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吟遊詩人ウィル

禁忌の制約<ギアス>

−9−

 チクチクと皮膚を突き刺すような日差しに焼かれているはずなのに、ジェリコは自分の身体が次第に冷たくなっていくのを感じていた。
「うっ……ああっ!」
 起き上がろうと少し動きかけて、腹部に筆舌に尽くし難い激痛が走った。反射的に手が動き、痛む患部に触れる。ぐっしょりと濡れていた。それもおびただしく。
 手の平は真っ赤に染まっていた。血だ。多分、致命傷に近いだろう。
(チクショウ……やられた!)
 ようやくジェリコは自分が刺されたことを思い出した。道理で身体の動きが鈍いはずだ。このまま砂漠の上で死を迎えるのか、と自らの運命を悟った。
 しかし、まだ二十二歳という若さで死を目前にしているにもかかわらず、どういうわけかジェリコは恐怖よりも、むしろ諦観を抱いていた。この結果は仕方がないと。すべては身から出た錆なのだから。
 徐々に意識が薄れていく中、ジェリコは自分に近づいて来る足音に気づいた。誰なのか確かめようと思ったが、もう首を動かすのさえも億劫だ。
 すると、その人物は仰向けに倒れているジェリコのそばに立ち、上から覗き込んで来た。
 何か喋ろうとしたが、そんなことさえ深手を負ったジェリコには出来なかった。唇がわずかに動いただけ。相手には呻き声くらいにしか思われなかっただろう。
 閉じかけた目で相手の顔を確認しようとしたが、中天に昇った太陽の日差しは強烈で、ジェリコからは完全に逆光になってしまっている。ただ黒い影法師だけがジェリコの上に覆い被さっていた。
(まるで死神だな)
 ジェリコには、それがまともな人間だとは思えず、シニカルな感想を持った。さらに言うなら、これは死を間近にした幻覚で、現実に起きていることではないのではないか、という疑念もある。
 そのうち、ジェリコの意識は消えるように闇の底へ引きずり込まれていった。



「仕留め損なったか」
 瀕死のジェリコを見下ろしながら、ウィルは耳を疑いたくなるような台詞を吐いた。こうしていると、数日前、やはり死にかけていたジェリコを助けたときのことを思い返される。あのときも負傷箇所は腹部だった。もっとも、手にかけたのはウィルではなかったが。
「何と恐ろしい奴だ……この男にためらいという言葉ないのか……?」
 戦闘区域から少し離れたところに立つデルモザードは、先程から何もしていないはずなのに、なぜか脂汗を流していた。呼吸もひどく荒い。
「お前の持つ能力……大体、分かった」
 ウィルがデルモザードに向かって言う。果たして、異能者<ミュータント>と噂されるデルモザードの能力とは。
 どうせハッタリだろう、とデルモザードはタカをくくった。
「能力? 何のことだ?」
「お前、異能者<ミュータント>だそうだな」
「マンティコアからでも聞いたか」
「突然、二人が起こした異常な行動……最初は強力な催眠術かと思ったが、そうではあるまい。ナギの次にジェリコ……まるで肉体から肉体へ移動しているかのようだった。他人に意識を移し替える……憑依、と言ってもいいだろう。彼らの肉体を己のものとしたな。しかし、無条件にそれが可能というわけでもなさそうだ。それが出来るなら、お前はまず、オレの肉体を乗っ取ったはず。憑依するために必要なものは――視線か」
 わずかな手がかりだけですべてを見通され、デルモザードは驚愕を表情に出さないようにするだけで精一杯だった。
 ウィルの言う通り、デルモザードは視線を交わした者へ自分の意識を飛ばし、その肉体を意のままにすることが出来た。まず大声を上げたとき、ナギがこちらを向いたので憑依して、マンティコアから遠ざかる行動を取り、次にジェリコが立ち塞がったときには、彼の肉体を乗っ取り、魔獣の庇護を失ったナギを捕えようとしたのである。
 ただ、ウィルが即断してジェリコを攻撃するとは思わなかった。刺された瞬間、意識を失う前に自らの肉体に戻れたのは幸いだ。あのまま死んでいれば、どうなっていたものか。単に術が解けて自分に戻るだけだったか、或いはジェリコ共々、帰らぬ人になっていたか。それはデルモザードも試したことがないので分からない。
 完全に手の内を読まれ、デルモザードはどうすべきか迷った。出来ればウィルに憑依したいのだが、向こうも警戒していて、黒い旅帽子<トラベラーズ・ハット>の鍔で目元を隠すようにしている。これでは不可能だ。
 となれば、残された手段はひとつ――
「お前たち!」
 デルモザードは、“制約<ギアス>”のペナルティにより疲弊したマンティコアを遠巻きにしている男たちを呼んだ。こちらの声が届くと、何か指示でもあるのか、と揃って顔を向ける。目と目が合った瞬間、デルモザードはそのうちの一人に自分の意識を飛ばした。
 一瞬にして、デルモザードは配下の一人に乗り移ることが出来た。しかし、これは目的の前段に過ぎない。真の狙いは目の前にいる魔獣にあった。
「マンティコア、お前の力を使わせてもらうぞ!」
 魔獣の視力は確かに弱っていたが、そう言葉をかけられると、声の主であるデルモザードに注意が向いた。その隙を逃さず、再び憑依の能力を使う。
 これはデルモザードにとって、ひとつの賭けだった。憑依の力は、あくまでも人間相手に用いてきたもので、それ以外の動物に試したことはない。なぜなら、どんなリスクがあるか分からないからだ。ただ憑依に失敗するだけならばいい。だが、一旦は成功しても、元に戻れなくなるという最悪の事態も考え得る。そのような命がけのギャンブルをするつもりはなかった。
 しかしながら、今はそんなことを言っていられない。相手は様々な魔法を駆使する吟遊詩人と魔獣であり、自慢の武器も失われてしまったのだ。そのウィルに憑依を警戒されている以上、残された手段はマンティコアに乗り移るしかない。
「――っ!?」
 初めての試みではあったが、どうやらうまくいったようだった。視力について懸念していたが、確かにぼやけているものの、完全に見えないというわけではない。ただ、視線の高さが不自然さを覚えるくらい低い。人間ではないのだから、やむを得ないことだが、違和感はつきまとう。周囲を見渡すと、そこには不安そうな配下たちの顔が並んでいた。
「お前たち。このマンティコアの肉体はオレが支配した。もう、こちらの心配は無用だ。あとは、あの黒尽くめの男を始末するだけ。――行け!」
 声はマンティコアのままだったが、デルモザードの特殊な能力について知っている配下たちは、すぐに状況を把握し、その命令に従った。
 四肢を持つ獣になるという体験は、デルモザードにとって新鮮なものだったが、身体的特徴が異なっていても特別な意識を働かせずに全身を動かせるのを確認し、これならば戦いに支障はなさそうだ、とまずそこに安心した。
 けれども、少なからず期待していた黒魔術<ダーク・ロアー>の活用については無理のようだった。どのようにすれば魔法が扱えるのか、まったくデルモザードの頭に浮かんでこない。やはり、魔法はあくまでもマンティコアが持つ知識だということのようだ。
 魔法に関しては残念だったが、かなりの衰えがあっても、魔獣の肉体は人間よりも遥かに強靭だ。これを使って、忌々しい吟遊詩人を始末してくれよう。
 デルモザードは全身を躍動させるようにして、己のものにしたマンティコアを走らせた。その瞬発力たるや、体感したことのないスピードに酔いしれそうになる。速い。先に駆け出していた配下たちを矢の如く追い越し、獲物たる黒い美影身へと仕掛けた。
「ディノン!」
 そのような敵襲に慌てる素振りもなく、ウィルはすぐさま呪文を唱え、複数発の魔導光弾<マジック・ミサイル>で出迎えた。自動追尾の光の矢からは何者も逃げられはしない。それぞれ一発が標的に命中する。
「ぐあぁぁぁぁぁっ!」
 残りすべての配下たちが砂漠の上に倒れていった。およそ三十名のうち、一部はマンティコアが引き受けたとはいえ、これでほとんどの者たちをこの美しき魔法の使い手一人で制圧してしまったことになる。
 吟遊詩人ウィル、恐るべし。
 デルモザードも魔導光弾<マジック・ミサイル>を喰らったが、倒れるほどではなかった。さすがは魔法抵抗力も高い魔獣だ。牙を噛みしめ、そのままウィルへと突っ込む。
 接触する寸前、光が空を薙いだ。その正体がウィルが護身用に所持していた短剣<ショート・ソード>であったと、デルモザードが気づいたかどうか。ただひたすら野生の勘とも言うべき危険回避を働かせ、その一撃を躱すことが出来ていた。
「それは……」
 一対一で対峙することになったデルモザードは、改めてウィルが持つ剣について観察する機会を得た。ジェリコに憑依したとき、為す術なく腹部に突き刺さった短剣<ショート・ソード>。あのときは何かの錯覚かと思ったのだが、間違いなく刀身そのものが眩しい光を放っていた。
 それはデルモザードでも知っている、伝説の《光の短剣》――魔法の武具の中でも最高峰の一本だと謳われている剣だ。
「な、なぜ、それを貴様が……いったい、何者だというのだ……?」
「言ったはずだ。ただの吟遊詩人だと」
 心の奥底まで射抜くような怜悧なウィルの目に、デルモザードは戦慄を覚えた。しかし、それも一瞬。デルモザードに憑依させまいと、すぐに目線は伏せ気味になる。
 金縛りのようになったがために、デルモザードは千載一遇の機会を逸した。すでにウィルは用心して目を閉じているはず。だが、そのような状態でどこまで戦えるというのか。
 一度は伝説の武具に怯んだデルモザードであったが、まだ勝機は充分にあると考え直す。魔法は使えないが、マンティコアの肉体には、まだ武器となるものが備わっている。
「こちらを見るがいい、吟遊詩人!」
 デルモザードはサソリの尾を使い、黒マント目掛けて攻撃した。さすがに勘が鋭く、ウィルは間合いを取って回避する。そのとき、やはり目をつむっているのが分かった。
「あくまでも、こちらを見ないつもりか! しかし、それでいつまでも逃げ回れると思うなよ!」
 さらにサソリの尾を振るい、視界を閉ざすウィルを仕留めようとするデルモザード。いかにウィルでも、サソリの毒にはひとたまりもあるまい。ひと刺し出来ればそれでよし、刺せなくても堪らず目を開けたところで憑依してしまえば、勝負はこちらのものだ。
 ところがウィルの動きには、まったくの迷いも遅滞もなかった。むしろ鮮やかにデルモザードの猛攻を回避し続ける。目は閉じられているはずなのに、なぜ攻撃を躱せるのか。次第に疑念を覚えるデルモザードの方が精神的に摩耗した。
「くっ……なぜだ……なぜなんだ……どうして攻撃が当たらねえ!? まさか音だけで攻撃を読んでいるとでもいうつもりか!?」
「違う。見えているからだ」
 敵の疑問に対し、あっさりと答えるウィル。デルモザードは訝った。
「見えている……だと? ふざけるな! お前は今も目をつむって――」
「確かにな。だが、オレにはもうひとつの目となるものが、あそこにある」
 そう言って、ウィルは目を閉じながら空を指差す。
 釣られるようにして見上げると、抜けるような青空が広がっていた。雲ひとつないが、一羽の鳥のようなものが飛んでいる。かなりの高度で旋回しているのは分かるものの、マンティコアの衰えた視力では何の鳥なのか判然としない。
「見えるか? あれは鷹だ。オレの使い魔の、な」
「つ、使い魔……?」
「魔術師が偵察や見張り役として使役するものだ。普通はカラスとか、ネコとか、小動物を使い魔にすることが多い。また、使役した使い魔とは術者と感覚を共有している。使い魔が見たもの、聞いたものは、術者も目にし、耳にすることが可能なのだ」
「だから、あれが貴様の目だと……」
「そういうことだ。鷹の視力は人間のおよそ六倍から八倍くらいあると言われている。上空からでも、お前の攻撃の動きはよく見えていた」
 目をつむったまま、ウィルは種明かしをした。今も頭上にある鷹の目は、眼下の二人だけでなく、この砂漠の戦場全体を睥睨しているのだろう。
「お、おのれ……」
 いくら何でも、遥か上空にいる鷹をどうこう出来ない。デルモザードはほぞを噛んだ。
「では、今度はこちらの番だ」
 ウィルは悔しがるデルモザードに向けて、改めて《光の短剣》を構えた。


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