、教室にいる香里よりも、もっと魅力的な彼女の姿を圭祐は知っている。それは部活で泳ぐ水着姿の香里だった。
朝練や放課後の練習で泳ぐ香里は、圭祐にとってまた格別であった。もちろん、圭祐も男だ。異性の対象としても香里を見ている。だが、それ以上にプールで泳いでいる香里には、何か惹きつけられる魅力があった。邪な心も持たず、ただ何時間もその姿を眺めていられる。まるで人魚に魅了された船乗りのように。
だから学校の行きと帰りに、正門とは反対側になる体育館となりの室内プール脇を通るのが圭祐の日課になっていた。今日は始業式だが、水泳の名門である森里高校水泳部に練習は欠かせない。圭祐は香里に再会できることに胸を弾ませながら、室内プールへと向かった。
室内プールの近くまで行くと、音のこもったどよめきが聞こえた。どうやら室内プールかららしい。何事か起きたようだ。
圭祐が室内プールに到着すると、すでに数人のギャラリーがいた。二年生のエース、殿村庸司目当ての女子生徒ばかりだ。採光用に作られた壁一面のガラス張りから中が覗けるので、よく追っかけたちが集まるのである。圭祐はその後ろから中を覗いた。
ちょうど女子の背泳ぎが行われていた。背泳ぎなら香里が泳いでいるはずだ。圭祐は香里を探した。
いた。第六コース。先頭だ。身体ひとつ分、いや、ひとつ半か、リードしている。
どよめきの原因は香里であることが圭祐には分かった。これまで香里が泳いでいるところを幾度となく見ているが、今日のように先頭を泳いでいることはない。『二軍』ならまだしも、『一軍』同士の競泳となれば、香里は後ろから数えたほうが早いからだ。彼女が夏休みの間に成長したことも考えられるが、それを見守っている水泳部員たちの反応を見ると信じられないといった様子だった。
「城戸倉、スパート!」
コーチの張り上げた声が響いた。それに応えるように、香里はグングンと後続を引き離しにかかった。もう他の者たちは戦意を喪失している。それほど香里のスピードは圧倒的だった。
ゴールと同時に、ストップ・ウォッチを計っていた生徒の腕が大きく振られた。思わずオーバーアクションをするほど興奮していたのだろう。
「1分04秒02!」
計測係が告げると、再び室内プールは歓声に湧いた。それがどのくらいすごいタイムか圭祐には分からなかったが、コーチを初め、水泳部員たちの顔が驚愕に満ちていたのを見れば、何となく想像は出来る。
「すげぇ、百メートルを四秒台かよ!」
「時計、壊れてんじゃねえの?」
「これなら全国大会に出ても通用するわ!」
各々が口々に騒いでいる。圭祐はなんだか自分事のように嬉しくなった。
ざわめきの中、香里がプールから上がってきた。水中眼鏡を外し、水泳キャップを脱ぐ。その表情はいつもと変わらぬ香里だった。
しかし、なんとなく大人っぽくなったようだと圭祐は感じた。もちろん、香里が夏休みにヴァージンを捨てたことなど知るはずもない。
仲間の女子たちが黄色い歓声を上げて香里を取り囲む。香里はちょっと戸惑ったような仕草を見せながらも、笑顔で応えていた。
圭祐は、香里がさらに遠い存在になってしまったような気がした。
香里はシャワーを浴びて更衣室に戻った。それでも全力で泳いだせいか、まだ身体が火照るような感じがしていた。
そっと下腹部の辺りに手をやる。
あれは夢だったのだろうか。
昨夜、忍び込んだ室内プールで得体の知れないものに襲われた。そいつは確かに香里の膣口から体内に入り込んだはずである。激痛のあまり、少しの間、気絶してしまったほどだ。
気がつくと、溺れもせずプールに浮かんでいた。それからは頭が朦朧とした状態で定かではないが、なんとか家に帰り着いたらしい。目が覚めて、親に昨夜の出来事を話そうとも思ったが、下腹部に鈍い痛みがあるくらいで、他に異常はなさそうだった。母親には泣いて帰ってきたことを蒸し返されたこともあり、朝食も半ばで家を出た。
身体に変調が起きたのは登校途中である。真夏日の影響もあったろうが、歩くだけで息が切れた。喉が渇き、発汗も目立った。まるで体温が急速に上昇したようだった。学校に到着する頃は息も絶え絶えで、身体を冷やしたい願望に駆られた。
水泳部は辞めるつもりだった。実際、朝練には間に合わない時間に家を出てきた。練習に出れば殿村がいる。昨日の失恋の痛みが疼き出す。だが、身体を冷やすにはプールに入るのが手っ取り早い。とうとう、その誘惑に負けた。
朝練に遅刻したことをコーチに叱られた。だが、意識は水に入ることだけにいっていて、何をどう怒られたのか記憶にない。殿村の姿も見た気がするが、漠然としか憶えていなかった。記憶が甦ってくるのはプールに入った瞬間だ。あれほど水が心地良いと思ったことはなかった。身体の火照りはおさまり、全身が潤い、まさに生き返ったような気分だった。
水を得た魚、という言葉があるが、今朝の香里はまさにそれだった。
練習の終盤、いつものようにタイム・アタックが行われた。『一軍』ぎりぎりの香里にとって、それは憂鬱な儀式だった。目標のタイムをクリアできなければ、『二軍』へと落とされるからだ。だが今日に限っては、そんな不安は微塵もなかった。もちろん、殿村の仲がダメになって、水泳部に未練がなくなったこともある。しかし、それよりも香里には今までにない自信があった。早く泳げる自信が。
ホイッスルの音と同時にスタートを切った香里のスピードは、本人も驚くほどのものだった。見慣れた天井の光景が、これまで体感したことないスピードで流れていくのをゴーグル越しに見て、自分はどうしてしまったのかと自問した。が、それも最初の二十メートルくらいで、あとは泳ぐのが面白くて仕方がなかった。腕を回せば進んだ。足を蹴り上げるようにすればスピードが増した。となりの泳者を置き去りにしていく。今まではなかったことだ。
仲間たちの驚愕に満ちた歓声が聞こえた。それが自分に向けられたものだと香里には分かっていた。当然だろう。昨日まで実に平凡なタイムでしかなかった香里が、一夜にしてエース級の泳ぎを見せているのだから。それは香里を恍惚とさせるに充分な歓声だった。
これまで華やかな舞台に立つことなどなかった。香里だって、それを夢見たことはある。でも、それは夢だ。夢でしかあり得ない。夢は現実の裏返し。それを共有できるのは一部の特別な人だけ。
だが、ついに香里にもそのときがやってきた。
私は泳げる。早く、もっと早く!
百メートルなど、あっという間だった。プールから上がると仲間たちに囲まれ、口々に「すごい!」を連発された。何もなかったかのように装ってはいたが、悪い気はしない。何か別の自分を発見したような気分だった。
香里が水着から制服に着替えた頃、更衣室に残っている者はいなかった。シャワーを少し、のんびりと浴びてしまったようだ。今日は始業式なので、みんな体育館に集合しているはずだ。香里も急いで体育館に向かおうとした。
更衣室のドアを開けようとした香里だったが、あにはからんやドアはびくともしなかった。ノブをガチャガチャとやってみる。ノブは回るものの、ドアはまるで固まってしまったかのようだ。
女子更衣室の鍵の管理は厳重だ。貴重品はもちろん、下着泥棒などという手合いも侵入する恐れがあるので、当番で決められた者が職員室から鍵を借り受け、開閉を行う。しかし、更衣室の内側からも鍵の開閉は出来るようになっているので、当番が香里の存在に気づかずに施錠しても脱出は可能なはずだ。ところが問題の鍵はかかっていなかった。
どうやらドアの外で動かないように細工されているようだ
「開けてください! 誰か、誰かいませんか!?」
香里は更衣室のドアを叩きながら外に呼びかけた。女子更衣室は室内プール施設の中に設けられている。校舎とは離れているので、偶然、誰かが通りかかってでもくれないと助けてもらえないだろう。
すると思いがけず、外から足音が聞こえた。誰かが近くにいてくれたらしい。
「あの〜、更衣室のドアが開かないんです。外から開けてもらえませんか?」
香里は外にいる人物に呼びかけた。
だが、返事は含み笑いという、意外な形で返ってきた。
「城戸倉さん、あまりいい気にならないで欲しいわね」
女の声がした。どこかで聞いたことのある声だ。
「ど、どなたですか?」
香里はおそるおそる問い返してみた。
だが、声は無情に突き放した感じで、
「誰でも構わないわ。それより、少しくらい泳ぎが上達したからって、いい気にならないで欲しいのよ」
「そんな私、いい気になんか……」
見透かされているような気がして、香里はひるんだ。だが、だからといってこんな仕打ちをされていいはずがない。
「出してください! お願い、出して!」
「イヤよ。ここで少し反省するといいわ」
「そんな……」
「殿村くんに近づいた報いも、ここで受けなさい」
「!」
知っている。このドアの外にいる人物は殿村と自分の関係を知っている。
香里と殿村がつき合いだしたのは夏休みの大会が終わってからだ。水泳部でも夏休みの練習に参加していない『二軍』の部員では知りようがない。頻繁にデートしているうちにどこかで目撃された可能性もなくはないが、それよりは夏休みの練習を一緒に過ごした『一軍』の部員だと考える方が妥当だ。練習中は恋人同士であることを見せないようにしてきたつもりだったが。
「まあ、放課後になれば誰かが練習に来るでしょうから、最悪、それまでの我慢よ。じゃあね」
「待って! ここから出して!」
香里の懇願に、ドアの外の人物は答えなかった。足音が遠ざかってゆく。
香里はずるずると、その場に座り込んだ。相手は本気だ。ちょっとしたいたずらなどではない。
閉じこめられたという実感が涙を込み上げさせた。
閉じこめた人物が言う通り、今、助け出されなくても、放課後には誰か来るだろう。今日は始業式だから学校も早く終わる。昼前には助けてもらえるはずだ。
だが、これほど惨めなことはない。明らかに陰湿ないじめだ。それに屈して、為す術もない自分が何より嫌だった。
一体、誰がこんな事をするのだろうと、香里はもう一度考えた。
おそらくは水泳部の先輩の誰かだろう。他校の部活動同様、森里高校水泳部における先輩後輩の上下関係は厳しい。特に女子は、廊下で上級生とすれ違うときでも、下級生は立ち止まって会釈しなければならないほどだ。男子はざっくばらんな付き合いをすることもあるが、女子にとって縦の序列は絶対だった。
これまで香里は上級生に目をつけられたことがない。最低限の礼儀は守ってきたし、普段から決して目立つ方ではなかったからだ。それが殿村とつき合っていることがバレた途端にこの仕打ちだ。殿村に好意を寄せている人物に違いない。
そう言えば、と香里は思い出していた。思い当たる人物がいる。三年の中原怜子だ。
怜子は女子水泳部の三年で、殿村と同じくバタフライの選手だ。大柄な身体を生かして、ダイナミックなフォームでの泳ぎを得意とする。性格はキツい方で、天才肌なところがあり、水泳部でも同級の友人は少ない。そのために、実力は部でも抜きん出ているにも関わらず、主将ではなく副主将になったという経緯は伝わってきている。しかし、美人であり、すらりとした長身を持っているので、後輩の女子の一部に人気があることは確かだった。ただ、香里はなんとなく近寄り難い印象を受けており、一度も話したことがなかったが。
この怜子と殿村の間に、一時、つき合っているウワサがあって、香里自身、やきもきした覚えがある。殿村のカノジョになってから本人に聞いたことがあるが、どうやら真相は怜子の方が一方的にイレ込んでいたらしく、交際にまでは至らなかったらしい。だが、怜子は諦めきれなかったのではないだろうか。もちろん怜子がやったとは断定できないが、そう考えればつじつまが合う。
怜子はほとんどの三年生同様、夏の大会を最後に退部したはずだ。香里と怜子の上下関係は切れている。いや、それ以前に殿村と自分の関係を知ったからといって、こんな所に閉じこめられるいわれはない。それに、香里はもう殿村とは終わっているのだ。理不尽すぎる。
そう考えていると、いつの間にか悲しみが怒りに変わっていた。なんとか脱出できないものだろうか。香里は周囲を見渡してみた。
ドアはダメ、窓ものぞきを考慮して厚い磨りガラスがはめ殺しになっている。閉め切られた室内の温度は外よりも高い。
先程、プールで泳ぎ、シャワーを浴びて、充分にクールダウンされた香里の身体だったが、室内の温度上昇に伴って、再び熱を帯びてきたようだった。倦怠感から、その場に座り込んだまま動けなくなりそうだ。思考能力も低下してくる。
助けを呼ぶなら、まだ意識のある今のうちだろう。誰かが近くを通ってくれることを祈って。
「誰かーっ、誰か助けてっ!」
香里は声を限りに叫んだ。ドアも叩いた。渾身の力を込めた。
こんなときに、昨夜の室内プールでの出来事を思い出した。昨日は助けを呼んでも誰も来てくれなかった。今日は来てくれるのだろうか。
不安を振り払うように助けを求めた。一声発するたびに、またドアを一度叩くたびに、体力は確実に消耗していく。しかし、やめてしまえば発見してはくれない。また涙がこぼれそうになった。
「そこに誰かいるの?」
女の声がした。香里は最初、幻聴かと思った。それでもすがる思いだった。
「はい、閉じこめられているんです! 助けてください!」
「待って。今、開けてあげるわ」
幻聴などではなかった。本当に誰かが助けに来てくれたのだ。
ドアの外ではガタガタとした音が聞こえた。ドアを固定しているものを除去しているのだろう。
作業はさほどかからず、ドアが開けられた。
ドアを開けたのは白衣を羽織った女性だった。校内では見たことのない女性だ。何よりスゴイのは白衣の下の服装で、目にも鮮やかな黄色のボディコン・ミニを着込み、すらりと伸びた脚を露出している。香里は行ったことがないが、イメクラにでもいる保健の先生といった感じだった。
「まったく、いまどきの高校生って、どうしてこう、しょうもないことをするのかしら? 身体は一人前でも、やることは子供なんだから。──あなた、大丈夫?」
女は座り込んだ香里を覗き込むように屈み込んだ。下着が見えてしまう、などと香里の方が心配するほど、スカートの裾が持ち上がる。
「だ、大丈夫です……」
なんとなく香里の方が慌ててしまう。立とうとしながら質問を口にした。
「失礼ですが、この学校の人ですか?」
「ええ、今日からね。生物教諭の橋本先生が昨夜、盲腸で緊急入院されたものだから、急遽、本校に赴任したの。一条カンナよ、よろしくね」
「よ、よろしくお願いします……」
カンナに手を差し伸べられて、香里はそれをつかんで立とうとした。しかし、不意に意識が遠のき、カンナの方へ倒れ込むようにして気を失った。
「おっと」
とっさだったにも関わらず、カンナはガッチリと──驚くべき事にピンヒールを履いたままで──香里を受け止めていた。
「大丈夫、ちょっと?」
すでに香里は脱水症状のようになっていて、答えられるような状態ではなかった。
カンナは肩をすくめて、
「やれやれ、赴任初日から細々したことに巻き込まれちゃったわねぇ」
と、嘆息した。
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