[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [あとがき]
【最新作】
スッと一歩、ウィルが前に出ただけで、魔獣マンティコアを支配しているはずのデルモザードは、気圧されるように後退した。目の前に立つ吟遊詩人が、到底、普通の人間とは思えないためだ。人の形を成した何か別の存在――心よりの畏怖を込めて、この美しき異邦人を“魔人”と呼称すべきかもしれない。
「行くぞ」
黒いマントが、まるで背中に隠されていた翼を羽ばたかせるように広がり、伝説として知られる《光の短剣》が正面から突き出された。デルモザードは魔獣の敏捷性を生かし、必殺の一撃を掻い潜る。と同時に、ウィルの死角からサソリの尾を伸ばした。
ところが、その攻撃は易々と阻まれてしまった。ウィルのまとうマントがサソリの尾に絡みつき、その自由を奪ったのだ。きつく巻きついたマントはびくともしなかった。
「ぬっ――!?」
デルモザードは半ば強引に尾を振り回した。さすがのウィルも純然たる力勝負ではマンティコアに敵うべくもない。その身体は、遊んでいた子供に理由もなく飽きられてしまった哀れな人形のように、楽々と宙へ放り出されてしまう。
上下も分からないような状況に陥っても、ウィルに焦りなど微塵もなかった。目をつむった状態にありながら、自らの体感のみで地面との距離を算出し、屋根から落ちたネコみたいに身体を捻る。着地は当たり前のように足先から降り立った。
「ヴィド・ブライム!」
互いの距離が開いたことにより、ウィルには魔法を唱える時間が作れた。剣を持たない左手に、大きな火の塊が膨れ上がる。白魔術<サモン・エレメンタル>のひとつ、爆炎魔球<ファイヤー・ボール>だ。凄まじい火の精霊<サラマンダー>のエネルギーが急速に臨界へと達する。その威力は魔導光弾<マジック・ミサイル>などの比ではない。デルモザードは青ざめ、戦いの最中であるにもかかわらず、敵に背を見せた。
無慈悲に投下された爆炎魔球<ファイヤー・ボール>は、大音響とともに爆発を起こした。膨大な熱量が周囲に放出される。辛うじて直撃を免れたデルモザードでさえ、全身が燃え出すのではないかと危惧するくらい威力は強烈で、その恐ろしいまでの業火は広域にまで及ぶ。ある程度の魔法から身を守る抵抗<レジスト>さえ焼け石に水といった具合だ。
「くそぉっ、奴めェ――っ!?」
命拾いをし、爆炎魔球<ファイヤー・ボール>が引き起こした惨状を凝視しながら、完全に戦意を削がれて震えるデルモザードは、炎を挟んで立つウィルの姿に言葉を失った。なぜなら――
「こ、これは……どうしたというの、だ……!?」
「「「次こそが最後だ」」」
十二人のウィルが異口同音に宣告した。十二本の《光の短剣》がシンクロしたように輝き出す。顔はもちろんのこと、動きまで気色悪さを覚えるほど一緒だ。
デルモザードは力が抜けそうになった。目の前で起きていることに対し、頭の中の理解が追いついていかない。
「ま、魔法か……魔法でまやかしを見せているのだな……?」
「「「そう思うか。ならば本物のオレを見つけ出してみせろ」」」
一斉にウィルたちが動き出し、左回りでデルモザードを取り囲む。どれが本物かなど分かるわけがない。輪となって走るウィルたちは攻撃のタイミングを計っている。デルモザードは動くに動けず。
「「「覚悟!」」」
黒い影が押し包むように、十二人のウィルがデルモザードに仕掛けた。どこにも逃げ場はない。十二人のうち、十一人が幻だとしても、このままでは確実に討たれる。それを回避する方法はひとつしかなかった。
十二本の《光の短剣》が心臓を貫く前に、デルモザードは憑依の力を用いて自分の肉体へと舞い戻った。乱戦の中、奇跡的に視線が通ったのは何よりだ。これで生き延びることが出来た。
――と思いきや。
「それを待っていた」
思いがけない近さから聞こえるウィルの声。デルモザードはギョッとする。もはやこれまでと見限ったマンティコアの方を見れば、群がった黒いマントが串刺しにしているところなのに。
「あちらはすべて幻だ。魔奏曲の“幻影<ミラージュ>”――この曲は聴いた者を虜にし、幻視の世界に囚われる」
その言葉を裏付けるかのように、マンティコアを覆いつくしていたはずの黒マントは、一枚一枚、あたかも薄布を剥ぐように消えてゆく。代わりに、デルモザードのすぐ横には、《銀の竪琴》を弾く黒衣の吟遊詩人が悠然とたたずんでいた。
「謀ったな!」
激高するデルモザード。しかし、ウィルはすげなく、
「マンティコアを無傷であの少女に返してやりたかったのでな。手荒なことは控えさせてもらった」
「おのれぇっ! ――ぐわぁぁぁぁぁっ!」
突然、視界が翳ったと思った刹那、上空から急降下して来たのは、ウィルの使い魔である鷹だった。鋭い爪がデルモザードの顔を容赦なく抉る。怪入道の如き禿頭の大男が一羽の猛禽に襲われ、泣き叫ぶような悲鳴を上げながら逃げ惑った。
「や、やめろ! やめてくれっ! ――ひぃぃぃぃぃっ!」
ようやく攻撃をやめた鷹がウィルの肩に留まると、デルモザードの顔は目を中心にひどい傷を負い、血だるま状態になっていた。これで二度と視力を取り戻すことは出来まい。それこそ神が与えし“奇蹟”でも授からなければ。
「命まで取るつもりはない。このまま仲間を連れて立ち去るなら見逃してやろう。どうせ、その目では憑依の能力も使えまい。余生は慎ましく送るのだな」
失明したデルモザードにそう言い残し、踵を返したウィルは虚脱状態のマンティコアのところへと戻った。
「ねえ、爺様! 早く来て! もう一度、お兄さんに“奇蹟”をかけてあげて! お願い! このままじゃ、死んでしまうわ!」
倒れたジェリコの身体にすがりつきつつ、ナギが大粒の涙を流しながらマンティコアに懇願した。これ以上の出血は命に係わると判断し、懸命に刺された傷跡を手で押さえようとしているが、血は止めどなくあふれ出ている。おまけに、いくら呼びかけてもジェリコから反応は返って来なかった。
「治してやってはどうだ?」
無残に敗北し、おめおめと退却して行く敵の一団を見送りながら、ウィルは動こうとしないマンティコアに話しかけた。魔獣は忌々しげに低く唸る。
「奴はナギを人質に取ろうとした。理由はどうあれ、許すことは出来ない」
ナギに面と向かっては言えないものの、彼女を危険にさらしたジェリコに対するわだかまりは強く、マンティコアは頑なに拒否した。
ウィルは、そんな老いた魔獣に一瞥を向ける。
「あの男は、その報いを充分に受けた」
「そのために、お主はわざと刺したのだろう? 彼奴に余計な負い目を感じさせまいとして」
「それもあるが、あまりあちこちに憑依可能な人間を残しておきたくなかった、というのが大きな理由だ」
「ついでだ。そのまま罪を償って死んでしまえばいい」
「では、お前はどうなのだ? お前も自分のために彼女を利用したのではなかったか?」
「――何じゃと!?」
マンティコアは血相を変えた。心外だ、とでも言うように。
「余がナギを利用するなど、あろうはずが――」
「まず、お前にかけられた“制約<ギアス>”への対処だ」
言葉を遮って喋り始めるウィルにマンティコアは黙り込む。聞こう、という姿勢らしい。
「その昔、お前にかけられた“制約<ギアス>”とは、『《奇跡の町》から逃げてはならない』というものだったはず。つまり、『自発的に逃げることは許されない』というわけだ。しかし、誰かの手によって連れ出される場合、『逃げること』には当たらない。だから、お前はあの娘を利用した。自分を連れ出させるために」
「………」
「実際、お前が移動するときは、常にあの娘が寄り添っていた。それ以外の場合、お前が単独で動こうとすると、“制約<ギアス>”が効果を発し、その身に責め苦が及んだはず」
「……では、余から尋ねよう。なぜ、デルモザードが余の躰を支配したとき、奴は自由に動き回れたのじゃ?」
「“制約<ギアス>”をかけられたのが奴ではないからだろう。あれはあくまでもお前の命に刻まれたものだ」
「なるほどのぉ」
「だが、彼女を旅に同行させたのは、町から出るためだけが目的ではなかったはずだ。その答えはナヴァール遺跡にあるとオレは見た」
「な、なぜ、それを――!?」
明らかにマンティコアは狼狽した。これまでにないくらいに。
「オレが聞いた話にこういうものがある。どこかの遺跡に、魂と魂を入れ替える魔法装置が存在する――と。それがナヴァールにあるのではないか? オレは現地へ行ったこともないので、あくまでも想像で話しているが、もし、そういうものが隠されているのなら、死期を悟ったお前はそれを使い、あの娘と魂を入れ替えるつもりだったのだろう? 何千年も生きた魔獣と人間では寿命を比べるべくもないが、お前が老い先短いのなら、あと五十年は生きられる少女の肉体はさぞ魅力的であるに違いない。――いや、黒魔術師<ウィザード>は、その知識と契約により、寿命を長く伸ばすことも可能だ。常に呪いに苛まれる古き躰を捨て、若く健康な新しき肉体で命を繋ぐ――そう目論んだのではないか?」
「………」
マンティコアは沈黙した。反論がないということは、ウィルの推論は正しいということになる。
ナギはまだ諦めず、マンティコアを呼んでいた。切迫した様子で、もう金切り声に近い。
「――で、どうするつもりだ? それを知ったお主は余を斬るつもりか?」
「いや、斬りはしない。それはあの娘の望むことではないからな。ただ――」
ウィルはジッとマンティコアを見つめた。黒き魔人が帯びる気に異形の魔獣が呑まれる。
「お前には、新たな“制約<ギアス>”をかけさせてもらおうか」
「――ッ!」
思いもよらないウィルからの言葉に、マンティコアすら度肝を抜かれた。よりにもよって“制約<ギアス>”とは。
「おっ……お主……か、かけられると申すのか?」
「かけられるとも」
黒魔術<ダーク・ロアー>の使い手は現在も数多いるが、古代魔法王国期に比肩する高レベルの黒魔術師<ウィザード>となれば、その存在自体が疑わしい。ところが目の前にいる男は、そんなことは児戯にも等しいと言わんばかりではないか。マンティコアはウィルという人間の底が知れない恐ろしさを見たような気がした。
――吟遊詩人ウィルは魔人なり。
「いっ……いったい、どのような“制約<ギアス>”を余にかけるつもりだ?」
「死ぬまで、決してあの娘を裏切らない――というのはどうだ?」
冗談というわけではないらしい。この男が言うとも思えないが。
マンティコアは観念した。すべてを見透かされ、あらゆる手段を断たれたのだ。仮にウィルと戦ったところで勝ち目はないだろう。その実力差は歴然としている。残りわずかな命を永らえるしかない。
「……分かった。従おう」
頭<こうべ>を垂れ、マンティコアは降伏した。ウィルはその額に手をかざし、複雑な呪文詠唱を開始する。光の輪の中に古代語のルーン文字が浮かび上がり、それが緩やかに回転しながら多大な魔力が魔獣の中へと流れ込んでゆく。何千年もの遥か昔、古代魔法王国の魔術師によって最初の“制約<ギアス>”をかけられたときと違い、マンティコアは抵抗<レジスト>することなく、己からすべてを受け入れた。
程なくして、ウィルとマンティコアとの間に、新たな“制約<ギアス>”が成立した。おそらく、この“制約<ギアス>”に逆らい、苛烈な罰則を受けることは未来永劫あるまい。
「爺様、早く!」
そんなことを確信しながら、マンティコアは助けを求め続けている少女に向き直った。
目を開けると、顔がくっつきそうなくらいの距離でナギが覗き込んでいた。また助けられたのか、とジェリコはぼんやりした頭で考える。
「お兄さん! 分かる!? あたしだよ! ナギだよ! ねえっ!」
「ああ、分かるよ……分かるとも」
「よかったぁ!」
「――っっっっっぅ!」
感極まって、ナギががばっと覆い被さって来たので、ジェリコは悲鳴を押し殺すはめになった。回復の魔法がかけられたのだろうが、傷はまだ痛む。自分を心配する少女にそれを悟られないよう、歯を食いしばって我慢し、胸の上にある小さな頭を優しく撫でた。
「またしても悪運が強かったようじゃな」
すっかり連れ合いの少女をジェリコに取られたみたいで、マンティコアが面白くなさそうに悪態をつく。
「悪いな、爺さん。また助けてもらったみてえで」
「フン。ナギにさえ頼まれなければ、裏切ったお前の命を救うなぞ……」
「そ、そう言や、奴らは?」
自分が倒れたのが戦いの最中であったことを思い出し、ジェリコは慌てて身を起こす。しかし、すでに戦闘は行われておらず、いつもの静かな砂漠が広がっているだけだ。
「奴らなど、とっくに尻尾を巻いて逃げて行きよったわ。結局、お前は役に立つどころか、足を引っ張るだけのボンクラよ」
「この不名誉は、この先の旅で挽回することだな」
いつの間にいたのか、相変わらず感情のない顔つきでウィルが冷淡に言い放つ。ジェリコの表情は沈んだ。
「でもよぉ……オレは……」
「一緒に来て、お兄さん!」
ナギは明るく言って、手を差し出した。大きな瞳がジェリコを見つめる。
「あたしたちと一緒に来てくれたら、今までのことは、ぜーんぶ、水に流してあげる! だから――いいよねっ、爺様?」
「フン、好きにせい」
マンティコアはすでに諦めているようだ。許しが出て、ナギは満面の笑みを浮かべる。
「ほら、爺様もいいって! 行こう、お兄さん!」
屈託のない少女の笑顔に、ジェリコは涙が出そうになった。一度だけ鼻をすすると、差し出されたナギの手を取る。そして、身体の砂を払いながら立ち上がった。
「分かったよ。お前らの旅に、このオレがとことんまで付き合ってやらぁ!」
今度こそ恩返しをするときだ、とジェリコは決心した。もう何があろうとも必ずナギを守る。それは幼くして死んでいった妹たちへの誓いでもあった。
「いざ、ナヴァールへ!」
空高く舞った鷹が再出発した一行を見届けると、遥か西を目指して力強く羽ばたいた。
[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [あとがき]