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勇者ラディウスの記憶

−2−

 その日は朝から雨が降っていた。
 朝食を済ませたローラは、二階の窓からぼんやりと外を眺めていた。その表情はいつになく物憂げだ。
 雨足はやや強く、外を出歩く者は少ない。五大王国の中でも人口が多いとされる、このカリーン王国の王都ラーズであってもだ。ときたま通りかかっても、皆、逃げるように小走りで去っていく。空は寒々とした鈍色の雲に覆われ、冷たい雨はしばらく止みそうになかった。そんな天候である。
 やがて窓から離れたローラは、厚手の外套を手にして出て行こうとした。
「ローラ」
 そんな彼女を呼び止めたのはアンだ。さっきからずっとローラの後ろ姿を見つめていたのだが、本人は気づかなかったらしい。ローラは、一瞬、硬い表情をしたが、すぐにいつもの微笑みを浮かべた。まるで心配性の妹を安心させるかのように。
「行くの?」
 アンは気遣わしげに尋ねた。ローラはうなずく。
「心配しないで。お昼までには戻るから」
 ローラはそう言いながら、全身をすっぽりと覆う、長めの外套を着る。雨対策だ。
 それでもアンは不安そうな表情を拭い去ることは出来なかった。まるでローラが、これきり戻らないのではないかと心配するように。
 ローラはそんなアンを安心させようと、軽く肩の辺りに触れた。そして、そのまますれ違って、部屋を出て行く。
 アンは先ほどまでローラが立っていた窓に近づいた。外套を着たローラが街の中心地へ向かうのが見える。その姿が激しい雨に煙っていた。
「なんだ、ローラはこの雨の中、出かけたのか?」
 まだ起きてきたばかりのケインが窓際に立つアンに声をかけた。ケイン以外の全員、朝食はとっくの昔に食べ終わっている。かなりの寝坊だった。寝ぐせすら直っていない。
 昨夜の一件もあるせいか、アンは無視を決め込んでいた。目線も合わさずに、早足でその場から立ち去る。そんなアンの剣呑な態度に、ケインはうんざりしたように顔をしかめると、冷めた朝食が乗ったテーブルについた。
「なんでえ、まったく」
 自分が歓迎されていないことは分かっているつもりだが、これまで何度かアンの窮地を救ってやったのだ。もうちょっと愛想よくしてくれてもバチは当たらないだろうと、ケインは文句を言いたかった。それを口に出さない代わりに、テーブルにあったパンにむしゃぶりつく。
「あら、ケインくん。おはよう」
 入れ替わりにやってきたのはドナだった。今はきわどいネグリジェ姿ではなく普段着だ。ただし、豊満な胸の谷間を強調したデザインは相変わらず。朝だというのに、ケインを見つめる瞳は潤んでいて、舌なめずりさえしかねない感じである。ケインは飢えた牝獣を想像した。
「おはようございます、ボス」
 ケインにしては珍しく、やや改まって挨拶した。どうもドナにはペースを乱される。一方、そんなことはおかまいなしのドナは艶然と微笑んだ。
「あら、ヤだ、ボスだなんて。ドナでいいわよ」
 仕事中、自分の娘には「ボス」と呼ぶよう口を酸っぱくして言っているくせに、ケインに対しては違うのか。ドナはぴたりと寄り添うようにケインの隣に座った。思わず食事するケインの手が止まる。
「あー、ローラはどこへ行ったんですか? こんな雨の日に」
 少しでもドナの気を逸らそうと、ケインは話題を振ってみた。すると意外にも、ドナは真顔になる。
「そう。やっぱり、今日も出かけたのね、あの娘」
「どういう意味です?」
 ドナは立ち上がった。そして、ローラとアンがしたのと同じように、窓際に立って、雨模様の王都ラーズを眺める。その視線はどこか遠くにあった。
「ローラはね、一年前のこんな雨の日、橋のたもとで倒れているところをアンに助けられたの。自分に関する記憶をすべて失ってね」



 ローラは街の中心部にある橋の上に来ていた。一年前、アンに助けられた場所だ。それ以前の記憶はない。
 あの日も雨が降っていた。気がつくとローラは橋のたもとで倒れていた。たまたま通りかかったアンに助けられなければ、今頃はどうなっていたか分からない。
 そのとき、ローラは寝間着姿で、他に身元を示す物を一切持っていなかった。白かったはずの寝間着は雨と泥に汚れ、素足は手首には縛られでもしたような擦過傷が残されていたという。どこからか逃げ出したのか。それとも、誰かに置き去りにされたのか。しかし、奇妙なことに、ラーズの街ではローラのような少女が行方不明になったという話は、ついに聞かれなかった。
 行き場のないローラを引き取ったのが、アンの母、ドナだ。アンもそれに賛成した。以来、ローラは昔からの家族のようにアンたちと一緒に暮らした。
 しかし、自分が一体、何者なのか。この一年間、ローラはずっと知りたかった。ローラという名前も自分のものなのかどうか。アンに助け出されたとき、ローラ自身がうわごとでその名を言っていたらしいというだけで、確証はない。他の誰かの名前である可能性だってある。また、一緒に暮らしていた家族はいるのか。いるとすれば、いなくなったローラを今も捜しているのか。すべてが分からないことだらけだった。
 だからローラは、助け出された日と同じく雨が降ると、こうして橋へやって来るのだ。何でもいいから記憶が戻りはしないかと、淡い期待を持ちながら。
 先日のハダル村での事件では、突然、聖魔術<ホーリー・マジック>を使えたことに、ローラ本人が一番驚いた。ひょっとすると、それも自分の過去に何らかの関係があるのかもしれない。どんな些細なことでもいいから、ローラは自分に関することを思い出したかった。
 雨の中をローラは立ち尽くした。外套を着てはいるが、雨は隙間から入り込み、ローラの身体を凍てつかせていく。寒くて震えた。それでも何かを思い出そうと、ローラは懸命に意識を集中させる。
 橋の下では川が水かさを増し、濁流となっていた。叩きつけるように降る雨音が他の音を消し去る。ローラはただ一人、橋の上に取り残された。
 不意に何も知覚しなくなった。音も、光も。雨の冷たささえも。橋の上から、まったく別のところへ連れ出されたような感覚。
 そのときだ。ローラの脳裏に映像が浮かんだ。
 暗い部屋の中で揺れるロウソクの炎。断頭台。魔法陣。それらが断片的に見える。そのとき、ローラの感情を支配するものは恐怖。
 それから闇を切り裂く光。それが剣の鋼が反射したものだと気づいたとき、男の声が響いた。
『早く!』
 剣を持った男が手を差し伸べてきた。顔は逆光になっていて分からない。しかし、ローラは安堵を覚えた。
(ラディウス様……?)
 なぜか、その男が勇者ラディウスに思えた。伝説の勇者。ネフロン大陸の英雄。
 ローラは、その男に手を引かれて走った。天井が低い、暗く細い通路の中を。どこまでもひたすらに逃げた。
 やがて前方に光が見えた。出口に違いない。あと少しで助かる。外へ出られる。そう思った刹那──
「きゃあああああああっ!」
 女性の悲鳴がした。耳を塞ぎたくなるような、悲痛な叫び。鮮血が迸っていた。生暖かい感触。誰の血なのかは分からない。自分のものなのか、あるいは助けに現れた剣士のものなのか。そこで映像は暗転した。ただ、女性の悲鳴だけが大きくなりながら。
「きゃあああああああっ!」
 ローラは聞こえている悲鳴が自分の発しているものだと気づいた。どうして悲鳴を上げているのか、自分でもよく分からない。ただ、怖かった。悲鳴を上げずにはいられなかった。
「ローラ! ローラぁ!」
 いきなり強い力で肩を揺さぶられた。そのおかげでパニックから解放される。ローラを揺さぶっていたのは、同じ外套をずぶ濡れにしたアンだった。
「ローラ、大丈夫!?」
 アンは、突然、悲鳴を上げ始めたローラを心配した。結局、気になって後をついてきたのだ。ローラの顔はすっかり血の気を失っている。それは雨に濡れて、身体を冷やしたせいばかりではないはずだ。アンはローラが何かを思い出したに違いないと思った。それもひどく恐ろしいことを。
「あ、アン……」
 ローラは正気に戻った。しかし、悪寒に襲われ、とめどなく身体が震える。幻想の中でローラが見たもの。あれは一体、何だったのか。
「もう大丈夫よ、ローラ」
 アンは震えが止まらないローラを抱きしめた。ローラの身体はすっかり凍えてしまっている。アンは自らの身体でローラを暖めた。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
 アンは何度も言い聞かせた。ローラの背中を優しくさする。おかげでローラは少し落ち着きを取り戻した。
「ありがとう、アン」
 ローラは心から親友の存在に感謝した。


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