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何事もなく夜が明けた。
一夜を共にした大所帯の隊商<キャラバン>と別れた一行は、再び西の地にあるというナヴァールを目指す。
相変わらず砂漠の地に降り注ぐ猛烈な日差しには情け容赦の欠片もない。踏みしめる砂も時間の経過に連れて温度が上昇し、不快感を伴う熱気が這い上ってくるかのようだ。そのような中を歩くのは、傷の癒えないジェリコにとって、まるで目的のない苦行を強いられているに等しい。
「ああ、やっぱり、やめときゃよかった」
「何を?」
昨日と同じく、ジェリコの前をマンティコアと一緒に歩いているナギが心配そうに振り返った。
「ラクダだよ」
戦利品だとジェリコがうそぶいていたラクダは、昨晩、一行が世話になった隊商<キャラバン>に売り払い、今後の旅に必要な携行食料や日用品に替えてしまっていた。そのため、ジェリコは現在、徒歩での砂漠横断を余儀なくされている。
「あれに乗ってりゃ、こんな苦労をしなくても済んだのに」
「その分、ラクダ用の水と食料も必要になるから、売った方がいいって、歌のお兄さんが言ったんだよね?」
ナギの言う通り、ラクダの売却を提案したのはウィルだ。それだけにジェリコは腹立たしい。
「ラクダに乗れば、早く目的地に着けるメリットだってあるのによぉ」
「今になって泣き言か?」
先頭を行く美しき吟遊詩人の耳にも聞こえたのだろう。こちらは振り向くことなく、ぶっきらぼうな態度だ。ジェリコはカチンと来る。
「別に泣き言ってわけじゃねえよ」
「どうせ、昨日の深酒がたたって、歩くのがしんどいのだろう。だから、程々にしておけと忠告したんだ」
「あれから、そんなに飲んでねえし、第一、それが原因でもねえ! ただ、ラクダがあれば楽だったのにってだけの話だ!」
「普通の旅なら、別にそれでも構わない。だが、今のオレたちは追われる身だ。あの追手たちも、砂漠を横断するのにラクダは必要、簡単に手放すはずがない、と考えるだろう。だとすれば、こちらの姿を見失った奴らはラクダの足跡を捜して、追いかけてくる可能性がある。そのような痕跡を残すのは、連中をわざわざ導いてやるようなものだ」
「それは……」
「どうやら、そんなことにも頭が回らなかったようじゃな。この余の姿を見て、気づかなかったとは情けない」
冷淡な吟遊詩人に追随するように、わざとらしくマンティコアが嘆く。
ナギの横を歩くマンティコアの姿は、昨日までと違っていた。今はラクダではなく、芦毛の馬だ。これは隊商<キャラバン>と別れて出発した直後、ウィルがそうしてみてはどうかと魔獣と相談して決めたのである。敵がラクダの足跡に固執するのであれば、これで追跡を撹乱させることが出来るだろう。
自分の浅はかさを両者から指摘され、ジェリコはグウの音も出ない。
「分かったよ。もう売っちまったラクダのことは諦めるとするぜ。あとは一日でも早く、目的地に到着できることを祈るだけ――あれ? そう言えばよぉ、どうしてナヴァールって所を目指しているんだっけか? そこは“枯れた遺跡”なんだろ? 誰もいないから安全だってことか? にしても、本当に何もねえんじゃ、あまりにも不便過ぎるだろう。んなところへ行って、どうすんだよ?」
ふと、ジェリコが頭にもたげてきた疑問を矢継ぎ早に口にした。
この質問に対して答えられるのはマンティコアだけだ。行き先をナヴァールに決めた張本人に他ならないのだから。
「お前さんら、人間には用のない所よ。じゃが、余のようなものにとっては救済の場所だと言えるじゃろう」
「救済の場所?」
「ああ、そうとも」
馬の姿のまま、マンティコアがうなずく。
「どういう意味だ?」
しかし、それ以上、マンティコアは答えるつもりがないようだった。今度はいくら尋ねられようとも頑なに沈黙を守る。
「チッ、ダメかぁ。――なあ、アンタは分かるか?」
「さあ」
吟遊詩人の持つ知識に頼ってみたジェリコだが、残念ながら、それもあっさりと断たれた。これで八方塞がりだ。
「行く必要もないところだと思うなら、何も無理して一緒に来んでもいいんだぞ」
あまりのしつこさに辟易したようで、マンティコアが意地悪く言う。いや、腹の中では本気でそう思っているのかもしれない。魔法で追手を撃退してくれたウィルならまだしも、今のところ、ジェリコは何の役にも立っていないのだし。ナギさえ一緒に行こうと、しつこく誘っていなければ、単なる足手まといだと思われても当然か。
ジェリコは言い返すことが出来ず、苦虫を嚙み潰したような顔をした。これ以上は何も訊くまい、と心に決める。
昼近くになると、単調だが順調であった旅の雲行きが怪しくなり始めた。文字通り、天候に変化の兆しが表れたのだ。
「こいつはヤバいな」
シャムール王国の出身であるジェリコは、砂漠の天候について敏感だった。足下の砂を手にすると、握った指の間から少しずつ落とす。それがどちらへ流されるかを見て風向きを確認した。
それは南東の方角より到来した。ずっと晴天であった太陽を遮り始め、灼かれた砂漠に薄暗い影を落とす。雨雲ではない。日照り続きの不毛の地に雨が降ることなど、数十年に一度あるかないかだ。
ナギも不安そうに上空を仰ぎ見た。
「やだ……こっちへ来そう」
「ああ。間違いない」
懸念はすぐ現実のものになった。
ジェリコたちの頭の上を無数もの微細な虫のような何かが物凄い速度で掠めて行く。いや、それが虫ではないことなど、砂漠で暮らすジェリコたちには最初から分かっていた。なぜなら、あまりにも普段から見慣れているもの――そう、砂だ。
砂嵐――この地に生きる者にとって、それほど珍しい自然現象ではない。だが、その恐ろしさについては子供の頃から徹底して教え込まれている。それこそ寝物語代わりに。だから、あらゆるものを包み込み、すべてをさらっていく砂嵐を目の当たりにすると、多くの者たちは恐怖に身体がすくんでしまうのだ。ジェリコやナギも然り。何より、ここは備えを充分に巡らせた町や村ではなく、身を守ることの出来る構造物など一切ない、砂漠のど真ん中である。逃げ場などあろうはずがない。
「ちきしょー、こんなときに!」
不測の事態に遭遇し、ジェリコは慌てて周囲を見回してみたが、やはり安全そうな場所は発見できなかった。このまま砂嵐の直撃を受けたら、とあまり想像もしたくないことを考える。最悪、生き埋めになってしまうだろう。かと言って、この場から出来る限り離れようにも時間的猶予がない。
やはり逃げるためのラクダが必要だった、とジェリコは後悔する。
そうこうしている間にも風は強くなり、ゴーっという唸りを上げるような恐ろしい音が轟いた。
「マジかよ……」
万事休すかに思われた。だが、どうやらジェリコには、まだ悪運が残されていたらしい。なぜならば、白魔術<サモン・エレメンタル>を使える美貌の吟遊詩人が同行していたからである。
「全員、オレの近くに来い! ――ガッツァ!」
吹きすさぶ砂嵐の音に掻き消されそうなっていたが、ウィルの呪文は確かに発せられた。その証拠に、ウィルの背後に砂の防護壁が徐々に形作られてゆく。追手のラクダを足止めしたときと同様、大地の精霊<ノーム>の仕業に違いない。それは単なる壁にとどまらず、頭上を覆い、左右を囲むようにして半球体のドームを形成し、三人と一頭を裕に収容可能なシェルターと化した。
「おおっ、すげぇ!」
ジェリコはほとほと感心した。古代より伝えられる魔法とは、いかに偉大なものであるかを改めて思い知らされる。
「これで砂嵐を凌げるだろう」
風下側にシェルターの出口となる小さな穴を作ると、ウィルは役目が終わったとばかりに休憩した。
大地の精霊<ノーム>製のシェルターの出来栄えは上々で、中はかなり薄暗いものの、出口となっている穴から砂が吹き込んで来ることもないし、これで外の様子も窺うことが可能になる。恐らくは外壁も補強されているだろうから、このひどい砂嵐の直撃を受けても壊されることはあるまい。
一同は安全が確保され、ようやく安堵した。緊張から解放される。
「やれやれ。一時はどうなることかと思ったわい。余だけならばともかく、ナギの身が心配じゃったからな」
「ありがとう、爺様」
変身した馬の姿のまま、胸中を吐露したマンティコアに、ナギはいつも通り屈託なく微笑んだ。
命拾いした、と思ったのはジェリコも同じである。
「本当に魔法使い様がいてくれて助かったぜ。多分、この砂嵐は一時的なものだろうから、すぐに過ぎ去るはずだ。今は砂嵐が頻発する季節じゃねえしな」
「やはり砂漠の民だけのことはあるな。詳しいじゃないか」
珍しくウィルがジェリコのことを見直した。訳もなく背中がむず痒くなる。何か悪いことが起こる前触れか、とジェリコはむしろ不吉さを覚えた。
「ねえ、お兄さんはどこの出身なの?」
ナギがジェリコに質問した。同じ砂漠の民として興味を持ったのだろう。
「オレか? オレはシャムール王国の中でも北のロハン共和国に近い、サンズっていうケチな村の出だよ。何もないところさ。いつもひもじい思いをしてな。生き延びるだけで精一杯、他人を慮る余裕なんてありゃしなかった。けど、ウチの母親はまだ幼かったオレたち兄妹よりも貧しい隣家の連中に――いや、この話はよそう」
「どうして?」
身の上話を急に打ち切ったジェリコに、ナギは素朴な瞳を向けた。ジェリコは自嘲する。
「語って楽しい話じゃないからさ。話せば、嫌な思い出がよみがえる。だから、あの村を飛び出して来たわけだしな」
「ふーん。あたし、バカだから、よく分かんないけど、お兄さんにもいろいろあったんだね」
「それなりには、な。――ナギは、ずっと《奇蹟の町》か?」
「ううん。もう死んじゃった両親からは、あたしがまだ小さい頃、《奇蹟の町》に移って来たって聞かされている。それこそ“奇蹟”を求めてね。だから、どこが本当のあたしの生まれ故郷なのか知らないんだ。けど、別にそれでも構わないって思ってる。だって、憶えてないんだし」
「そりゃそうだな」
「それに、あたしには爺様がいてくれればいい。そう決めて、《奇蹟の町》を出たんだもん。どこの町がいいとか、そんなのは関係ないよ」
ナギの言葉をマンティコアは目をつむって聞いていた。
「おい」
ずっと外の様子を窺っていたウィルが振り返った。まだ砂嵐は止みそうもない。
「せっかくだ、少しでも仮眠を取って休んだ方がいい。この先も、まだ厳しい旅は続くからな。見張りなら、オレに任せろ。出発できそうになったら起こす」
ウィルの提案に、一行も否はなかった。風の唸りと砂がパラパラと当たる音が耳障りだったが、それもやがて慣れる。まだ朝の出立から半日くらいしか経過していなかったが、それなりに疲労は蓄まっていたらしい。砂嵐の中でウィル以外の者たちは束の間の休息にまどろんだ。
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