[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]
いつの間にか日が傾きかけていた。また砂漠の一日が終わろうとしている。
「お兄さん、大丈夫かなぁ?」
ナギは首を長く伸ばしながら、逃げてきた東の方向にジェリコの姿を捜し求めていた。
ウィルの活躍のおかげで、マンティコア――今は再びラクダに変身している――とナギは追手に捕まらずに済んだ。ところが、ただ一人、ジェリコとだけは混乱のどさくさの中ではぐれてしまったのである。そのことに関し、薄情ながらウィルもマンティコアも気に留めなかったが、ナギだけは異を唱えた。どうしてもジェリコのことが心配だ、と。純朴な少女の訴えに、こうして一行は西への移動を中断し、しばらくの間、待つことにした。
とはいえ、追手もまだ諦めたわけではないだろう。いつまでも悠長にこうしてはいられない。それに、うまくジェリコが切り抜けることに成功していたとしても、また魔獣連れの一行と行動を共にするかどうかは別の問題だ。むしろ、トラブルに巻き込まれる危険性を考えれば、このままいずこかへ立ち去った方が賢明だとも考えられる。
「あの追手は《奇蹟の町》の連中だな?」
ナギがジェリコを待つ間、ウィルはマンティコアに尋ねた。さっきは追手との遭遇の際、《制約<ギアス>》の呪いが発動し、かなりのダメージが肉体的にも精神的にも及んでいたが、すでにそれも回復したのか、何ともないように見える。老いた魔獣は、吟遊詩人の質問にうなずいた。
「左様。町は奴らが牛耳っている。どうしても余を連れ戻し、また“奇蹟”を売り物にしたいのじゃろう。もちろん、こんな醜い怪物が“奇蹟”を起こしているとは、誰も想像していないだろうが。このカラクリを知っているのは、デルモザードという男を筆頭にした、町の一部の連中だけじゃ」
「デルモザード……それが連中のリーダーか」
「主謀者というよりは、指導者と呼んだ方がいいかもしれん。表向き、そのデルモザードが“奇蹟”を起こしていることになっておる。ただカリスマ性を持つだけの男ではないぞ。奴は砂漠の民として屈強な戦士であるし、それとは別に特殊な能力を持っているとも聞く」
マンティコアの言葉が気にかかり、ウィルは眉根を寄せた。
「特殊能力? 魔法ではないのか?」
「余が見たところ、奴からは魔法の素養を感じない。その他の異能力じゃろうな。――お主、異能者<ミュータント>という言葉を聞いたことがあるか?」
「ああ。魔法を用いずに、人間離れした能力を使う者のことだな。呪文の詠唱を必要としない“先天的な魔法使い”とも呼べる妖術師<ソーサラー>に似ているが、それとは別物だと、或る仮面の魔女から教えてもらったことがある。一説には魔物との血の交わりのせいだとも噂されているようだが」
「どうやらデルモザードは、その異能者<ミュータント>であるらしい。どのような力を持っているかは、さすがに余も知らんが、そのせいで周りの者たちが奴に大人しく従っているという」
「異能者<ミュータント>か」
それきりウィルは黙った。
「――あっ! あれ見て!」
突然、ナギが大きな声を上げ、ウィルたちを呼んだ。東の方角から、一頭のラクダに跨った何者かが、こちらへ向かって近づいて来るのが見える。
「きっと、あのお兄さんよ! 無事だったんだわ!」
喜びもあらわに、ナギがまるではしゃぐようにピョンピョンと飛び跳ねながら、両手を広げて「おーい!」と、こちらの位置を知らせた。すると小さな人影が手を振り返す。どうやらジェリコに間違いなさそうだ。追手に襲われて、死んだわけではなかったらしい。
「やれやれ。これでようやく出発できるな」
ラクダ姿のマンティコアが、よっこらせ、と立ち上がった。
「………」
ウィルは、強い悪運の持ち主である青年が合流しようとするのを黙って眺めていた。
「やれやれ。一時はどうなることかと思ったぜ」
乗って来たラクダから降りると、ジェリコは疲れた顔をしていたが、少しだけ安堵した様子を見せた。ざっと見たところ、負傷はしていないようだ。
「お帰りなさい!」
旅の途中で「お帰りなさい」は適当ではない気がしたが、ナギの出迎えにジェリコは素直な気持ちで応じた。
「みんな、無事だったようだな。良かった」
「てっきり一人で逃げたものと思っていたぞ」
美しい顔のまま、ウィルが皮肉を込めた。ジェリコはしかめ面になる。
「オレを見くびるな。これでもアンタらのことを心配したんだぜ。無事に逃げ切れたのかって。だから、こうして連中のラクダを奪って、アンタらに追いついたんじゃねえか」
「よく追いつけたものだ」
「当たり前だろ。こっちはラクダに乗って来たんだから」
「そういう意味ではない。この広大な砂漠だ。一度はぐれれば、再び会えなくてもおかしくない」
「だって、ナヴァールって所を目指してたんだろ? そいつが西にあるのは分かってんだから、そっちへ向かえばいい。簡単な話じゃねえか」
そう説明するジェリコに、ウィルの鋭い視線が突き刺さった。こうなるとヘビに睨まれたカエルと一緒だ。
「確かに、普通に道があるところなら、西へ向かって辿れば追いつくのは当たり前だろう。だが、ここは目印となるものが少ない一面が砂の海だ。同じ西へ方角を取っているつもりでも、歩く者によって微妙に左右するもの。こうして砂漠のど真ん中で再会できる確率は低いとは思わないか? どうやらオレたちは、かなりの幸運に恵まれて、再び集うことが出来たらしい。これこそ“奇蹟”と言うべきだろう」
揶揄するようなウィルの口ぶりに、ジェリコは少なからず鼻白んだ。
この美しき吟遊詩人を甘く見てはいけない――
「あたし、バカだから、難しいことはよく分かんないけど、みんなが無事だったんだから、それでいいじゃん!」
気詰まりな雰囲気を嫌うように、ナギが殊更に大きな声を出した。少女の仲裁には、さすがのウィルも抗わない。
「分かった。そろそろ日が落ちる。その前に夜営できそうな場所まで移動しよう」
再びジェリコを加えた一行は、西に向かいながら、今夜の寝床となる場所を捜した。昨日のような横穴のある岩場にでも辿り着ければ一番いいが、そう都合よくは点在していない。テントがあればまだしも、寝袋や毛布だけで砂漠の夜を過ごすのは、魔獣であるマンティコアを除き、普通の人間には苛酷すぎる。何しろ、夜は急速に気温が下がり、一晩中、冷たい風にさらされるのだ。最悪、低体温症で死に至るだろう。
間もなく日没というところで、このまま休憩なしに進まなくてはいけないかと覚悟しかけた矢先、行く手にいくつかの光を確認することが出来た。
「あれは?」
「町か、或いは村……いや、どこかの隊商<キャラバン>か?」
ウィルによると、光の正体はランタンの明かりらしい。さらに近づくと、今まさに、かなり大所帯の隊商<キャラバン>が夜営のテントを広げている最中だと分かった。
「あの人たちに頼んで、泊めてもらえないかなぁ」
ナギの提案に対し、ウィルが一行の交渉役を買って出た。隊商<キャラバン>の隊長と直談判し、食事の提供とテントの中に入れてもらう約束を銀貨六枚で取りつける。二百人規模の隊商<キャラバン>で、テントに余裕があったのが幸いした。
「隊商<キャラバン>に接触しては、却って目立つのではないか? 奴らも余を連れ戻すことを諦めたわけではあるまい。あのデルモザードという男は執拗だぞ」
さすがにマンティコアはテントに入れないので、ラクダ姿のまま裏手に繋がれることになった。そのときに懸念を口にする。もちろん、ウィルだけに聞こえるようにして。
「これだけの規模の隊商<キャラバン>だ。仮に追手の人数があれだけではないにしろ、そう簡単に手出しはして来ないだろう。むしろ一緒にいることによって安全だと判断する」
「そうか。お主がそう言うのなら、それを信じよう」
「おーい、吟遊詩人のお方! こうして砂漠の真ん中で巡り合ったのも、きっと神の思し召し。一曲、何か聴かせてはもらえないだろうか?」
隊商<キャラバン>の商人の一人からリクエストがあった。分かった、とウィルは即座に応じる。それこそがこの男の本業だ。
美しき吟遊詩人は黒いマントの下から《銀の竪琴》を取り出した。竪琴として名器であるのは無論のこと、それそのものを美しい女神が弾き手となって優雅に奏でているかのように見える精緻に作られた意匠も、好事家たちを大いに喜ばせる芸術品として価値が高そうだ。聴衆として集まった目利きの商人たちからは、ほう、という感嘆が漏れた。
星が瞬き始めた夜空の下、ウィルは車座になった宴席で歌を披露した。その恐ろしいまでの美貌どおり、歌声にもこの世のものとは思えぬ透明感があり、哀切のこもった詩篇が心に沁みわたる。《銀の竪琴》の音色は、まるで聴く者の魂をそっと誘うかのように、自然と落涙を呼び覚ました。夕闇が迫る静寂の砂漠に流れる追憶の夜想曲<セレナーデ>。誰もが目を閉じ、瞼の裏に映った遠い故郷を懐かしむ。
「きれいな歌ね……あたし、バカだけど、それだけは分るよ」
「ああ……」
宴席に招かれたナギとジェリコも、ウィルの華麗な演奏に聴き惚れていた。人間離れした容姿はともかく、普段の素っ気ない言動からは想像も出来ない。なぜ、この男には、この神の御業としか思えない演奏と歌唱が可能なのか。どうやら至高の存在である神にとっても、このウィルという美の化身だけは特別な存在らしく、見境もなしに二物も三物も与えてしまったようだ。他の者たちからすれば、只々、不公平だと羨むしかない。
ウィルが歌い終えると、あちこちから感動の嗚咽とともに、盛大な拍手喝采が上がった。
「素晴らしい! こんな歌が、こんな砂漠で聴けるだなんて!」
「オレは猛烈に感動した! 飲め! 飲んでくれ! こいつはいいものを聴かせてもらった、オレたちからの礼だ! 今夜は心地よく酔おうぞ!」
歌を聴いた隊商<キャラバン>の商人たちから特産の果実酒<ナビード>が振る舞われた。多分、これから赴く卸し先への売り物だと思うのだが、そんなことはお構いなしに一樽開けてしまう。宴席はいつもとは比べものにならないくらいの盛り上がりを見せた。
ジェリコも遠慮なく果実酒<ナビード>を飲んだ。傷口には良くないのだが、商人たちが飲め飲めと勧めてくるのだから断るわけにもいかない。酒杯に注がれるがまま、次々と飲み干していく。隣ではナギが挽き肉の詰まった焼き饅頭を食べるのに夢中だった。
「おい、深酒はやめておけ。明日に触るぞ」
調子に乗って飲酒を続けるジェリコをウィルが近くまで来てたしなめた。早くもアルコールのせいで気が大きくなったジェリコは、命の恩人からの忠告に聞く耳を持たない。
「せっかく飲めと勧めてくれているんだ! 砂漠の男ってのは他人からのタダ酒を断らないんだよ! それに明日が何だって!? どんな支障があるってんだ!?」
すでに酔っているのか、ジェリコの目は座り気味だ。
「今日の追手がまた襲って来たら、どうするつもりだ?」
ウィルも果実酒<ナビード>を飲んでいるはずだが、まったくの素面<しらふ>に見える。色白の顔には仄かな赤らみすら表れていない。ジェリコはつくづく、この色男ながら融通の利かない朴念仁に腹立たしさを覚える。
「この砂漠で再び顔を合わせる可能性は限りなく低いと言ったのは、そもそもアンタだろう? 奴らがどうやってオレたちを追って来るって言うんだ?」
「奴らの中に“探索者<シーカー>”がいれば追跡は可能だ」
「シーカー?」
「或いは“猟犬<ハウンド>”と呼ばれることもある。目標と定めた人間などを追跡する専門家だ。彼らはわずかに残された痕跡から、目標の足跡を辿ることが出来てしまう。そういう技能を持った者のことだ」
ウィルの説明に、ジェリコの酔いはサッと醒めた。
「お、おい……その何とかってのが、奴らの中にいるって言うのか?」
「それは分らん」
急にはぐらかされた気がして、ジェリコは真面目な話ではなかったのかと、勝手に意気込んだ自分が馬鹿らしくなる。
「そういう奴がいるかもしれないから、油断は出来ない――という話だ。食事が終わったら、早く寝ておけ」
ウィルは席を立つと、どこへ行くとも告げず、去ってしまった。
人混みに紛れそうになる黒マントの後ろ姿を目で追いながら、ジェリコは喉を潤すため、飲みかけの果実酒<ナビード>を口にしたが、もう二度と気分よく酔えそうにはなかった。
[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]