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勇者ラディウスの記憶

−3−

 とりあえずアンは、雨の中、ずっと立ち尽くしていたローラを雨宿りできそうな軒先へと連れ出した。
 雨に備え、フード付きの外套をしっかり着込んでいたローラだが、それも役に立たないくらいずぶ濡れになっていた。おかげですっかりと体温を奪われてしまっている。歯の根が合わないほど震えていた。
「ムチャよ、こんな雨の日に」
 アンは持っていたハンカチで濡れそぼったローラの髪を拭いてやったが、そんなものでは到底、追いつかなかった。このままでは風邪を引いてしまう。しかし、ここから家に戻るには、また雨の中を走らねばならず、アンはどうしようか悩んだ。
「アン」
 ローラはハンカチを持ったアンの手をつかんだ。そして、紫色になりかけた唇を小さく震わせる。
「私……見たわ……」
「何を?」
 うわごとのように喋るローラをアンは心配した。なにしろ、さっき、前触れもなく悲鳴を発したところを目撃しているのだ。あまりに長く雨に打たれたせいで、ローラがどうかしてしまったのではないかと思った。
 しかし、ローラの瞳には、しっかりとした正気の光が宿されていた。
「多分……思い出せないけど……私の過去を……」
 ローラの言葉に、アンはドキリとした。ローラが記憶を取り戻したら、自分の元から去ってしまうのではないか。そんな漠然とした不安を抱いていたからだ。
 この一年間、アンとローラは本当の姉妹のように生活してきた。元々、兄弟がいなかっただけに、アンにとってローラの存在は格別であったと言えよう。そんな大切なものを失いたくなかった。できればローラには、ずっと一緒にいて欲しい。例え何があっても。それがアンのささやかな願いだ。
 だが、ローラは自分の記憶を取り戻したがっている。当然だろう。自分が何者か分からないままというのは、自分の半身をなくしてしまったも同然だ。アンが、仮にローラの立場でも、自分の記憶を取り戻したいと切に願うはず。そんなことはアンだって分かり切っているのに、もう一人の自分は強情にも納得できないというジレンマを感じずにはいられなかった。
 そのローラが過去を思い出したかもしれないという。アンの心の中は穏やかではいられなかった。
「何を……見たの……?」
 アンは口の中が乾くのを感じた。ローラに恐る恐る尋ねる。
 ローラは先ほど見た、恐怖の光景を思い出そうとした。
「どこか暗いところ……そこに私は閉じこめられていたみたい……でも、誰かが……勇者ラディウス様が私を助け出してくれたの……」
「勇者ラディウスが?」
 アンはつい聞き返していた。ネフロン大陸で伝説の英雄と化しているラディウスは実在したかもしれないが、とっくの昔に亡くなっているはずだ。それが本物のラディウスである可能性はほぼないように思われる。
 それはローラも承知していたのだろう。急いで訂正した。
「もちろん、その人がラディウス様かどうかは分からないわ。なんとなく、私のイメージでそう思ったの」
 最近、ローラは勇者ラディウスとケインを重ね合わせて見ているところがある。そういったことからも、ラディウスの名が口をついて出たのかも知れない。アンはそのように解した。
「それでローラは逃げられたの?」
 アンは記憶の先を促した。ローラに記憶が戻るのは不安だが、失われた過去に興味はある。それもどこかに幽閉されていたというのだ。まるでおとぎ話に出てくるような囚われの姫君みたいではないか。
 ところが、ローラはいきなり顔を手で覆ってしまった。あたかも思い出したくないというように。
「分からない……分からないわ! 出口が見えたと思ったところで、目の前に真っ赤な血が……」
 その場面がまだ残像となってちらつくのか、ローラは拒むようにかぶりを振った。それがローラに悲鳴を上げさせたのだと、アンは理解する。そして、優しくローラの身体を抱き寄せた。
「もう怖くないわ。ローラはちゃんとこうして生きている。大丈夫よ。私がついているから」
 ローラはアンの胸に顔を埋めるようにして泣いた。そんなローラを抱きしめながら、アンは話を整理してみる。
 ローラはどこかに閉じこめられていたという。そこはどこか。誰が、何の目的でそんなことをしたのか。ローラを助け出したのは誰か。その人物はどうなったのか。そして、現在、ローラの身に危険が及ぶことはもうないのか。
 すべてが分からないことだらけだった。これだけでは、まだ何も判断できない。いずれ、これが呼び水となって、ローラの記憶が徐々に取り戻されていくのか。それすらもアンには分からなかった。
 そのときであった。アンの視界の隅を二つの人影がかすめた。フードをかぶった横顔をチラリと見ただけだが、片方の男には見覚えがある。男たちはアンたちの方に気づかず、行ってしまった。
「あいつ……!」
 アンの唇が固く噛みしめられた。忘れもしない、あの顔。アンはジッとしていられなくなった。
「どうしたの、アン?」
 そんな様子に、ローラは訝った。ローラは背を向けていたせいで、通りかかった男の顔を見ていない。するとアンはローラの身体から離れた。
「あいつよ! ハダル村のにせラディウス!」
 それは忘れようにも忘れられない、前回の事件の元凶だった。あのときはケインがもう一歩のところまで追いつめたのだが、奇妙なマジック・アイテムを使われ、まんまと逃げられてしまったのだ。
 そのにせラディウスが、まさか、このラーズの街へ来ているとは思わなかった。あのあと、官憲にも訴えたので、お尋ね者になっているはずだが、やっぱり人で溢れ返る大きな街の方が身を隠すには都合がいいのかもしれない。
 しかし、ここで会ったが百年目。アンは創造母神アイリスに感謝した。もう逃がしはしない。
「いい、ローラ? 雨が小降りになるまでここにいて。私はあいつを尾行してみる。どうせまた、悪いことを企んでいるに違いないわ。それを見過ごせちゃおけない」
 アンはそう決めつけると、にせラディウスを追いかけようとした。それをローラは引き留めようとする。
「危険よ! 一人でだなんて!」
「平気、平気! 危なくなったら、ちゃんと逃げるから」
 そんな殊勝さをアンが持ち合わせているとは思えなかった。だからローラは余計に心配だ。
 しかし、アンはローラの手を振り払うようにした。
「じゃあ、行って来る!」
 アンは心配するローラも顧みず、まるで買い物にでも出かけるように行ってしまった。



 アンは慎重に、にせラディウスたちを尾行した。
 幸い、強く降り続く雨がアンの足音を消してくれて、追跡に気づかれる心配はなかった。男たちは後ろにアンがいるとは夢にも思わぬまま、水かさの増した川沿いを足早に歩いていく。
 アンはある程度の距離を保ちながら、二人を観察した。一人はにせラディウス。これは間違いない。もう一人は、にせラディウスに比べると小柄な男だった。年齢もかなり行っているかもしれない。アンはその男に、病人のような印象を持った。
 二人の男はしばらく行ったところで、川沿いの護岸から階段を降りて、下の道を歩き始めた。道といっても、川の両側にあるわずかな岸幅だけで、普段から人が通るようなところではない。それを見たアンは顔をしかめた。この先にあるものといえば、下水道の入口くらいのものだ。
 ところが二人は、その下水道へと入って行った。これにはアンも面食らう。しかし、このまま逡巡などしていられなかった。逃がすものかと後に続く。
 ラーズの地下に張り巡らされた下水道は、今から百年ほど昔、五大王国のひとつ、リルムンド王国の首都ベギラでも新下水道を造り上げた名うての技師を呼び寄せて、完成させたものだ。その全行程こそ、旧下水道も利用したベギラのものに及ばないものの、利便性や耐久性はこちらの方が優る。これ以上の近代的な下水道は、いくらネフロン大陸広しといえど、ここラーズをおいて他にない。
 さすがに大陸中に喧伝するだけあって、立派な下水道であった。アンより背が高い人間でも立って歩けそうなくらいの余裕があり、周囲の壁もしっかりとしている。ただ、下水の臭いばかりはどうしようもない。アンは鼻が曲がりそうな臭いに卒倒寸前になりながらも、にせラディウスたちの追跡を続行した。
 当然のことながら、下水道の中は真っ暗だ。アンはランタンでも持ってくればよかったと後悔したが、それでは相手に気づかれる。一方、そのにせラディウスたちは明かりを灯した。
 アンは思わず声を上げそうになった。点いた明かりが魔法の光であったからだ。どうやら、にせラディウスと一緒にいるのは魔術師らしい。なるほど、そんなイメージがピッタリくるような気がした。
 アンはその魔法の明かりを頼りに、にせラディウスたちを追いかければよかった。できるだけ足音を忍ばせ、息を殺して。次第に外の雨の音が遠ざかっていった。
 それからどれくらい歩いただろうか。アンの距離感は完全に麻痺していた。あちこち分岐を曲がってきたせいで、方向感覚も失っている。ここから一人で帰れと言われても元の場所に戻れないだろう。しかし、まだ下水道の中をさまよっているということは、この上は間違いなくラーズの街なのである。今まで、自分の足下にこんな世界があったとは想像だにしなかった。
「もう、この辺でいいでしょう」
 突然、小柄な魔術師が立ち止まって言った。するとにせラディウスがうなずく。
「そうだな。もう充分だ。──おい、追いかけっこはおしまいだ。顔を見せろ」
 気づかれていた。アンは自分の迂闊さを呪って下唇を噛みしめる。だが、一刻も早く何らかの行動を起こさねばならない。この窮地から脱するために。


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