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闇の中に灯された二つの赤い光点。それが振り向いたアンが見たものだった。
その赤い光点はアンを見定めたらしく、せわしなく近づいてきた足音はピタリと止まっていた。アンは息を詰める。ガデスが呼び出したものの正体を見極めようとした。
「キィィィィィィィッ!」
いきなり、そいつが鳴き声を発した。アンは怖気立つ。それは暗き下水道に巣くうもの。
「ネズミの始末は、ネズミに任せるぜ」
ようやく暗闇の中でも、その正体が何なのか分かってきた。薄汚れた灰色の毛並み。細長い尾。鋭い刃のような齧歯。絶え間なく鼻をヒクヒクさせ、獲物の臭いを嗅ぎ分けようとする仕種。
それはガデスの言うとおりネズミだった。それも人間ほどのサイズの。いわば、ジャイアント・ラットだ。
アンは思わず、後ずさりをした。ラーズの地下下水道に生息していることは、かねてより噂となっていたが、こうして目の当たりにするのは初めてだ。ネズミもこれだけ巨大だと、ただの害獣には思えない。凶悪なモンスターだ。
「気をつけな。そのネズミは獰猛だぜ。それに腹ぺこのようだ」
ガデスが面白がりながら忠告した。そんなことは言われなくても分かっている。アンはそっと腕を上げ、ジャイアント・ラットの攻撃に備えた。このまま囓られるのはゴメンだ。戦う決意をする。
「じゃあな、ねえちゃん。運が良かったら、また会おうぜ」
ガデスは嘲笑うように言うと、魔術師と共に去っていった。しかし、アンは追えない。今、背中を向ければ、ジャイアント・ラットが襲いかかってくるだろう。
アンはジャイアント・ラットをねめつけた。武術の心得があるとはいえ、人間を相手にするのとは勝手が違う。とにかく気をつけなくてはならないのは、あの前歯である齧歯だ。
アンは思い切って、一歩、鋭く踏み込んでみた。するとジャイアント・ラットは怯えたのか、くるりと背を向けて逃げ出そうとする。しかし、それも一瞬。再び向きを変え、アンと対峙した。
ジャイアント・ラットも警戒しているようだ。しかし、食欲が抑えられないのか、この場から去ろうとはしない。
睨み合いはいつまでも続くかに思えた。
先にしびれを切らせたのはアンだ。気合いの叫びをあげながら、ジャイアント・ラットへ突進する。
「やあああああああっ!」
アンはジャイアント・ラットの頭を蹴り飛ばそうとした。それをジャイアント・ラットは後肢で立ち上がることでかわす。大きい割には俊敏だ。
立ち上がったジャイアント・ラットは、アンの背丈よりも大きかった。一瞬、恐怖にすくみかけるが、それを振り払う。攻撃し続けること。それが考え得るアンの活路だ。
「たああああっ!」
アンは腰を落とし、ジャイアント・ラットがさらした腹部へ拳の連打を見舞った。針のような剛毛が拳に突き刺さるが、アンは攻撃の手を緩めない。ジャイアント・ラットの皮下脂肪が波を打った。
だが、さすがに巨体だけあって、ジャイアント・ラットを吹き飛ばすまでには至らなかった。それに意外と栄養を蓄えているのか、分厚い肉の壁に阻まれ、ダメージが内臓まで達していないような手応えがする。
アンのパンチも通じないジャイアント・ラットは、その巨体で覆い被さるようにしてきた。アンは素早く反応し、後ろに跳び退く。捕まったら、アンは丸囓りにされてしまうだろう。
後退したアンに、ジャイアント・ラットはなおも襲いかかってきた。瞬く間に距離を詰め、やたらと長い指でアンを捉えようとする。アンはそれを手刀で払い、凶悪な齧歯から逃れた。
ジャイアント・ラットの素早い動きに、アンは舌を巻いた。間合いを取ったつもりが、すぐに眼前にまで迫られる。少しも息が抜けなかった。
「キィィッ! キィィッ!」
耳障りなジャイアント・ラットの鳴き声が下水道内に響いた。
すっかりアンはジャイアント・ラットの攻勢に押されていた。齧歯をかいくぐりながら、後退するしかない。どうにか、この状況を打開せねば。
そのとき、アンのかかとが段差につまづいた。前にばかり気を取られていたせいだ。アッと思ったときは、もう遅い。アンは背中から倒れ込んだ。
「──っ!」
アンの上にジャイアント・ラットが乗りかかろうとしてきた。あの体重に押さえ込まれたら、もう逃げられない。アンは悲鳴を呑み込んだ。
「アン?」
何かが聞こえたような気がして、ローラはハッと顔を上げた。しかし、改めて耳を澄ませてみても、何も聞こえない。空耳だったのか。そうだとしても、ローラの胸騒ぎは、さっきから大きくなりっぱなしだった。
「どうした、ローラ?」
彼女を支えながら歩くケインが、ローラの様子に気づいた。ずっと雨に打たれていたローラは高熱を出し、普通ならアンの捜索に同行させるなどもってのほかだ。アンの安否も気がかりだが、ローラの体も心配だった。
「いえ、何でもありません……」
ローラは、そう答えた自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。高熱のせいで意識が朦朧としてきている。前に進もうと、必死に足を動かすだけで精一杯だ。
そんな状態でありながらも、ローラは不思議な感覚にとらわれていた。初めて入ったはずの下水道。それなのに、どこか見覚えがあった。
「似ている……」
ローラは考えていたことを口に出していた。
「え?」
ケインが尋ね返す。半ば高熱によるうわごとだと思いながら。
ローラは、先刻見た映像のことをケインに話した。
「私、一年前より以前の記憶がないんです……でも、さっき、不思議な光景が頭の中に浮かびました……それがこの下水道の中に似ているんです……」
「じゃあ、ローラは一度、ここへ来たことがあると?」
「分かりません……分からないんです……あれが私の記憶だったのか……それとも単なる幻だったのか……でも……」
「でも?」
「こうしてケイン様に身体を支えられながら歩いていると、以前にも同じことがあったような……そんな気がします……」
ローラはケインと一緒にいると、安堵感を覚えることができた。映像の中に出来た勇者ラディウスと同様に。
複雑に入り組んだ下水道での捜索は、ローラのおかげで進んだ。分岐があっても、ローラがすぐさまどっちの方向であるか指摘するからである。どうしてローラにそんなことが分かるのか。ケインは疑問に思わずにはいられなかったが、今、アンを追いかけるにはこの方法しかないのも事実だった。
やがて二人は、これまでの中でも一番広い空間へ出た。あちこちから流れてきた下水が一カ所に集まる場所だ。
「どっちだ?」
ケイン一人であったら、とっくに迷い込んでしまっただろう。これではミイラ取りがミイラになりかねない。
ローラは立ち止まり、ひとつひとつの下水道を見渡した。
そのときだ。突然、下水が流れる音の他に、何か異音を聞きつけた。それは急接近し、ケインたちを身構えさせる。共鳴し合う鳴き声と鳥の大群のような羽音。
左上方より滝のように流れ落ちている下水道から、そいつらは現れた。思わず耳を塞ぎたくなるような、けたたましい鳴き声が下水道に反響する。黒い影がケインたちの頭上を覆った。
「きゃああああっ!」
「伏せろ!」
現れたのはコウモリの大群だった。下水道に巣くっていた者どもだろう。それが何かの影響で、逃げ惑うように飛んでいる。
コウモリたちは無数に乱舞した。これにはケインもたまらない。頭を抱え、やり過ごすほかなかった。
コウモリの中には血を吸うヤツもいる。このコウモリたちがそうでないことをケインは祈った。幸い、吸血コウモリではなかったようで、ケインたちに噛みつくようなことはなく、しばらくすると、また別の下水道からいずこかへ去っていった。
「ふーっ、どうやら行ったようだな」
ケインは安全になったのを見計らって立ち上がった。うずくまっているローラを立たせようとする。
ケインが手を差し伸べた瞬間だった。バサッという風が頭上から巻き降り、ケインは反射的に見上げる。その隙を突くように、ローラの身体がふわりと浮かんだ。
「──っ!?」
ケインは目を見開いた。ローラが空中へ吊り上げられようとしたからだ。
「ケイン様!」
「ローラ!」
二人は互いに手を伸ばしたが、すでに届く距離ではなかった。
ローラはコウモリの大群の中に潜んでいたジャイアント・バットによって捕獲された。
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