野崎は夢でも見ているような気分になってきた。見知らぬ小学校で授業を受けようとしている自分。それを平然と受け入れてくれる周囲。これは普通じゃない。奇妙な出来事だった。
名前を呼び終わると、教師は出席簿を閉じ、教室にいる生徒たち──つまり、野崎たちの顔を一通り見回した。
「さて、今日は皆さんお待ちかねの授業参観の日だ」
すると教室が期待感のようなものでざわついた。教師は両手で押さえるようなジェスチャーを見せながら、
「まあまあ、待ちなさい。今、皆さんのお母さんたちに入ってもらおう」
となだめ、扉から顔だけを廊下に出し、
「お母さん方、どうぞ」
と招いた。
一斉に皆が教室の後方を振り返る。何事かと思い、野崎もそれにならった。
すると教室の後ろの扉が開き、続々と女性たちが入ってきた。年齢は様々。二十代くらいの女性もいれば、野崎と同じくらいの者もおり、また逆に年寄りもいた。
そんな女性たちに対し、教室の皆が手を振り、「お母さーん!」だの「母ちゃん!」だの、様々な声が乱れ飛ぶ。その呼び方は様々だったが、どれも「母親」を意味した言葉ばかりだった。
野崎はその光景を見て愕然とした。じゃあ、「授業参観」というのは……。
「もう分かったでしょ?」
隣の土屋が囁くように言った。「この教室の人たちは、すでに何らかの形で母親を失っているのです。でも、月に一度、満月の晩にこの学校へ来れば会えるのです。死に別れた母親にね。野崎さんにも覚えがあるでしょう? 授業参観に来てくれた自分の母親に胸を躍らせた覚えが。こんな歳にもなってと思われるかも知れませんが、母親への憧憬はいつになっても忘れられないものでしょう。特に男はその傾向が強い」
野崎は思わずうなずいてしまった。
だから早くに亡くなった母親は、見た目、息子よりも若く見えることもあり、年齢層がバラバラなのだろう。それでも子供にしてみれば母親は永遠の存在でしかない。どんなに大人になろうと普遍なのだ。
「ほら、あそこにいるのが私の母です」
土屋が指を差して教えてくれた。年齢は野崎くらいか。なるほど土屋にそっくりだ。
その隣の人物を見て、野崎はドキッとした。母がいる。野崎の母キヌが。
「か、母さん……」
苦労に苦労を重ねた母の年老いた顔を見た途端、野崎の目から涙があふれ出た。母には話したいことがたくさんあった。詫びたいことがあった。実家の土地を売らざるをえなかった後悔。借金の苦しみ。周囲の冷たい目。それらが頭の中を駆けめぐり、感情の津波となって野崎を嗚咽させた。
「はい、皆さん、静かにしてください。あとでたっぷりお母さんたちと話をさせてあげますから、今は授業に集中してください!」
教師が皆に呼びかけ、授業を開始しようとした。多くはそんな注意など聞いていなかったが、母親たちに促され、結局、前へ向くことになった。それでもチラチラと後ろを振り返る者は絶えず、授業への注意力など散漫だった。
授業は国語、算数、音楽の三科目だった。と言っても、どれも小学生低学年レベルのものばかりで、本来なら馬鹿馬鹿しくさえ思われる。しかし、母親の手前ということがあるのか、皆、一生懸命に教師の質問に答えた。
国語は読みとりだった。三番目に指名された野崎は、大声でひらがながほとんどの教科書を読み上げた。読み終わると教室の生徒たちはもちろん、その後ろで見守っている母親たちも拍手してくれた。その中に母キヌの姿も認め、野崎ははにかんだ。
算数も暗算できそうなくらい簡単な問題ばかりだった。今度は土屋が黒板の問題を解くことになり、白墨で数字を書き込んだ。もちろん間違えようもなく、教師から花まるをもらう。
最後の音楽は唱歌の合唱だった。もう何十年も歌っていない歌詞だったが、記憶は鮮明に残っていた。オルガンの伴奏でがなるように歌う。母親たちも歌ってくれた。授業参観は本当に子供時代に戻ったかのようで、しばらくぶりに心を弾ませた。
「では、最後にお母さんたちとお別れをしてください」
歌い終わった後、教師はそう言って、教室を出ていった。
それぞれの席に母親たちが近寄っていく。皆、嬉しそうでもあり、哀しそうでもあった。
「母さん」
野崎は最初、まともに母の顔を見られなかった。自分がしてしまったことを母に話せない。許して欲しい思いがある一方、それを話す勇気がなかった。
「母さん」
それ以上は言葉が詰まって、野崎は泣くだけだった。どれくらい久しぶりに涙を流しただろう。本当に子供の頃に戻ったかのように泣いた。
そんな野崎を、母のキヌは抱き寄せるようにした。
「いいんだよ、昭平。アンタのやりたいようにやればいいんだ」
「でも……でも、母さん……」
「どのみち、父さんが死んでからは母さん一人で住んでいたんだ。その私も死んだのなら、あの土地をどうしようとも一人息子であるアンタの自由だよ。私にいちいち断る事じゃない」
「ごめんよ、母さん。オレが不甲斐ないばかりに……」
「何を言うんだい。それでアンタが助かるなら、あんな土地の一つや二つ、なんてことないよ。いいかい、昭平。母さんの望みは、アンタがちゃんと幸せに暮らしてくれることさ。どんな親でも願っていることだけどね。もう泣くのはおやめ。アンタはまだまだ生きなきゃいけないんだ。生きるって事は楽しいことばかりじゃない。辛いことだってある。それを全部ひっくるめて生きるって事なんだよ」
「………」
野崎は改めて、年老いた母の顔を見た。母はイメージの中に常にある笑顔を見せながら、そっと野崎から離れた。
「そろそろ授業参観も終わりだね」
見れば、周囲の者たちも自分の母親に別れを惜しんでいた。授業参観という特別な授業は終わったのだ。本来、学校は子供たちのいるべき場所。その母親が訪れることはあまりない。だが、実際の授業参観と違うところは、例え学校が終わって家に帰っても、来てくれた母親はいないのだ。学校での出来事を話そうと思っても、同級生の母親について話そうと思っても。それは長い長い別れになる。
「最後に立派になったアンタの姿が見られて良かったよ」
母は満足そうだった。野崎は泣き笑いのような表情を浮かべ、教室から出て行こうとする母を見送った。
「さよなら、母さん」
母も手を振りながら、
「達者で暮らすんだよ」
と別れの言葉を口にした。他の母親たちに押し出されるようにして、キヌは教室を出て行った。姿が見えなくなっても、野崎は手を振り続けた。いや、野崎だけではない。土屋はもちろん、教室のみんながそうだった。
最後の一人が退室して行った。
にぎやかな教室は急に火が消えたような寂しさが残った。皆、力が抜けたように席に着くと、すすり泣いたり、暗く沈んだりしていた。無邪気で元気な子供から、本来の生活に疲れた大人に戻ったようだった。
だが、野崎一人は違った。笑っていた。顔に生気が戻ってきた。
母は幸せになれと言った。野崎はそれに答えようと思った。
「ありがとう、母さん」
野崎はそう呟くと、濡れた頬を拭い去った。