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濛々たる砂煙とともに、地響きに似た音がジェリコたちのところまで届くようになった。ラクダが砂漠を駆けている音だ。それもひとつではない。複数の蹄音が重なって聞こえた。
「あの速度での移動――のんびり旅をしている連中というわけではなさそうだな」
ジェリコはラクダに乗った一団を確認し、警戒心を強めた。
「おそらくは《奇蹟の町》からの追手に違いない」
ラクダの姿のまま、マンティコアが断じる。ナギもこれまでになく怯えた様子を見せていた。どうやら相手は招かれざる客らしい。
「一度、手に入れた“奇蹟”の力は簡単に手放せない、というわけか」
皆まで事情を聞くまでもなく、ウィルはこの状況がどのようなものなのかを悟ったようだった。
予測した通り、やって来た八人の男たちは、ジェリコたちの前で手綱を引くと、ラクダを止めた。シャムール王国特有のターバンと白に統一された民族衣装を着ており、浅黒い肌を極力さらさない。全員が新月刀<シャムシール>と呼ばれる刃が湾曲した刀剣を腰に差していた。
「やっと追いついたぜ」
「ナギよ、随分と大それたことをしてくれたな」
八人のうち、四人が示し合わせたようにラクダから降り、一向に近づいた。どうやらナギとは面識があるらしい。ただし、友好的な態度ではなく、どの顔も堅気には見えなかった。
ジェリコは自分の短剣<ショート・ソード>に手をかけながら、じりじりと後退する。ナギは硬い表情のまま、ラクダに姿を変えているマンティコアにしがみつくようにしていた。
「ねえ、みんな。もう爺様を解放してあげて! 爺様は自分がもうすぐ死んでしまうのを悟って、最後くらいは自由になりたいと思っているだけなの!」
ナギが追手である男たちに懇願した。慈悲を請う少女に、砂漠の無頼漢たちは下卑た笑いを浴びせる。
「バカ言ってもらっちゃ困る。誰がそんなことを認めるってんだ!? 《奇蹟の町》から肝心の“奇蹟”がなくなっちまったら、これからオレたちはどうやって暮らしていくってんだよ!?」
「そうとも。オレたちとあの町には“奇蹟”が必要なんだ。それを目当てに、おめえみてえなバカな連中がわざわざ遠方から訪れ、有り金すべて、涙まで流しながら喜んで寄進していくんじゃねえか。一度、金を差し出せば、骨までしゃぶられるとも知らずによぉ、ハッハッハッ! 今さら、もう“奇蹟”は使えません、なんて言えるか、バーカ!」
「なるほど。まるでアコギな新興宗教のようだな」
追手たちの前に、音もなく美貌の吟遊詩人が割って入った。まるで黒い影によって遮られたかのようだ。思わぬ邪魔者の登場に追手たちはギョッとする。
「何者だ、てめえ!?」
「オレの名はウィル。たまたま同行させてもらっている吟遊詩人だ」
「吟遊詩人だと!? ふざけやがって!」
砂漠の男は血の気が多い。些細なことで決闘沙汰になるのは日常茶飯事だ。この男たちも大人しく話し合いに応じ、事を穏便に済ませられるような連中ではないらしい。
「お、おい、ウィル! いくらなんでも相手は八人もいるんだぞ! 剣を交える前から結果は目に見えているだろうが!」
ジェリコは慌てて、相手を挑発した優男の吟遊詩人を引き下がらせようとした。彼らに、マンティコアやナギとは関係がない、と言い通せば、見逃してくれるかもしれない、という打算が透けて見える。
「では、お前は恩を仇で返すつもりか?」
「うっ……」
ウィルの冷たい視線がジェリコに突き刺さる。魔法で治療してくれたマンティコアと、それを頼んでくれたナギ。剣の柄を握りしめたまま、ジェリコは口を真一文字に結ぶ。
そのような臆病者の決断を待たずして、黒衣の吟遊詩人は動いた。
「とりあえず、ここは任せて、お前たちは行け」
ナギを片手でひょいっとラクダに姿を変えているマンティコアの背に押し上げると、その尻をぴしりと叩いた。それを合図に、ナギを乗せた偽物のラクダは逃げ出す。あとの敵は引きつけるつもりだった。
「ぐっ……あああああっ!」
ところが、いくらも距離を走らぬうちに、マンティコアは急に苦しみだし、堪らず前のめりに倒れてしまった。その煽りで、乗っていたナギの身体も砂漠の上に放り出されてしまう。一瞬、何事が起きたのか、多くの者たちが理解できなかった。
「そうか……《制約<ギアス>》か」
ただ一人、ウィルだけがマンティコアの身に降りかかった災難を見抜いていた。
この場から逃げようとした刹那、《奇蹟の町》から逃げないようにかけられた魔法の呪い――《制約<ギアス>》が発動したのである。その力によって、マンティコアは逃亡することを妨げられ、命令に逆らった罰として、何らかの目に見えない制裁が加えられたに違いない。それも強靭な魔獣ですら耐え難い、筆舌に尽くせぬ激痛が。
思いがけない事態の発生に、誰もが一瞬動きを止めた。これを好機と捉えたのがラクダに跨ったままの追手たちで、素早い判断の下、倒れたマンティコアを取り囲むべく行動に移す。決死の逃亡はここで失敗に終わってしまうのか――そう思われた。
「ガッツァ!」
ウィルの唇から聞き慣れぬ発音の言葉が迸ったのは、そのときである。
次の瞬間、追手が乗るラクダたちの足下が音もなく沈んだ。口を開けた蟻地獄へ滑り落ちるように、四人と四頭は突如として出現した砂穴の底へ呑み込まれそうになる。
「うあああああっ!」
ラクダはもちろんのこと、乗っていた者たちもパニックに陥った。懸命に這い上がろうと、伸ばした手が宙を掻く。
「貴様、魔法使いか!?」
仲間の窮地を目撃した追手の一人が、ウィルの発した言葉が魔法の呪文だと気づいたらしい。そう、これは白魔術<サモン・エレメンタル>――大地の精霊<ノーム>に働きかけ、マンティコアに殺到しようとした敵の足場を削り取ったのである。
その場面を目の当たりにしていたジェリコも驚きのあまり動けずにいた。衝撃を覚えたのは信じ難い光景よりも、このウィルという男がただの吟遊詩人ではなかった事実だ。
「ええーい、奴から狙え! 奴に魔法を使わせるな!」
戦力の数的不利など、魔法ひとつでいとも簡単に覆せる。戦場において、魔法使いの力は絶大だ。それこそが人々に恐れられる所以である。
厄介な魔法を封じるには、相手に呪文を唱えさせないよう、接近戦で間髪を入れずに攻め立てるしかない。ラクダから降りていた最初の四人は、一斉にウィルへ襲いかかった。
だが、それよりも美しき吟遊詩人による呪文の詠唱の方が速い。
「ヴァイツァー!」
今度は風の精霊<シルフ>が盛大に砂塵を舞い上げた。まるで吹き荒れる砂嵐の只中に取り残されたときのように、まともに目を開けていることが出来ず、斬りかかろうとした男たちの出足が途中で止まったのも、むべなるかな。
続けざまに、
「ディノン!」
光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>によって作り出される魔法の矢――魔導光弾<マジック・ミサイル>が、棒立ちになり、格好の標的となった男たちを正確無比に撃つ。
「ぐあああっ!」
瞬く間に、一挙四人が戦闘不能と化した。吟遊詩人ウィル、恐るべし。
「今のうちだ、マンティコアを連れて逃げろ」
ウィルは何もせずに茫然と立ち尽くしているジェリコに命じた。
見たこともない戦いに、つい見入ってしまったジェリコであったが、ウィルに言われて、ようやく自分がしなくてはいけないことを思い出す。まずは倒れていたナギを助け上げた。
「大丈夫か⁉」
「う、うん……何とか……」
ラクダの背の高さから落ちたとはいえ、砂地が多少のクッションになったのだろう。ジェリコが見たところ、ナギに目立った怪我はなさそうだ。
次はマンティコアである。
「おい、しっかりしやがれ! 動けるか⁉」
発動した《制約<ギアス>》による制裁の影響か、いつの間にかラクダの変身が解け、元の姿に戻っていたマンティコアをジェリコは叱咤した。こちらの扱いは、同じ命の恩人でもナギに比べてぞんざいだ。
「余を連れて行ってくれ……頼む……」
漏れてきたのは、およそ魔獣らしからぬ弱々しいものだった。これこそマンティコアすら脅かす、《制約<ギアス>》の効果なのだろう。肉体的なものよりも、むしろ精神的なダメージの方が大きいように見える。魔獣をも服従させる絶対的な呪い――
「お、おい、しっかりしろ! 逃げようったって、アンタの場合は自分で立ってくれなきゃ、オレたちにはどうしようもないんだぜ」
成獣のライオンよりも大きな四肢を持つマンティコアである。ジェリコとナギの二人がかりだって運べやしない。ウィルの魔法でもあれば別だが、今は追手を防いでいる最中だ。
「……ナギ……ナギ!」
マンティコアは必死に少女の名を呼んだ。すぐにナギが駆け寄る。
「爺様!? あたしはここよ!」
「余を連れて行くのじゃ……早く……!」
「分かってるわ」
ナギは痩せっぽちの身体でマンティコアを支えた。もどかしいくらいのスピードだが、この場から離れようともがく。
「待て! 貴様たちを行かせはせんぞ!」
ラクダを失った一人が、砂穴に呑み込まれる寸前、辛うじて乗り捨てることに成功したらしく、逃げようとするナギたちに追いすがろうとしていた。新月刀<シャムシール>の湾曲した刃がギラリと陽光を跳ね返す。
「よせ!」
ナギたちの危機に、ジェリコの身体は自然と動いていた。短剣<ショート・ソード>を抜き、卑劣な斬撃を間一髪のところで阻止する。追手の凶刃を受け止めた。
「お、お兄さん!?」
「オレに構わず行け! 早く!」
追手を一人引き受けながら、ジェリコは先に行くようナギを促す。
とはいえ、正直なところ、ジェリコはあまり剣術が得意ではない。昨日、襲われたときも、二人を斃せたのはとにかく必死だったからで、あれはもう二度とない僥倖であったと言ってもいいだろう。しかも今は体調が万全ではなく、いつ傷口が開くかも分からない。
その証拠に両者の白熱した鍔迫り合いは、徐々にジェリコが押される展開に持ち込まれた。一度でも後退すると、そこからの挽回は困難だ。ジェリコの額を大量の汗が伝う。
「ぐっ……くうっ……」
「貴様、どうして我らの邪魔を……!?」
「そ、それは……」
「あの魔獣を連れ戻すためなら手段を選ぶな、とデルモザード様の命令もある。貴様、本当に殺すぞ!」
「――っ!?」
相手に押し込まれているうちに、不意にジェリコの体重をかけた足が沈み込みそうになり、思わず悲鳴を上げそうになった。
砂漠は決して平坦ではない。吹き寄せる風の方向によって、小高い砂丘を作り出している場所もあれば、クレーターのように大きく落ち窪んだ場所もあり、起伏に富んでいる。
いつの間にかジェリコは砂丘の頂上へと追い詰められていた。背後は巨大な見えざる手によって抉り取られたようになっていて、もう後がない。もちろん、落ちても砂漠なので死にはしないだろうが、そのまま這い上がることが出来ず、この戦闘からの脱落は必至だ。
「ま、待て……これ以上は……!」
「問答無用!」
相手が体当たりをするように突き落そうとした瞬間、偶然の賜物か、ジェリコは自らバランスを崩し、後方へ倒れ込んだ。そのままジェリコだけが転落するはずだったのに、駄目押ししようとしていた相手の男まで巻き添えを食ってしまう。
「うわあああああああっ!」
二人はもつれ合うように上下を激しく入れ替えながら、急峻な砂漠の丘を転がり落ちた。
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