「間もなく終点、坂時です。お降りの際は──」
車掌のかったるそうなアナウンスが、誰もいない電車内にひびいた。
始発駅を出たときには、夏休みが始まったこともあって、行楽地へ向かう人で座る場所もないほど埋め尽くされた二両編成の列車も、いくつかの駅に止まるたびに乗客が下車し、今はアヤネ一人になってしまっていた。
一週間前、アヤネの両親が交通事故に巻き込まれ、亡くなった。
葬式は親戚のおじさんが取り仕切ってくれて無事にすまされ、一人取り残されたアヤネは、坂時村に一人で住む父方の祖父「松じいちゃん」に引き取られることになった。
「まあ、いろいろ忘れるには、坂時はいいところだから」
松じいちゃんは、アヤネの頭をぽんぽんと叩いて笑った。
「時間がゆっくり過ぎていくところだ。時に、遅れすぎることもあるくらいにな。だが、すぐに追いつけるから、安心おし」
もうすぐ十五になる娘を相手にするには、かなり子供っぽい扱いだったが、小さいときからじいちゃんが大好きだったアヤネは、それが松じいちゃんなりのかわいがり方だと知っていた。
両親が使っていた物のほとんどは、親戚や近所の人に形見として配ったり、処分したりした。その他の、中学の教科書やノート類、そして着替えなど、アヤネの身の回りのほとんどは宅急便で先に送ってある。だから、アヤネが電車内に持ち込んだ荷物は、大きなスポーツバッグ一つ分であった。しかし、それでも充分に重い荷物だった。
その重い荷物を抱えながら、アヤネは坂時駅へ降り立った。
「松じいちゃん?」
無人駅の改札を抜けたアヤネは、待合室を見回してみたが、人影が見当たらない。
「まだ来てないのかなあ」
アヤネは待合室に作り付けられた木製のベンチにバッグをおろし、ふうっ、とため息をついた。
両親がいなくなった実感はまだわかない。いつもの夏休みと同じ、松じいちゃんの家に遊びに来ているだけのような感覚だ。
「でも、もう家には帰らないんだよね……」
線路の向こうに、アヤネの帰る場所はない。いつも夏休みが終わって、松じいちゃんと別れるときは、「帰りたくない」とだだをこねて、両親や松じいちゃんを困らせていたものだが、今は無性に帰りたい気持ちである。
もし、松じいちゃんが来るまえに、次の電車が来てしまったら。アヤネの財布に、切符を買うだけのお金が残っていたら……。
「だめよ、アヤネ。そうしないために、ギリギリのお金しか持ってこなかったんだから」
実際、アヤネの財布はもうほとんどからっぽだった。
チャリ……
スポーツバッグから、青い石のペンダントが一つ、床に滑り落ちた。
「あっ、お母さんのペンダント」
それは、いつもアヤネの母親がしていたペンダントだ。丸く大きなサファイアが台座におさめられ、周りに小さなダイヤモンドがちりばめられている。
「お母さん、きれいねー、アヤネもほしー」
外へ出るときにいつも母親がつけていたペンダント。アヤネはそのペンダントが大好きで、小さい頃からよく、そのペンダントが欲しいとねだった。
「アヤネが大きくなったらあげるね」
母はそう言って何度もアヤネと指切りをしたものだ。
「お母さん……」
アヤネはペンダントを拾い上げた。その途端に、涙がじわっと溢れて来る。
「いけない、いけない。泣かないって決めたんだっけ」
アヤネは慌てて涙をふき、ペンダントをポケットに押し込んだ。
西に傾き始めた太陽が、窓から光を投げかけている。
ジージージー……シュワシュワシュワ……
あちこちの木から、様々な蝉の声が聞こえて来た。
「あつぅい…」
アヤネは待合室の窓から外を眺めた。何度も遊びに来た田舎。でも、今日からはアヤネの故郷になる村だ。
外には、「佐々木商店」という和菓子屋とパン屋が一緒になったような小さな店が一つ、そして、その佐々木商店の前に立つ、バスがいるのを見たことがないバス停が一つ。あとは駅からまっすぐ縦に伸びる一本道の両端に、ただの畑と森が広がっている。
一匹の太った白ネコが待合室にやって来て、アヤネを見つけてギョッとして立ち止まった。
「あら、こんにちは」
ネコはどちらかというと嫌いではない。退屈していたアヤネは、スポーツバッグのポケットから食べ残しのお菓子を出した。
ネコは袋のガサガサと言う音を聞きつけ、興味津々でベンチに昇って来た。手の上にお菓子を乗せて差し出すと、ネコは一瞬、においを嗅いでから、お菓子をくわえた。
「おいしい?」
アヤネはお菓子を食べ始めたネコに話しかけ、自分もお菓子をつまんだ。
アヤネとネコはお菓子を分け合いながら食べた。やがて、お菓子がなくなると、白ネコはその場に座り込んで毛づくろいをし始める。
西日はますます傾いて、待合室の半分程を照らすようになっていた。
「おそいなあ、おじいちゃん」
アヤネはネコの毛づくろいを眺めるのに飽きてきた。ふと、もう一度、窓の外を見てみる。驚いた。
「あれ?」
さっきまであったはずの佐々木商店もバス停もなくなっていたのだ。
「何よ、これ?」
目をこすって、もう一度、外を見ても、そこには何もない。不安になって、待合室の外へ出てみたが、やはり同じだった。
「ど、どうなっているの?」
振り向いて待合室を見ると、ネコは知らん顔で丸くなってうたた寝を決め込んでいる。アヤネは思わず駅舎から飛び出して、バス停があった辺りへ駆け寄った。しかし、その場所にバス停が立っていたという痕跡は見当たらない。
すっかり頭が混乱していると、短パンに半そで、麦わら帽子をかぶった十歳くらいの男の子が、虫採り網を持って道の向こうから駆けてきた。
「ねえ」
声が届くところまで来て、アヤネが声をかけると、男の子は驚いたという風な顔をして立ち止まった。
「ここに、佐々木商店ってあったよね?」
「佐々木? 知らへんなあ」
男の子は首を傾げた。
「えっ、じゃあ、バス停は?」
「ばすてー? なんだそれ?」
「……ここ、坂時村だよね?」
「うん、そうだけど。……あんた、一体何してるさ、こんな野原の真ん中で」
「へ?」
振り向くと、それまであったはずの駅や待合室が線路もろとも消えていて、ただの野原になっていた。