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勇者ラディウスの墓標

−4−

 このネフロン大陸において最も信仰の対象とされているのは創造母神アイリスだ。
 アイリスが四人の女神――ベルダ、マリス、メイヴ、トリアという四大の力――地・火・風・水――を司る女神たちと、一人の男神――識見神アデスを生み、精霊界や妖精界、そして人間たちが、今、暮らしている物質界を創ったとされている。創造母神アイリスこそが偉大なる万物の始まりであり、世界創世を為した至高神、ひいては光の化身として多くの者に崇められていた。
 片や、その息子アデスは、のちに母アイリスを裏切ったばかりか、姉たちを次々と犯して、その力を己のものとし、さらには魔界を支配する悪魔王を手引きして、世界を二分した《魔界大戦》を引き起こしたとされている。“知”を授けてくれる神であることから、多くの魔術師からは信奉されているものの、ほとんどの者からは闇の離反者として嫌悪されていることが多い。
 これらの伝承から、一部の女性聖職者<クレリック>の中から、男性を悪しき存在と見なし、彼らとともに生活することを厭う一派ができた。彼女たちは女性だけで集まり、外界からの接触を断つという排他的な信仰に傾倒して、独自の教会を造ったのである。それが女性修道院だ。信仰者はそれほど多くないものの、各地に点在している。
 ラーズにも、街の東側にゼルダ修道院が建っている。築百五十年は経過している、ラーズの街の中でもかなり古い建造物だ。修道院独自の戒律のせいで、男性建築職人の立ち入りが許されず、そのために改修もままならぬ状態だが、修道女<シスター>たち自らの努力によって現在まで保たれている。ちなみにゼルダというのは、この修道院を設立した修道女<シスター>の名だ。
 アンにとって、半年前まで寝起きしていた修道院は久しぶりに訪れる場所だった。破門されて以来、同じ街に住んではいても、まず近寄らぬようにしていたからである。特に水と油のような関係だったシスター・マチルダと顔を合わせでもしたら、自分でもどんな行動に出るか分からない。
 しかし、アンは今、修道院の前にいた。自らの意思で。メリーの失踪の原因を探るため、どうしてもここに来ないわけにはいかなかった。
 当然のことながら、ローラには心配された。一人で大丈夫か、と。
 だが、外部の者を拒絶するという特殊な環境に忍び込むには、そんなにぞろぞろと連れだって入るわけにもいかない。それにこのことは、母のドナにも、ケインにも話していなかった。ケイトからの依頼だが、彼女が報酬を支払えるはずもなく、正式な仕事として成り立たないと思ったからだ。ローラにはしばらく黙っているよう口止めしてある。せめて、アンがメリーの行方を突き止めるまでは。
「さて、そろそろ行くかな」
 夜が更けて、暗くなっている修道院の周囲を誰かに見られていないか確認してから、アンは懐かしの修道院を見上げた。
 すでに侵入経路は決めてあった。ケイトにも言ったが、何度も門限破りをしては、こっそりと戻って来たのだ。その辺は手慣れたものである。ただ、当時はその度にシスター・マチルダに見つかり、厳しい懲罰を科せられるはめになった。しかし、今回、すでに修道院から籍を抜かれたアンが忍び込もうとは、いかなシスター・マチルダも警戒していないはずだ。アンは侵入の成功を疑っていなかった。
 正門から左へ回り込んだアンは、大きな楡の木が生えている場所に立った。この楡の木は、修道院を囲む塀の内側に昔からあり、外側にもその枝を張り出している。アンが無断外出のときに利用していたのが、この楡の木だ。シスター・マチルダにはとうにバレている侵入経路だが、もう不届き者が使うことはないと思ってか、枝が切られることもなく、以前と同じまま残っている。アンは内心、ほくそ笑んだ。
 修道院の塀から離れると、アンは思い切って助走をつけた。足がかりなど何もない塀に飛びつくと、右足と左足を素早く交互に出して駆け上がり、頭上に張り出した楡の木の枝に身体を伸ばしてしがみつく。まるでネコのような俊敏さだ。聖魔術<ホーリー・マジック>などの修業には不真面目だったアンだが、こと体術に関しては自信がある。いざというときに自分で自分の身を守るのも修道女<シスター>としてのたしなみであった。
 ぶら下がった状態から身体を振って上に登ると、アンは枝伝いに移動した。侵入成功。着地もきれいに決まった。
 念のため、アンは修道院の様子を窺ってみたが、誰かが侵入に気づいた気配はなかった。普段から外の世界と隔たって生活している修道女<シスター>たちにとって、修道院の中にいれば安全だという意識があるせいだろう。見張りを立てるような警戒心を日頃から持ちあわせていないのだ。それは忍び込む身としては有り難いことだが、自分たちの世界だけで満足してしまっている修道院の生活には、どうしても釈然としないものが心の中にわだかまるアンだった。
 だが、今はそんなことを考えているときではなかった。アンは行動を起こす。目指すは礼拝堂だ。
 メリーが寝起きしていた部屋も調べたいところだが、そこにはアグネスという、もう一人の修道女<シスター>見習いがいる。いくら熟睡していても、彼女に気づかれずに調べることはできないだろう。それにメリーの部屋には、目ぼしい手掛かりはないだろうとも踏んでいた。メリーは自分の意思で部屋を抜け出したと思われるからだ。そのことは着替えの修道衣を持ち出したことからも分かる。異変が起きたのは、その修道衣が残された礼拝堂だ。持っていた修道衣を置いていかなくてはならない突発的な出来事がメリーの身に起きたに違いない。
 勝手知ったる何とやら、アンは足を忍ばせながら礼拝堂に向かった。修道女<シスター>たちは全員就寝しているらしく、誰かに気づかれる心配もない。不用心だなあ、万が一、賊でも侵入したらどうするんだろう、という他人事のような心配をしながら、アンは中庭を突っ切った。
 礼拝堂もまた、アンが出て行ったときのまま、何ら変わることなく建っていた。唯一の入口である扉に鍵がかかっていないことは先刻承知。それでも用心に越したことはなく、アンはそっと音を立てぬよう気をつけながら扉を開けた。
 夜、外を出歩いていた過去を持つアンも、さすがにこんな時間に礼拝堂を訪れたことはなかった。一夜の間、ずっと灯されたままになっているロウソクの明かりが暗闇の中に浮かび上がり、ひっそりと立つ創造母神アイリスの神像を照らしている。昼間とは違う不気味な雰囲気に、アンは呑まれそうになった。
 しかし、度胸だけはあるアンのこと、すぐに気を取り直すと、礼拝堂の中に足を踏み入れた。扉はそっと閉めておく。そして祭壇に近づき、燭台からロウソクを一本拝借した。明かりにするためだ。
 まず、アンが調べたのは、メリーの修道衣が残されていたという長椅子だ。もちろん、今は誰かの手によって回収されていて修道衣はないが、場所はケイトから聞き出してある。アンはロウソクの火を教えられた長椅子に近づけてみた。見たところ、何の変哲もない、ただの長椅子だ。普段、儀礼が行われる際に修道女<シスター>たちが座るものである。傷みはあるが、それは他のも同様だ。
 続いて床も調べてみたが、目ぼしい発見はなかった。血痕でもあれば、メリーがここで襲われたという確証が得られたのだが、もちろん、そんなものはない。シスター・マチルダらにしても、そのくらいは調べたであろう。争った形跡が発見できなかったからこそ、メリーが実家に戻ったと結論づけたに違いない。
 それでもアンは諦めなかった。まだ、シスター・マチルダたちが見落とした何らかの形跡が残っているかもしれない。アンはひとつひとつの長椅子と、その下の床を丹念に調べて回った。
 バン!
 突然、荒々しく礼拝堂の扉が開けられた。そのとき、アンは長椅子の間に這いつくばるようにして床の上を調べていたので、その者に姿を見られることはなかっただろう。しかし、ビクッとした途端、手にしていたロウソクの蠟がアンの指に垂れた。
「アチッ!」
 思わず口を抑えかけたが後の祭り。礼拝堂に入って来た人物に自らの存在を教えてしまった。――もっとも、どの道、持っていたロウソクの明かりで位置を知られただろうが。
「出て来なさい、シスター――いえ、元・修道女<シスター>のアン!」
 落ち着きの中にも癇癪めいた響きの混ざった叱責が聞こえた。忘れもしない声。しかも、こちらの正体までバレているときた。
 アンは立ちあがった。幾分、硬い表情で。
 一人の修道女<シスター>が戸口でため息をついた。
「やはり、あなたでしたか」
 それは修道院時代のアンの天敵、シスター・マチルダだった。相変わらず上を向いた鷲鼻と冷徹に見下す灰色の瞳。ついつい、昔の反抗心がアンの中で燃え上がる。
「私だという確証はなかったんですね?」
「確証はありませんでしたが、確信はありました」
 シスター・マチルダは怒りを封じ込めようとしながら、努めて冷静に言い放った。
「確信?」
「あの楡の木を使った手口はあなたのもの。他の者では、なかなか真似できないわ」
 それは褒められているのだろうか。そんなわけはないか、とアンは思い直す。
「どうして私がここへ来たと分かったんです?」
「ああ。あなたには黙っていたけど」
 ここでシスター・マチルダは少しだけ口許を緩めた。皮肉という形で。
「――あの木には細い糸が結いつけてあって、誰かが登ったりすると、私の部屋の鳴子が鳴るような仕掛けになっていたのよ。だから、あの当時も、あなたが帰って来ると、すぐ私には分かったものよ」
「きったねえ……」
 破門された今でさえ知らされなかったそんな仕掛けが施されていたことに、あまりにも悔しかったアンは、いくら元とはいえども、聖職者の端くれらしくない言葉を口にした。その途端、シスター・マチルダに険しい目で睨まれてしまう。
「それにあなたが来ることは予想ができました。あなたを呼んだのはシスター・ケイトでしょう? あの娘はシスター・メリーのことで納得していないようでしたから」
「………」
 アンはケイトから話を聞いたことは黙っていた。どんな目に遭わされようとも親友を売るような真似はしない。
「シスター・メリーは、故郷恋しさに田舎へ帰ったのです。何も心配するようなことではありません。それに、今のあなたは部外者。勝手に修道院の中に入るとは何事ですか」
「でも、シスター・マチルダ、メリーは――!」
「どうしたのですか? こんな夜更けに騒がしい」
 二人が言い争っているところへ、新たな来訪者が現れた。ランタンを手にした年配の修道女<シスター>だ。それはアンにとっても懐かしい顔だった。
「マザー・ジャクリーン!」
「おや、あなたは?」
 現ゼルダ修道院の最高指導者マザー・ジャクリーンは、マチルダと口論している相手がかつての教え子だと気がついた。
「シスター・アンではありませんか。まあ、昔と変わらず元気なこと」
「御無沙汰しております、マザー・ジャクリーン」
 アンは丁寧に挨拶した。修道院時代、マザー・ジャクリーンには色々と世話になっている。アンがマチルダに叱責されると、それを取りなしてくれるのがジャクリーンだった。マザーと呼ばれるとおり、この修道院ではすべての修道女<シスター>たちの母のような存在である。
 シスター・マチルダは慇懃に一礼した。
「マザー、眠りを妨げてしまいまして申し訳ございません」
「構いません。それより、これはどういうことなの?」
「はい、すでに破門の身である彼女がこの礼拝堂に忍び込みまして……」
 マチルダはチラッとアンを一瞥した。マザー・ジャクリーンの手までわずらわせることになり、苦々しく思っているようだ。
 だが、ここはアンにとってチャンスだった。
「マザー・ジャクリーン! 私はいなくなったシスター・メリーのことを調べに来ました!」
「シスター・メリーの?」
「アン、お黙りなさい!」
 アンはマチルダに制止されそうになったが、それに構わずジャクリーンに訴え出た。
「私はメリーが田舎へ帰ったのではなく、彼女の身に何かが起きたのだと思います! そうだとしたら、一刻も早く彼女を見つけないと――」
「シスター・マチルダからは、そのような事件性はないと聞いておりますが」
「そのとおりです、マザー」
 マザー・ジャクリーンの言葉に、シスター・マチルダはうなずいた。
「そう決めつけるのは早計です! ちゃんと調べてみないと――」
「調べる? それで何か見つかったのですか?」
「それは……」
 調査はシスター・マチルダの登場により、まだ途中だった。今のところ、メリーに凶事が起きたとは結論づけられない。
「もう少し私に時間をください! そうすれば――」
「いい加減になさい!」
 シスター・マチルダがアンを一喝した。その迫力に、さすがのアンも口をつぐむ。シスター・マチルダはジッと、かつての教え子に冷ややかな目線を注いだ。
「あなたは自分が何をやったのか分かっていないのですか? 部外者が無断で修道院に立ち入ることは禁じられています。このことだけでも、すぐさま官憲に突き出してもいいのですよ」
 脅しではなかった。シスター・マチルダなら本当に官憲を呼びかねない。そうなればアンは拘束され、留置所に放り込まれるだろう。そうなれば、しばらくの間、調査も出来なくなってしまう。アンは唇を噛んだ。
 マザー・ジャクリーンも同情の眼差しを向けながら、
「アン、今夜のところはおとなしくお帰りなさい。そして、シスター・メリーのことは心配しないように。私はシスター・マチルダの判断を信じています」
 これ以上はここにいられそうもなかった。アンはマザー・ジャクリーンに一礼して、礼拝堂から出て行く。相当な屈辱感を味わいながら。外へ出るまで、シスター・マチルダの視線が背中に突き刺さるのをアンは感じていた。


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